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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

肩肘を開く目的

 人間という動物の特技は、物を掴んだり投げたりと器用に前足を駆使できること。
 その器用な前足を上手く使えば、歩きながらおにぎりを食べたり、走りながら勢いを付けて物を投げたりすることもできます。
 
 歩きながらおにぎりを食べるときは前足だけが独立した動きをする必要があるので、歩いている全身の勢いが前足に伝わってしまわないように、動作の連動を分断してしまわないといけません。
 その反対に、走りながら勢いを付けて物を投げるときは勢いを分断してはならず、全身の動作をいかになめらかに連動させられるかが課題になります。
 
 その際、下半身や胴体の動作の勢いを前足にまで伝えるかどうかは、肩や肘の角度によって切り換えることが可能です。
 和太鼓で言うならば、全身の勢いを前足にまで連動させたいときは肩肘を開かずに、両方の左右の間隔を肩幅より狭い範囲で肩甲骨から操作すれば良いです。
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 全身の勢いを前足に伝えたくないときは、胴体を動かさずに肩肘を左右に開いたり肘を後ろに引いたりすると良いです。
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 肩肘を左右に開いた方が前足を器用に使いやすいので、多くの太鼓打ちは肩幅よりも広めに肘を広げがちです。
 その分全身の勢いは胴体の硬直によって手先に伝わり辛くなっているので、肩肘を開いている太鼓打ちは「胴体のブレーキに負けないくらい激しく下半身を躍動させる」という路線か「下半身を微動だにせずに手先だけで太鼓を打つ」かの二択を迫られます。
 
 ですが、私個人は全身の勢いを連動させつつ打つことにこだわっていますので、肩肘を開かずに「全身の勢いを無理なく伝えながらバチを転がす」というより難易度の高いハードルに挑戦しています。
 全国各地のお祭り芸能の中には一時間ほど演奏し続けるようなものもあり、小手先だけに負担をかけないよう全身を上手く連動させて使う技術が暗黙のうちに共有されている場合があります。
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 そういった芸能を分析した結果、手のひらや指の動きを工夫すれば、肩肘を開かずに全身の勢いを無理なく伝えながら細かいリズムも打ち分けられることが分かりました。
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 こうした発見を太鼓仲間に広く伝えていくことが、私の関心事です。
 そのために制作しているのが「確かな重心操作を活かす打法を身に付けるためのドリル」というもの。
 肩肘を開かない合理的な身体操作による和太鼓の打法を、これからも着々と広めていきたいですね。

生み出した不快感のツケ

車両内のマナーを言い立てる人たちは、要するに、「定型的な規格にハマれない人間」に苛立っているのだと思う。
 
たとえば、ヘッドフォンステレオから漏れるチャカチャカ音をうるさがる人たちは、騒音そのものに不快を感じているのではない。
彼らは、本来なら小さく縮こまって過ごすべき通勤列車の中で、ノリノリで音楽を聴いている若いヤツのその快適そうな状態を憎んでいる。
彼らからすれば、音楽を聴いてゴキゲンになることや、周囲の目を気にせず化粧に専念することは、公共の場所にプライベートを持ち込む逸脱行為なのであって、だからこそ彼らは通勤電車という人間が荷物になり変わって運搬されなければならない閉鎖空間の中でくつろぐ人間を嫌うのである。
 
おそらく、日本人のうちの半分ぐらいは、リラックスした人間を憎んでいる。
誰もが自分たちのように、びくびくして、周囲に気を使って、神経をすり減らしているべきだと考えている……というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、撤回はしない。
 
 これは、エッセイスト小田嶋隆日経ビジネスオンライン上で連載している「ア・ピース・オブ・警句~世間に転がる意味不明」にて、2016年10月28日に掲載した「車内の化粧は誰に迷惑なのか?」という記事から抜粋したもの。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/102700067/
 ここでは東急電鉄のマナー広告に対するインターネット上での炎上騒動を扱っており、彼はことの概要を以下のように描写しています。 
http://ii.tokyu.co.jp/tokyusendiary/index.html
 
電車内で化粧をする女性を「みっともない」という言葉で切って捨てるマナー広告が物議を醸している。
 
現物を見てみよう。
炎上しているブツは、リンク先のページ(私の東急線通学日記)の上から4番目、「車内化粧篇」だ。
  
リンク先には、駅貼りポスター と、動画バージョン(マナーダンス篇)が掲載されている。
 
ポスター版では、上半分に頬杖をついて車両内を観察する主人公の女の子、下半分に電車の座席に座って鏡に向かってアイメイクをしている女性の写真を配置している。
 
キャッチコピーは、手書き文字でこう書かれている。
「都会の女はみんなキレイだ。」
「でも時々、みっともないんだ。」
 
動画版は、車両の向かい側の座席で化粧をする女性たちを見て、顔をしかめて「みっともな!」とつぶやいた(「吐き捨てた」と言った方が正確でしょうね)主人公の女の子が、突然メイクアップ中の女性たちに向かって「マナーダンス」という攻撃的な振り付けのダンスを踊り出すプロットだ。
 
ダンスのBGMで流れる音楽には歌詞がついている。
内容は「教養ないないないなーい。みっともないないないなーい」と、化粧する女性を断罪するコーラスだ。
 
この広告を見て、ツイッター上には、かなりの数の女性が反発のコメントを書き込んでいる。
 
「ポスターの中で化粧をしている女性は、隣に誰も座っていない空いた車両でメイクをしているんだけど、いったい誰に迷惑をかけているわけ?」
「女性だけに『たしなみ』を求める姿勢がなんかいけ好かない」
「こういうマナー広告って、新手の嫁いびりよね」
 
 この炎上騒動に対する彼なりの分析の大前提となるのが、冒頭で紹介した「日本人のうちの半分ぐらいは、リラックスした人間を憎んでいる」という現状認識。
 車内でのマナー違反をやたらと指摘したがる人たちは、 誰もが自分たちのように周囲に気を使って神経をすり減らしているべきだと考えており、そうした口うるさい人々の存在が鉄道会社にこの広告を作らせることになったと、以下のように分析を続けます。
 
以上の事情を踏まえて、私が思うのは、「いったいこの広告は誰に向けて発信されているのだろうか」ということだ。
 
ポスターは、現実に東急の電車の車内で化粧を励行している女性たちに向けて、「あなたたちが実行しているメイクアップ行為はほかの乗客の迷惑だからやめてください」ということを啓発するために掲示されているのだろうか。
おそらく答えはNOだ。
 
