私たち人間は日々の社会生活の中で常に、膨大な言葉の荒波に巻き込まれています。
そんな言葉の荒波を溺れずに泳いでいくために、まずは「言葉とはどんなものか」という大前提について考えてみたいと思います。
そのヒントとして、今回はステマという題材を扱ってみましょう。
ステマとはステルスマーケティングという用語の略で、商品を売る企業自身や企業から依頼を受けた協力者などが、利害関係のない一般消費者のふりをして印象操作を行う宣伝方法のことを言います。
具体的には、新商品発売の為に長蛇の列を作る、ブログやSNSで商品をとりあげる、掲示板などでライバル商品の批判をする、ネット通販のレビューやグルメサイトなどで好評価の投稿をする、などの行為が挙げられます。
インターネット上ではこのステマという言葉が元々の意味を離れて独り歩きしており、疑いさえかかれば何だろうが「ステマだ」と非難されてしまうという、まるで魔女狩りのような空気が蔓延しています。
何故こうした乱暴なレッテル貼りが流行ってしまうのか。
ここには他人にばかり正直さや公正さを要求し過ぎてしまう、独り善がりな潔癖症の兆候が見え隠れしています。
確かに、他人からこそこそと印象操作を仕掛けられているように感じたなら、それを察知したつもりの当人は決して良い気がしないでしょう。
ですが、「疑わしきは罰せよ」の勢いで他人に影響しうる言動の全てに「ステマだ」と×を付けていったら、一体どんな言動が妥当なものとして残されるのでしょうか。
ステマという魔女狩りアイテムを濫用しているクレーマーの言い分をいちいちまともに聞いていたら、×印の付かない言動なんてどこにもなくなってしまいます。
具体的に、美味しい食べ物の情報をインターネット上に投稿するという場面を考えてみましょう。
仮に私が、お気に入りの定食屋さんの大好物を「すごく美味しい」と写真付きで書き込んだとします。
その投稿を見知らぬ人が見た場合、受け取り方としては以下の3パターンくらいが大まかに考えられるでしょう。
「ただ単にすごく美味しいと思っているから、その個人的な感想を素直に表現しただけ」
「すごく美味しいから人にも薦めたいと思い、見ている人にも伝わるように自主的にPRした」
「お店側からサクラをお願いされた人が、ビジネスと割り切って美味しいとコメントした」
この3つのパターンを、発信者は嘘の評価をしているか、発信者は印象を操作しようとしているか、その投稿は印象操作に繋がるか、という3つの視点で分類してみたいと思います。
まずは「お店側からサクラをお願いされた人が、ビジネスと割り切って美味しいとコメントした」というケースについて。
これは最初に述べたステルスマーケティングとしてモロに該当する例であり、発信者には「正直でない」「印象を操作しようとしている」「印象操作に繋がる行為だ」という3つの×が付くことになります。
次に「ただ単にすごく美味しいと思っているから、その個人的な感想を素直に表現しただけ」というケースを考えてみましょう。
これは「味について正直に語っている」「印象を操作するつもりなんてない」という点において、ステマと呼ばれる謂われのない潔白な立場のはずです。
ですが、こうした自然な感想こそが口コミとして効果を発揮する訳で、ステマ自体もこのような口コミの効果を狙った戦略。
ですからこうした潔白な行為すら、「印象操作に繋がる行為だ」としてステマの烙印を押されてしまう可能性があります。
つまり、発信者にステマのつもりがあろうがなかろうが、インターネット上に発言をした時点で「ステマだ」と難癖を付けられかねない立場に陥ってしまうというわけです。
そして最後に「すごく美味しいから人にも薦めたいと思い、見ている人にも伝わるように自主的にPRした」という場合の話をしましょう。
このケースも他の2つの場合と同じように「印象操作に繋がる」としてステマ認定され兼ねない行為ですが、「味について正直に語っている」という点で詐欺には当たらないはずです。
しかし、この場合は自分の発言が誰かに影響することを明確に意識しているという点で、ステマを裁きたがる人々にとってはグレーの度合いの濃いものと見なされます。
魔女狩りたちにとってみれば、オススメしたいという意志がある時点で、もはや純粋無垢な口コミとは呼べないシロモノなのかも知れません。
ここで問題にしたいのは、人にオススメすることを意図した口コミと意図しなかった口コミとの差についてです。
そもそも口コミに、発言の影響を考慮しない無垢さなんてものは必要なのでしょうか。
ステマの問題はあくまでも騙しの部分であって、「影響を与えること」自体ではないはずです。
言葉とは、それ自身が大きな影響力を持つもの。
発言者自身が聴き手への効果を意識していようがしていまいが、一度発言がなされてしまった以上はその波及効果がどこかに必ず生まれます。
たとえ表向きに何の変化もなかったように見えたとしても、少なくともその発言を受け取った聴き手の脳内には、その言葉が電気信号として物理的に刻まれてしまっています。
その電気信号が聴き手の人格に今後どのような影響を及ぼすかなんて、発言の段階で予測しきれるものではないでしょう。
言葉を発する時点でその発言の影響は必ずどこかに現れてしまうのだから、言葉の影響それ自体を敵視するのはむしろナンセンス。
私たち人間は、常日頃から互いに印象操作し合っている生き物なのですから。
むやみにステマと言いたがる人々は「潔白に真実のみを語る言葉」というファンタジーに過大な期待を抱くあまり、人に影響を及ぼさない無垢な言動というのがそもそも存在しうるのかという反省を自分自身に向けられていないようです。
そこで次回は、この「真実を語る」という壮大な作り話の成り立ちについて分析を加えていきたいと思います。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。