この広告は、むしろ、車両内で化粧をする女性に腹を立てているおっさんに向けて、「ほら、わたくしたちは、このようにちゃーんと啓発広告を打って迷惑防止キャンペーンを展開しているのですよー」ということをアピールするために制作されている。
つまり、これはアリバイなのだ。
 
であるからして、ポスターや動画を見て腹を立てた女性たちも、「化粧ぐらいでガタガタ言うなよ」と言いたかったのではない。
彼女たちは、鉄道会社が「ほーんと、近頃の若いオンナって常識なくてイヤですよねー」ってな調子で爺さんたちに媚びを売っている気配を感じ取って、そのことに反発したのである。

向上心の行方

 私の和太鼓のキャリアは15年ちょっと。
 その和太鼓のキャリアの中で、私の向上心は以下のように移り変わっていきました。
 
 まず最初のころは「いろんな曲を覚えたい」というだけでしたが、和太鼓を初めて2年目に長野の歌舞劇団田楽座から教えを受け、ただ曲を覚えるだけでなく「いろんな曲をしっかり全身で打ち込めるようになりたい」と目指すようになります。
 その頃は幸運にも同じような熱量を持った太鼓仲間が周囲に何人もいたため、「仲間たちと高いレベルで気持ちいい演奏をしたい」という目標も同時に持つことができました。
 
 それから自分のチームにも後輩が入ってくるようになり、3~4年目からは指導者的な立場で「気持ちのいい演奏をするために後輩たちを磨きあげたい」という目標を持つようになります。
 自分のチーム内に、高いレベルで囃しあえる仲間と、打てば響いてくれる後輩たちが何人もいたこの時代は、私の太鼓人生の中でも一番輝いていた青春期です。
 
 和太鼓を始めて4年目からは田楽座の魅力をもっと伝えたいと思うようになり、他団体との交流を盛んにするようになります。
 この時期から徐々に、気心の知れた仲間たちと演奏を楽しむだけでなく、「他団体との合同演奏の場を盛り上げることを通じて思いっきり遠慮なく演奏する楽しみを広げたい」という難しい目標にトライし始めるようになります。
 
 そんな活動を福岡でしばらく続けるうちに福岡の太鼓仲間の輪も大きくなり、さらに別の視点からの目標は持てないものかと模索し始めるようになります。
 そうして9年目にはいったん福岡を離れ、関西を拠点に東海や関東などの和太鼓の現状を観て回りました。
 
 その中で「和太鼓をやってみたい」と訴えかける人に出会い、謀らずも「和太鼓に触れたことがなかった人達を集めて太鼓チームを一から作り上げ、太鼓好きの人口増加に貢献したい」という目標を抱くことになります。
 そうして西宮と福岡に和太鼓チームを作り、自主的に活動していけるようになるまで育てようとしていきました。
 
 そして15年目になる現在、目標としているのは、これまで草の根的に普及に努めてきた「全身で思いっきり演奏する楽しみ」が自分のいない場所でも勝手に広まってくれるような仕組みを考えること。
 その根本となるのが「確かな重心操作を活用する打法」を身に付けることだと私は考えているのですが、丁寧なレクチャー無しにはなかなか身に付け難い技術なので、今のところは上手くいっているとは言えません。
 ですから、近いうちに「確かな重心操作を活用する打法」を習得するための分かりやすいマニュアルをまとめ上げ、全国の仲間たちに手渡していけたらと思いながら、日々研究を繰り返しているところです。

確かな重心操作を活用した打法を身に付けるためのドリル

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 和太鼓を観るときの私の着眼点は、打ち手が確かな重心操作を演奏時に活用できているかどうか。
 世のほとんどの和太鼓打ちは和太鼓を打つときの重心操作への意識が雑なので、重心操作の勢いをしっかり一打一打へと反映させられている打ち手を見つけたときには嬉しくなります。
 
 そんなこだわりを持つ私が、2ヶ月ほど前から開発を進めているのが「確かな重心操作を活用する打法を身に付けるためのドリル」というものです。
 「重心操作を活かす」という意識を持たずに和太鼓に打ち込んできた太鼓打ちに対して、それまで身に付けてきた和太鼓への先入観を書き替えるのは至難の技。
 和太鼓での重心操作の活かし方を質問してくる人はこれまで大勢いましたが、やり方を数回聴いただけの人は元の雑な打ち方に戻ってしまうことがほとんどで、修正作業を繰り返しながら何度もレクチャーした人にしかしっかりと身に付けさせることはできませんでした。
 
 関西のいくつかのチームに顔を出し、九州や関東でも指導することがある私にとっての悩みは、「修正作業を繰り返しながら何度も丁寧にレクチャー」という手間のかかるワークを複数の場所で実現させるのが難しいということ。
 そこで思い付いたのが、確かな重心操作を活用するために必要なステップを「真下に引っこ抜く」「重心のバウンド」「背伸びと蹴りこみ」「体幹でバチを操作」「バチを転がす」「自由の女神ポーズ」「上置き⇔下置き」「自在に使い分け」の8段階に細分化し、それぞれの段階で起こりうる「間違った理解」を修正していけるようなドリルをある程度までマニュアル化してしまうことです。
 
 準備しているのは、8種類のドリルのために必要なテキストと、実際のレクチャーで使える掲示用の模造紙と、復習用に解説を加えたYouTube動画を31本。
 これらを活用して、確かな重心操作を演奏時に活用できる和太鼓の打ち手を大勢育てていけたらなあと企んでいるところです。
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受け継がれていく祭り

 昨日は田楽座福岡公演「祭り芸能楽 信濃」の上演日でした。
 信州伊那谷を本拠地として活躍する歌舞劇団田楽座の活動理念は、土の香、人の情け、ふるさとをこよなく愛して、というもの。
 そんな田楽座の活動の集大成とも言える創立50周年作品「信濃」の中にも、「祭りをいかに受け継いでいくか」という普遍的なテーマが分かりやすく描かれています。
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 2部構成の舞台の第1部「信濃の故郷」では、田楽座が50年以上も根を下ろしてきた長野県の唄やお囃子や獅子舞や舞などを通じて信州人のスケールの大きさやたくましさや繊細さなどを紹介し、信州のお盆の情景を描いた「盆の亡者 現世参り」とい
う歌舞劇で締めくくられます。
 このお芝居では、何十年も前に亡くなってお盆に久しぶりに故郷に帰ってきた若者が「自分の生きていた頃」とはまるで変わってしまった故郷の様子を嘆きながらも、それでも変わらずに残っていた盆踊りの存在を心の拠り所にして「また来年のお盆も帰ってこよう」とその故郷愛を再確認していきます。
 時代の移り変わりとともに継続が難しくなってきているお祭り芸能は少なくないですが、ふるさとに芸能を残していくことの意義を死者の目線から描くことで、全国各地のお祭り芸能の担い手たちにエールを送っているのです。
 
 そして第2部の「田楽法師~西へ東へ~」では、全国各地の唄や踊りや囃子や特色溢れる太鼓の数々を目一杯紹介しています。
 田楽というのは田植えを囃す音楽のことで、その田楽を演じていた職業的芸人を田楽法師と呼びました。
 この田楽法師が色々な地方で田楽を演じて回ったことをきっかけに、広まっていった芸能の種もあるということです。
 
 そして、各地に芸能の種を蒔いていった田楽法師の在り方こそが、歌舞劇団田楽座の目指す方向性。
 移り変わりゆく現代社会の中で、各地に残されている民俗芸能の魅力を広めるべく、公演活動や技術指導などを全国各地で行っています。
 このように「現代の田楽法師」として生きる田楽座の生き様を、第2部では存分に表現し切っていました。
 
 そしてアンコールは、福岡で田楽座を応援している実行委員会「田楽座福岡の会」とのコラボ演奏。
 演奏されたのは田楽座が福岡の実行委員会のオリジナル曲として作曲した「踊り囃子にぎまつ」という、笛と太鼓と踊りの賑やかな楽曲。
 満員御礼の会場を何十人もの実行委員たちがぐるりと取り囲み、第1部で観た盆踊りを彷彿とさせるような輪踊りが披露されて、舞台は大団円を迎えました。
 
 こうした田楽座オリジナル曲は、福岡・兵庫・奈良・静岡・神奈川と様々な地域で受け継がれており、それぞれの地域のファンたちが地元の新たな芸能として根付かせようと精力的に活動しています。
 日本には受け継いていくべき芸能があることを伝えるのが第1部であり、その大切な役割を田楽座これからも続けていくという決意表明が第2部だとすれば、アンコールのコラボ演奏はその成果の一部を見事に体現すものになっていました。
 
 この公演で初めて田楽座を観た教え子にもお祭り芸能の魅力が伝わったようで、紹介してくれてありがとうという感激の声をいただくことができました。
 それほど知名度の高くない田楽座ですが、日本の民俗芸能の魅力を全身全霊で伝えてくるその舞台は必見です!
 
 
2016/10/30 (日) 長野県 長野市
「田楽座と夢の共演」
舞楽鼓と南京玉すだれシスターズとその一座
会場 長野市勤労者女性会館しなのき
開演 14:00
一般(高校生以上) 1500円
小・中学生 1000円
お問い合わせ
和太鼓衆 呑舞楽鼓 090-4825-6249
南京玉すだれシスターズ 090-2737-4572

2016/11/26(土)岐阜県 高山市
高山市制施行80周年記念
歌舞劇団田楽座 高山「初」公演 
会場 丹生川文化ホール
開演 14:00  開場 13 : 00
ペア券 4500円(前売限定)
大人  2500円
子ども(3歳~高校生) 1000円
当日各500円増
主催/観に行かまいかな田楽座
 
2016/12/11 (日) 長野県 中川村
信濃に生きて50年 田楽座 中川村公演
会場 中川村文化センター
開演 15 : 00 開場 14 : 00
一般 2500円
小中高 1500円 (当日各 500円増)
主催/田楽座

2017/1/15 (日) 長野県 大町市
信濃に生きて50余年 まっちゃん追悼 in大町公演
会場 大町市文化会館 開演 14:00 開 場 13 : 30 大人 3500円 子ども(小中高) 1500円 (当日各500円増)
主催/田楽座を大町で 楽しむじゃね~会

2017/1/29 (日) 愛知県 名古屋市
田楽座×大須演芸場
会場 大須演芸場
開演 昼の部 14:00 夜の部 18:00
開場 各30分前
一席 2800円 (当日500円増)

2017/2/12 (日) 岐阜県 中津川市
まっちゃんを偲んで 田楽座中津川公演
会場 中津川市中央公民館
開演 13:30
大人 3000円 小中高 1500円
主催/田楽座中津川公演実行委員会
代表 安保洋勝(あぼ兄)

2017/2/19(日) 栃木県 宇都宮市
DENGAKUZA LIVE@宇都宮パルティ
会場 とちぎ男女共同参画センターパルティホール
開演 14:00 開場 13:30
一般 2000円(中学生以上) 小学生 1500円
幼児 1000円(3歳以上)
全席自由(当日各500円増)
主催/田楽座
 
2017/3/5 (日) 東京都 葛飾区
DENGAKUZA LIVE@葛飾シンフォ ニーヒルズ
会場 葛飾シンフォニーヒルズ 開演 昼の部 15 : 00 夜の部 19:00
開場各30分前
一般 3000円
3歳未満無料
(当日 500円増)
主催/田楽座
 
2017年3月26日(日)
群馬県みどり市大間々町
田楽座 ながめ余興場公演(3回目)
会場・・・ながめ余興場
開場・・・13時30分
開演・・・14時
ペア券・・・4500円
大人・・・・・2500円
こども(小中高)1000円
未就学児・・・無料
当日各500円増
主催・・・田楽座ながめ余興場公演実行委員会「ながめでんがく」

薄っぺらな和太鼓から脱け出すための三大視点

 趣味としての和太鼓がそこそこ人気があるわけの一つに「誰が叩いても大きな音が鳴る」という点があります。
 とにかく打てば音が鳴るから楽しい、いろんなリズムが打てるようになることが楽しい、みんなでポーズなどを揃えて演奏すると誉めてもらえるのが楽しい、いろんな曲を覚えていくのが楽しい。
 初心者が考える和太鼓の楽しさと言えば、大抵はこのようなものでしょう。
 
 しかし、こういった分かりやすい楽しさだけを追いかける性分の持ち主は、新しく覚える曲のレパートリーが尽きてしまうと「自分の成長を感じられる機会」がなくなってマンネリ化してしまうという残念な傾向があります。
 和太鼓の教室を運営している友人からも、「これまで教えてきた曲すらまともにできていないのに新しい曲ばかりすぐに求めてくる」という愚痴を聴くことが多いです。
 そんな愚痴を聴いているときに思い付いたのが、和太鼓の目標の持ち方を「刺激・調和・変化」の3つの角度から捉えるというアイディアです。
 
 刺激とはそのパフォーマンスの迫力や躍動感や奇抜さといった要素のことで、刺激が少ないパフォーマンスは「つまらない」と見なされがちです。
 調和には、リズムやメロディやテンポなどの物理的な調和に加え、プレイヤー同士の息の合い方やオーディエンスとの共感の深さといった精神的な調和とがあり、この調和が足りないパフォーマンスは「気持ち悪い」と受け止められます。
 最後の変化はパフォーマンスのバリエーションのことで、変化に乏しいと「同じことばかりやっている」と飽きられることがあります。
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 和太鼓における成長とは、刺激を縦軸、調和を横軸、変化を高さの軸と見なすような立体的なもの。
 見識の浅いプレイヤーの脳内には変化という高さ軸の上に新曲を次々と積み上げることしかなく、たとえ同じ曲をやるにしても「より調和のとれたきもちいいパフォーマンスにしよう」とか「より刺激的で面白いパフォーマンスにしよう」といった縦軸や横軸の視点が疎かなのです。
 さらに言うならば、次々と新曲を求めたところで似たような曲のバリエーションを増やすだけでは「変化」の豊かさという軸さえも大して伸びなかったりします。
 
 また、曲をただ覚えるだけでは飽き足らないという上昇志向の高い和太鼓プレイヤーたちが真っ先に飛びつくのが、迫力や躍動感や見た目の派手さといった「刺激」の強さ。
 そして、現代人が刺激を強化するために選びがちな手っ取り早い手段が、太鼓の巨大さ・太鼓の台数といった物量や奇抜なファッションや音響照明や凝った舞台装置といった金で解決できる要素です。
 こういった物質的な要素以外では、リズムの細かさやテンポの速さや鍛え上げられた肉体美といった単純に見せ付けやすそうな要素が追求されがちです。
 
 しかし、各地に伝わるお祭り芸能の担い手たちは、こうした現代の和太鼓プレイヤーにありがちな努力の方向を、そこまで大事な要素だとは見なしていません。
 なぜなら、彼らがもっとも重要視しているのは祭りの趣に貢献できる聴き心地の良さであり、上に挙げたような短絡的な刺激ばかりを求めているプレイヤーたちの演奏が往々にして雑で乱暴で聴いていて「調和」に欠けるからです。
 彼らも刺激の強さを求めること自体はありますが、それはその地域でしか育まれなかった個性的な流儀だったり、無駄のないしなやかな動作のキレの良さだったり、筋力まかせの不自然な打ち方では実現できない音の重みや深さだったりします。
 
 彼らは現代の和太鼓プレイヤーのように、むやみに新しい曲に手を出そうともしません。
 それはそのお囃子や太鼓自体が、お祭りを構成する神事・山車・神輿・出店といったさまざまな要素の一つとして存在しており、お祭り全体で見れば十分変化に富んでいるから。
 演奏だけで全ての「変化」をプロデュースしなければならない現代のステージ和太鼓とは違い、民俗芸能の担い手は定まった演目の「調和」と「刺激」の質の向上のみに一生を傾けることができるのです。
 
 そんな民俗芸能の担い手たちが実現している、地元ならではの奇抜な流儀や無駄のないナチュラルな動作がもたらす刺激や、共同体の中で培われてきた物理的かつ精神的な調和の深さを追求しているのが、私が師と仰ぐ歌舞劇団田楽座です。
 彼らは全国のさまざまなお祭り芸能の担い手に指示し、太鼓・笛・三味線・唄・神楽・囃子・獅子舞・民舞・万歳など、変化に富んだ演目を舞台に挙げています。

 そんな彼らに学んできたからこそ、私も「刺激・調和・変化」という多角的な和太鼓の見方を覚えることができました。
 見識が浅く新曲ばかり求めるプレイヤーには、そんな立体的なものの見方をレクチャーしてみるのも一つの手かもしれません。
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気持ちを解放させる動作

 田楽座から教わった「確かな重心操作を常に活用して打つ和太鼓」を実践していると、よくいただく感想が「全身が躍動している」「本当に楽しそうに演奏している」「何かに取り憑かれたみたい」といったもの。
 これは、田楽座の教えが十分に反映された結果だと感じています。

 田楽座はよく「決まった振りの通りに体の動きを揃えるのではなく、内から自然に湧き上がってきた衝動が結果的に動きになるようにする」という言い方をします。
 確かに私も湧き上がってくる衝動に任せて飛び跳ねたりしてるだけで、別に「こんな振りをしなければ」と頭で考えて動いているわけではありません。
 和太鼓の仲間たちの中にも「心の底から楽しい!」という衝動が、その細い体に収まりきれずに溢れ出たかのような活き活きとした動きをする人が何人もいます。
 
 じゃあ、どうすればそんな楽しさを体で表現できるのか。
 「気持ちを動きにすると言われても難しすぎて意味が分からない」という人もいると思います。
 
 でも私の答えは簡単です。
 人間の心と体は別々のものではなく全て繋がっていますから、動作の中でも感情を開放させやすいものを選択すれば良いのです。
 具体的に言うと、「重力に身を任せて重心を落下させる」「太鼓の皮の跳ね返りに任せて重心をバウンドさせる」「体の各部を、慣性に任せて放り投げる」などの動きのことです。
 
 私達は普通に立っているだけでも重力に逆らって身を起こさなければならないので、日常的に全身の筋肉を少なからず緊張させています。
 ですから、立っているときより座っているとき、座っているときより寝ているときの方が、体の緊張が少ないぶん心もリラックスしています。
 
 先ほど挙げた体を落下させたり放り投げたりといった動作には、体が直立しているにもかかわらず立つために必要な力みを放棄する必要があるので、最初はなかなか思い切れない人が多いです。
 いつも頼ってる命綱を切ってしまうような気がして、恐怖心が先立つのでしょう。
 
 しかし、トランポリンで飛び跳ねて遊んでいるときのことを思い出してみてください。
 ジェットコースターが好きな人は、高いところから一気に滑り落ちる場面やぐるぐる回転している場面を思い出せばいいかもしれません。
 これらの例を思い出してみれば分かるように、重力に身をゆだねて身を放り投げたり落下させたりする行為には、日常ではなかなか味わえない開放感があるのです。
 それこそバンジージャンプなどが良い例でしょう。
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 感情の開放にまず必要なのは、全身のリラックス。
 ですが、一般に流布している和太鼓の演奏法は、緊張した直立状態での身体動作の延長でしかありません。
 下半身の位置を固定し、胴体の向きを真正面に固定し、顔の向きも正面に固定し、バチの動きをいちいち止めたりして、全身の筋肉を常に緊張させて体にブレーキをかけてしまいます。
 
 ですから田楽座の座員がやっているように気持ちを開放させながら演奏するには、下半身の位置を固定させずバネのように柔らかく使い、胴体と顔の向きも固定させず上方にも動くよう柔軟に開放させ、バチもなるべく止めずに素直に跳ね返してやる必要があります。
 そういったブレーキをかけない基本的な体の使い方の中で、「重力に身を任せて重心を落下させる」「太鼓の皮の跳ね返りに任せて重心をバウンドさせる」「体の各部を、慣性に任せて放り投げる」などの動作を体に染み込ませてあげれば、そのうちにドンドンと体の奥から気持ち良くなっていきます。
 
 また、そのように解放された演技を観ているだけでも、そんな解放感を追体験することができます。
 感情を思いっきり開放させてすっきりしたい方、田楽座の太鼓や踊りに触れてみるのは如何ですか。
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和太鼓の見所

 私なりの和太鼓の見方は、打ち手が確かな重心移動で動けているかどうか。
 世の中では重心を動かさずに打つのが流儀の和太鼓が主流になっていて、重心操作を活用できている和太鼓なんて稀にしか見ることができません。
 そのレアなケースでさえ、なんとなく重心移動を使えている程度だったり、積極的に重心操作を活用しようとしていても曖昧にしかできていなかったりすることがほとんどです。
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 重心操作を積極的に活用する和太鼓として有名なのが、三宅島に伝わる三宅島太鼓。
 低い開脚姿勢で左右に重心移動をしながら、その勢いで水平方向に太鼓を打ち込んでいきます。
 この左右の重心移動自体は見た目にも分かりやすく映るため、プロの佐渡の和太鼓集団鼓童が全国的に有名にして以降、多くの太鼓打ちに何となく真似されています。
 
 また、リズミカルな縦乗りが印象的なのが、滋賀に伝わる水口囃子。
 こちらは秋田のわらび座が公演曲として取り入れて以降、全国的に広まり真似されてきています。
 この水口囃子では巧みな肘や指の使い方によって縦乗りの重心操作を音のメリハリ作りに活かしているのですが、手先の力でしか締め太鼓を打てないままただ無意味に縦に揺れているだけの粗雑な打ち手が大勢います。
 
 重心操作を活用していることが少々分かりづらいのが、秩父に伝わる秩父屋体囃子です。
 斜めにした太鼓の正面に座り込んで打つこの太鼓は、鬼太鼓座鼓童が全国的に有名にしましたが、そのせいで腹筋運動のような中途半端なキツイ姿勢で貝を割るラッコのように腕を振り回して打つ動作がメジャーになってしまいました。
 地元の祭りの担い手たちはそんな不自然な腹筋姿勢など取らずに、激しく打ちたいときはさほど目立たない重心操作を巧みに活用していますが、そうした流儀は全国の太鼓打ちにほとんど伝わっていません。
 
 こうした「和太鼓への確かな重心操作の活用」に誠実に取り組んできたのが、長野の歌舞劇団田楽座です。
 元座員が立ち上げた「大太坊」は重心操作を活かしたアクロバティックな打法を取り入れて新たな創作太鼓の分野を切り開いていますし、吟遊打人の塩原良さんや和力の加藤木朗さんなどの元座員も、他の太鼓打ちが活用できていない巧みな重心操作によって独自性を打ち出しています。
 
 そして、当の歌舞劇団田楽座は長年こだわってきた重心操作の活用を2000年代以降にさらに洗練させ、野生動物がじゃれあうかのような自然さで和太鼓を打つ方法を確立し、座員たちに脈々と受け継いでいます。
 そんな田楽座に和太鼓を教わり、確かな重心操作を常に活用することをテーマとして和太鼓に取り組んできた私には、筋力まかせで打っている和太鼓が不合理極まり無いものに見えて仕方がありません。
 重心を上手く活用できていなければ未熟だと見なされる他のスポーツと同じように、和太鼓の世界でも重心操作の活用が当たり前のことだと見なされていけば、観ていて面白い和太鼓がもっともっと増えていくだろうなあと思います。
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常に確かな重心操作を活用して打つ和太鼓

 私が和太鼓の師匠と仰いでいるのは、長野を拠点とする歌舞劇団田楽座。
 全国各地の唄や踊りや太鼓などを地元の方々に直接教わって舞台に上げている彼らの、和太鼓業界における同業他社との明確な違いは、太鼓を打つ際「確かな重心操作」を常に活用していることです。
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 全国的に広く普及してしまっている和太鼓の流儀は、アキレス腱のばしのストレッチのような低い体勢でどっしり構え、背筋を伸ばした姿勢で両腕をピンと突き上げ、真っ直ぐバチを降り下ろすというもの。
 このとき往々にして重視されがちなのが、低く構えた姿勢やバチをピンと突き上げた姿勢などが他のプレイヤーとも綺麗に揃っていること。
 この様式美を追求するためなのか、できるだけ胴体を揺らさないように打たせる流儀も少なくありません。
 
 この一般的な「決め決め和太鼓」とは別に、ドラムのような手法で和太鼓をペチペチ打って悦に入る流儀もあります。
 何十年も前に「既成概念に囚われない新しい和太鼓」というベタな謳い文句と共にその手の趣味の持ち主相手に流行って以来、今ではすっかり定着してしまっています。
 このいわゆる「ペチペチ和太鼓」は「決め決め太鼓」よりはいくらかリラックスして打っている風にも見えますが、よく見るとリラックスしているのは小手先だけで、たとえプロであっても胴体が猫背に固まっている場面が頻繁に見られます。
 
 また、たて乗りに体を上下させながら軽快に打つようなシーンを取り入れるチームもありますが、それも「楽しそうな雰囲気を演出するのに丁度いいだろう」という追加オプション的な位置付けであり、平常時は重心操作を全く使用せずにガチガチの固定姿勢で打っていることが多いです。
 さらに、一発一発高々とバチを掲げて打ち込むときに、大きく背伸びをして真っ直ぐ腰を落とす重心操作を活用するチームもありますが、これも特別に意識したときだけ使えるとっておきでしかなく、意識せずとも常に活用できるという次元には行き着いてないことがほとんどです。
 
 その点、田楽座は踊りでも太鼓でも何時なんどきでも「確かな重心操作」を常に活用することを心掛けており、無意識レベルでも常に活用できています。
 これは、全国各地の踊りや太鼓の担い手の中に「確かな重心操作」を活用している熟練者が多いから。
 
 あれもこれもといろんな曲に手を出したがる「和太鼓プレーヤー」と違い、各地の民俗芸能の担い手には地元の芸能だけを一生追究し続ける人がいます。
 そんな人が何世代にも現れていくと「小手先だけでやってしまわず重心移動を活用した方が、疲れにくくテンポも安定して息も合わせやすく動作のキレも増す」という発見が、その地域に共有されていきます。
 
 そんな日本各地に残された草の根の共同体の知恵こそを、古き善き日本の姿として舞台に上げたいと活動しているのが田楽座です。
 日本各地に代々受け継がれてきた共有財産の力は、ぽっと出の「和太鼓プレーヤー」たちの思い付きなんかよりも遥かに奥が深いですよ。
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空飛ぶバチコーン打法

 私の15年の和太鼓歴の中で一番衝撃的だったのが、和太鼓を始めてちょうど1年のころに教わった田楽座流の打法。
 天井に刺さっているバチを全体重で引っこ抜くように打つという喩えを聞いて以来、どんな曲もその喩えの通りに打てるようになろうと、身体の使い方を研究し続けてきました。
 その成果を後輩たちにも伝えるために、オリジナルの喩えや練習法なども色々と考案し、自分なりに導きだした成果を「バチコーン打法」と名付けて広めたりしています。
 
 田楽座流の打法に自分なりにアレンジを加えた「バチコーン打法」を使っていると、よく受ける評価が「めちゃめちゃ音がデカイ」「バチを振り上げる動作が柔らかい」「めちゃめちゃ飛んでる」など。
 特に、最後の「めちゃめちゃ飛んでる」に関しては、私だけの特別な個性のような言われ方をすることが多いです。
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 一般に和太鼓とは、ずっしりと低く構えた姿勢から整然と打ち降ろすのが普通だととらえられがち。
 そんな打つ動作にジャンプを加えるというのは、派手に見せたいときだけに行う特殊なアレンジだと受け取られてしまうのです。
 
 ですが「バチコーン打法」における「ジャンプ打ち」は、基本の打ち方を身に付けるための通過点。
 喩えるならば、まだ自力では泳げない人が補助的に使用するビート板と同じ位置づけなのです。
 
 バチコーン打法の要点は、重心を上方に浮かす勢いで腕ごとバチを放り投げ、重心を真下に垂直落下させる勢いで和太鼓の打面の上にバチで着地するように打つというもの。
 このときに重要になる「重心を真下に垂直落下させる」という動作が、身体を固定させることに慣れた現代人にはなかなか理解し難いようです。
 そんな人に垂直落下の感覚を感じとってもらうためには、軽くジャンプしてバチごとドサッと太鼓に着地してもらいます。
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 このジャンプ打ちの練習が上手くいけば、次はジャンプしなくてもその場で垂直落下するという練習をしてもらいます。
 それでもできない場合は、直前に爪先立ちになって重心を浮かした直後に、大きく開脚して両足を空中に浮かすことで落下上体を生み出します。
 
 こうした練習の目標は、足腰や胴体を柔軟に使って、いつでもどこでも重心を浮かしたり落としたりできるようになること。
 そんなバチコーン打法ですから、太鼓を打つときにジャンプをするというのは特別なことでもなんでもなく、むしろ入門の動作に戻るというだけのことなんです。

和太鼓の基本と応用

 和太鼓を打つときの私の流儀は、天井に刺さっているバチを全身の体重で引っこ抜くように打つというもの。
 ただ単に、腕を高く上げてバチを真っ直ぐ降ればいいという程度の理解では肩から先しか使わない「手打ち」にしかなりませんから、足腰のバネの勢いがをバチ先まで柔らかく伝える身体操作が必要となります。
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 太鼓仲間の中にはこの打法を参考にしたいと言って聴いてくる人も多いのですが、これまでの経験上、このやり方を何度か聞いただけでマスターできた太鼓打ちは一人もいません。
 特に和太鼓を長年やってきた人ほどそれまでの流儀が素直に吸収するのを邪魔するので、マスターしてもらうには繰返し訂正する必要があります。
 
 素直に吸収できない人にこびりついている固定観念とは、できるだけ全身を固定させ続けようとする癖です。
 動物は本来自由に動き回っていたがる生き物ですが、幼い頃から「じっとしていろ」「大人しくしていろ」というしつけを受け続け、初心者の頃に「できるだけ低く構えろ」「視線は正面に固定」「胸を張って上体はぶらすな」などと刷り込まれた人は、バチを握ったら「なるべく動かないこと」の方を標準にしてしまっているのです。
 
 なるべく動かないことを基本にしてしまっている「メジャーな和太鼓の打ち方」は、ボクシングで言えば「腰の乗らない手打ちのパンチ」ですし、野球なら「体重移動の曖昧な手投げのピッチング」や「腰の回らない腕だけのスイング」ということになります。
 そちらを基本にしてしまっている人が後から「体重のしっかり乗る打法」を覚えると、その打法は「いつも実践する基本の打法」ではなく「大きく打ちたいときだけ行う特別な打法」としてインプットされるのです。
 
 体重を利用する打法を「特別な打法」として処理する人は平常時に体重を利用しない打法を使っているので、いざ大きく打とうとするときに「スイッチの切り替えの不自然さ」が悪目だちしまいます。
 ですから、大きく打つときに体重を「自然に」乗せるためには、普段の全ての打ち方を体重の乗った打法に切り替える必要があります。
 
 大きく打ちたいときは体重を大きくバウンドさせ、小さく打ちたいときは体重を小さくバウンドさせ、極々小さく打ちたいときは敢えて全身の動きを止める。
 それはつまり、一般の太鼓打ちとは逆で、体重をしっかり乗せる打法を「基本」にし、なるべく体を動かさない打法を「応用」にするということです。
 
 わざわざ特別に意識しなくても、太鼓と向き合えば体重を利用するのが当たり前。
 そんな境地にできるだけ多くの人に達してもらえるよう、小手先だけで打ちたがる「手打ち」の癖を修正する「バチコーン打法」の養成プログラムを練るのが私のライフワークです。
 現代人に付きまとう「小手先癖」の弊害を乗り越えて、和太鼓の「基本」と「応用」の概念をひっくり返していきたいですね。 
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本気で演じきる力

 和太鼓を打つ際、自然でしなやかなバチさばきを実現するためのコツは「腕はないと思って振る」ということ。
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 「バチ先を打面に当てるために腕で振り回してやろう」ととらえている人は、腕だけでバチの動きをコントロールしてやろうとしてしまうために、脚や腹や腰やヘソなどが腕と全く連動せずに不自然な動きになるからです。
 
 こうした身体の連動の不自然さを解消するために、歌舞劇団田楽座が和太鼓指導の際に駆使しているのが「天井に突き刺さっているバチを全身で引っこ抜くように」という比喩です。
 和太鼓を始めた頃、私は田楽座から一打一打の打ち方をこのように教えてもらったため、それ以来私は愚直にその教えを追求してきました。
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 この「全身で引っこ抜く」という流儀のメリットは、全身の動きがダイナミックになる、バチの勢いが増して音量が数倍になる、全身を弾ませているので心までも弾む、その生き生きとした様が見ている人にも伝わる、全身の連動がスムーズなので速いリズムも自在にこなせる、などいくつも挙げられます。
 ですから、私自身もこの田楽座から教わった流儀を、数多くの人に伝えてきました。
 
 その際、この「全身で引っこ抜く」という流儀を素直に身に付けられる人と、先入観が邪魔をしてなかなか身に付けられない人とが現れます。
 その差を分けるのが「天井に刺さっているバチを全身で引っこ抜く」という情景を、どこまで本気で演じ切れるか。
 本気で演じずに上辺の形だけを真似しようとする人は、結局先入観に負けて腕だけで振り回してしまうのです。
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数学というオタク趣味

 私は大学で数学を先攻し、現在は高校で数学教師をしていますが、数学への愛はそれほど感じていません。
 小・中・高まで数学が得意でい続けたので「大学の数学はどんなものだろう?」という興味はありましたが、興味があったのは「数学に出てくる理屈が自分には分かるかどうか」であって数学自体が好きなわけではないということに、大学3年生の頃に気が付いたのです。
 
 この数学への愛のなさは、数学教師としてプラスにもマイナスにも作用しています。
 この数学の指導と数学への愛との関係について、文部省の学習指導要領を参考にしながら語ってみたいと思います。
 
「小学校学習指導要領」
算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。
 
「中学校学習指導要領」
数学的活動を通して,数量や図形などに関する基礎的な概念や原理・法則についての理解を深め,数学的な表現や処理の仕方を習得し,事象を数理的に考察し表現する能力を高めるとともに,数学的活動の楽しさや数学のよさを実感し,それらを活用して考えたり判断したりしようとする態度を育てる。
 
「高等学校学習指導要領」
数学的活動を通して,数学における基本的な概念や原理・法則の体系的な理解を深め,事象を数学的に考察し表現する能力を高め,創造性の基礎を培うとともに,数学のよさを認識し,それらを積極的に活用して数学的論拠に基づいて判断する態度を育てる。

和太鼓を"日本の伝統芸能"と呼びたくない理由

 趣味の一環として和太鼓の世界に関わっていると「和太鼓は日本の伝統芸能である」という謳い文句をときどき耳にしますが、私はその仰々しいプロモーションを聞く度に恥ずかしい思いでいっぱいになります。
 今回は「和太鼓」を「日本の伝統芸能」と呼ぶことが恥ずかしいと感じる理由と、どう呼べば恥ずかしくないかという代替案について語ってみたいと思います。
 
 まず、インターネットで「日本の伝統芸能」と検索してみると、Wikipediaの「日本伝統芸能」というページが見つかります。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E8%8A%B8%E8%83%BD#.E4.BC.9D.E7.B5.B1.E8.8A.B8.E8.83.BD.E3.81.AE.E5.AE.9A.E7.BE.A9
 そこに書いてある説明をまずは紹介してみましょう。
 
「日本伝統芸能
伝統芸能(でんとうげいのう)とは、日本に古くからあった芸術と技能の汎称。
特定階級または大衆の教養や娯楽、儀式や祭事などを催す際に付随して行動化されたもの、または行事化したものを特定の形式に系統化して伝承または廃絶された、有形無形のものを言う。
詩歌・音楽・舞踊・絵画・工芸・芸道などがある。
 
伝統芸能の定義」
伝統芸能とは、西洋文化が入ってくる前の芸術と技能を現代芸術と区別した呼称である。
日本固有の文化という意味だが、文化の先進国であった中国から流入したものを日本独自のものに作り変えたものが多い。
したがって成立の仕方は現代芸術とさほど変わりはない。
しかし、明治期の西洋化以降も伝統芸能が既存の形式を保持して存続し、現代芸術と相互に関連性が少ない形で併存しているのは事実である。
 
和歌、俳諧、琉歌、神楽、田楽、雅楽、舞楽、猿楽、白拍子、延年、曲舞、上方舞、大黒舞、恵比寿舞、纏舞、念仏踊り、盆踊り、歌舞伎舞踊、能、狂言、歌舞伎、人形浄瑠璃、雅楽、邦楽、浄瑠璃節、唄、講談(講釈)、落語、浪花節浪曲)、奇術、萬歳、俄、梯子乗り、女道楽、太神楽、紙切り、曲ゴマ、写し絵、花火、彫金、漆器、陶芸、織物、茶道、香道、武芸、書道、華道などに分類される。
 
 ここで注目したいのは、これらのリストの中に「和太鼓」という単独のくくりが存在しないこと。
 これらの伝統芸能の中で楽器として和太鼓が使用されることはあるとしても、和太鼓単独では「日本の伝統芸能」としてリストアップされないのです。
 
 では和太鼓は伝統芸能ではないのか。
 日本の各地には、明治の西洋化以前から伝わる「太鼓だけの楽曲」も残されています。
 そういった曲のことを「伝統芸能」と呼ぶことに関して、私は何の抵抗も感じません。
 
 私が抵抗を覚えるのは「日本の」という大袈裟な言葉を冠に添えようとする瞬間です。
 それは「日本の」という言葉には「日本を代表する」といったニュアンスを聴き手に伝えてしまう可能性があるから。
 能や狂言や歌舞伎のようにガチガチに権威づけられ「日本を代表する伝統芸能」として宣伝され続けている芸能ではないのだから、そんな誤解の可能性がないよう「どこどこの地域の伝統芸能」といった等身大の呼び方をすれば良いじゃないかと思うのです。
 
 喩えて言うならば、各地の伝統芸能は地域ごとの方言のようなもの。
 自分たちが使っている方言のことを「地元の伝統だ」と言うのならまだ共感することはできますが、わざわざ「日本の伝統だ」なんて大袈裟に言いたがる人がもし仮にいたとすれば「なぜそんなに誇張したがるのか」と疑問を感じてしまいます。
 
 実際に各地の伝統芸能の継承者たちも、「日本の伝統芸能だ」なんて大袈裟な言い方はしません。
 だって、自分たちの地元で受け継いできた「自分たちだけの伝統芸能」なんですから。
 
 では、和太鼓のことを「日本の伝統芸能」と呼びたがるのは誰なのか。
 それは、明治の西洋化以前には存在していなかった「伝統とは縁遠い和太鼓パフォーマンス」に興じているくせに、身の丈以上に由緒ある存在として有り難がられたがる権威志向の人や、宣伝文句として有効なら何を言ったって構わないと考えるいい加減な人などです。
 
 和太鼓を主役扱いして舞台に上げるというジャンルが発明されたのは太平洋戦争以降のことですから、せいぜい70年程度の歴史しかありません。
 西洋の音楽教育の影響をおおいに受けた人たちが、伝統芸能の中で使われていた和太鼓という楽器に注目し、西洋音楽の素養をもとに造り上げられたのが現在の「和太鼓」という業界です。
 そんな戦後発祥の「和太鼓パフォーマンス業界」には、「基本の構え」だとか「基本の打ち方」なんて教えが流通していますが、これらの基本も「戦後に生まれた思い付き」でしかありません。
 
 だから、そこで流通している基本を学んだとしても、日本古来の伝統を受け継いでいることにはなりません。
 もしそれらの基本を「日本の伝統」だと言う人がいたとすれば、それは嘘か勘違いか誇張です。
 教えられた基本を守る人が実践しているのは、「日本古来の伝統の継承」ではなく「戦後の思い付きを伝統に育てようとする営みへの加担」なのです。
 
 私が心配するのは、和太鼓の担い手が「和太鼓は日本の伝統芸能なんだ」と強弁すれば、さほど詳しくない人は「立派な伝統のもとに脈々と受け継がれてきた格式高いものなんだな」という風に、それがたとえ「戦後の思い付き」でしかなくても信じ込んでしまうこと。
 そこにつけこんで「日本を代表する伝統芸能」としての権威を捏造しようとする発言者の下心を感じてしまうがゆえに、私は「和太鼓は日本の伝統芸能だ」という言い方に嫌悪感を覚えてしまうのです。
 
 私はこれらの嫌悪感を避けるために、便利な言い替えを意図的に使用しています。
 まず、各地に伝わる「本物の伝統芸能」「郷土芸能」について「日本の」という冠を敢えてつけるならば、権威を匂わせない「日本の民俗芸能」という言葉を選択します。
 誤解されることが多いのですが、「民族芸能」ではなく「民俗芸能」であるところが大事なポイントです。
 
 それは、民俗芸能という言葉が柳田国雄の「民俗学」から来ているから。
 西洋の諸勢力が世界中に植民地支配を拡大していた時代、世界中で発見された「文明化されていない未開の地の野蛮人」の生態を研究するための学問として「民族学」が生まれました。
 この学問の前提には、西洋圏以外の人々に対する見下しの目線が含まれていたため、柳田国雄は「西洋化以前の自分たちのルーツを発掘する」という意味合いで、見下しのニュアンスを含まない「民俗学」という言葉を選んだのです。

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

 
 さらに、戦後生まれの「和太鼓」に「日本の」という冠をつけるならば、「日本の伝統楽器を利用した舞台パフォーマンス」だとか「日本の民俗芸能からインスピレーションを受けた舞台パフォーマンス」と呼びます。
 「ご立派な権威とは縁遠い業界でしかない」という実態を、誤魔化さずにきちんと説明するならば何も恥ずかしいことはありませんから。
 私としては、変な誤解がこれ以上広まらないように「民俗芸能」という適切な言葉がもっと使われるようになって欲しいなと願っています。

残念な体験のメリット

 結婚して3年目になる私たち夫婦の共通の趣味は、美味しいものを食べ歩くこと。
 食事中の会話のテーマのほとんどは「今食べているものの味について」であり、食事の内容と関係のない雑談を食事中にすることは滅多にありません。
 
 そんな私たちにとっての大冒険は、新規の飲食店を開拓すること。
 グルメサイトなどでクチコミ情報を確認することもできますが、世の中には味が濃くて分かりやすければとりあえず「美味しい」と感じる人も数多くいますから、投稿者の味の好みをたいして信用することができません。
 期待したお店が不味かったりサービスが残念だったりするとそのショックを長く引きずってしまうので、新しいお店に入るときはいつも緊張してしまいます。
 
 このように新規開拓の際には外れの店を引いてしまうリスクが付きまとうわけですが、外れたときに生じる失望感を軽減するために、毎回二つの予防策を確認し合うようにしています。
 一つ目は、最初からあまり期待し過ぎないように気を付けておくこと。
 二つ目は、外れを引いたときにも「気になっていた店に×を付けることができたので、今後は全く気にせずに済む」と、建設的に受け止めることです。

 
 二つ目に挙げた「×が付いたことを良しとする」という考え方は、その他の人生の場面でも応用可能な処方箋です。
 たとえば他人に理不尽な接し方をされたときなども、その人が「そんなことをする人だ」という情報自体は、それ以降の自分の人生をより豊かにするのに役立てることができます。
 その人といつまでも密に付き合っていく必要はないのですから、疎遠にするなり連絡を絶つなり付き合いの度合いをコントロールしていけば良いのです。
 
 行くお店も付き合う人も身を置く環境も、こうでなければならないなんてルールはありません。
 限りある人生をより有意義に過ごすためにも、自分の人生のダメージコントロールに「残念な体験」から得られた気付きを活かしていきたいものですね。