この世を仕切る「正しさ」という物差しなどどこにも存在せず、世界にはただ「都合と力のバランス」があるだけ。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/18/064700
こう考えていた大学時代、私にとって「正しさを競う舞台」としての言論の世界は非常に馬鹿馬鹿しいヤラセに見えていました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/05/060200
ルールのはっきりしない言論の世界において、そこで使われる「客観的に見れば」とか「公平に考えれば」という言い回しは皆、自説を有利にするために使われる戦略のひとつでしかありません。
「このように話し合うのが当然のルールだろ」みたいな話の持っていき方はすべて、その場の都合と力の関係に応じて雇われる「買収されたレフェリー」でしかないのです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
そしてこの「客観性」とか「公平さ」という戦略に力を与えているのが、子どもの頃から刷り込まれる民主主義という思想です。
「みんなの公正な話し合いでより良い道を模索していこう」という民主主義の採用したフィクションは、魅力的な説得力と暴力的な説得力を併せ持った「正しさ」という名の巨大な権力に支えられています。
つまり、たとえ民主的な話し合いの場であっても、そこで争われているのは「無垢な正しさ」なんかではなく「ただの力」だということです。
ですから私は「対話と圧力」という区別の仕方に大きな違和感を感じていました。
対話というのはそれぞれの都合がしのぎを削るパワーゲームです。
そこで競われるのは説得力という名の「言葉の力」です。
私たちは「よし今から相手に影響を与えてやろう」なんてわざわざ思わなくても、ただ普通におしゃべりをしているだけで互いに影響を及ぼしあっています。
力と無縁な対話なんてどこにもありません。
民主主義の戦略のおかげで「民主的な対話は暴力的なものとは無縁のクリーンな手段だ」というフィクションがまかり通っていますが、結局のところ「対話も圧力」でしかないのです。
そういうわけで、大学時代の私はあまり熱心な読書家ではありませんでした。
世の中の是非について語る議論はすべて、「正しさ」というフィクションの上で繰り広げられる言葉のプロレス。
そんな見え見えのヤラセにはいかなる権威も感じませんでしたから、書物においても「そこに何か正しいことが書いてあるかも」という種類の期待は一切抱きませんでした。
ですから大学での勉強を除けば、架空のストーリーを楽しむための小説や漫画くらいしか読まなかったと思います。
しかし、大学院時代に『内田樹の研究室』というブログに出会ってから、私の読書に対する見方が変わりました。
内田樹は「おじさん」の常識・生活倫理・実感を大切にするという立場を表明している思想家です。
Wikipediaがまとめるところによると、政治的には護憲派としての側面と保守的な側面を併せ持っているとのこと。
自身の経験とレヴィナスの思想をもとにマルクス主義批判、学生運動批判、フェミニズム主義批判を行なっているそうです。
私が共感したのはそういった主義主張の中身ではなく、「主張の中身が正しいかどうかなんてことよりも実際に説得の効果があるかどうかのほうが重要」という基本的な言論の姿勢の方でした。
その姿勢が顕著に現れている「哀愁のポスト・フェミニズム」という記事を見てみましょう。
Y売新聞からインタビューの申し入れがある。
テーマは「ポスト・フェミニズム」。
おどろいて「もう、フェミニズムは終わってしまったんですか?」と訊いたところ、電話口の記者さんは怪訝な声で、「だって、『フェミニズムはもうその歴史的使命を終えた』ってウチダ先生書いてるじゃないですか」。
あれは戦略的にそう書いているだけですって。
「・・・はもう終わった」というのはいかなる意味でも理説への内在的批判ではない。
「言ってみただけ」である。
私はこの冒頭部分を読んだだけで胸がスカッとしました。
言論の世界における「正しさ」というフィクションは、言論に力を持たせたいと願う人々の「都合と力の関係」によって支えられています。
この「正しさ」がフィクションだと分かっていない人は、「これは正しい」「あれは間違ってる」「それは本当の正しさじゃない」「本当に正しさなんてどこにもないじゃないか」という青臭い議論に本気で加担することになります。
たとえ「正しさ」がフィクションだと分かっている人であっても、その「正しさ」から都合のよい効果を得ようと思ったら「それがフィクションかどうか」なんて舞台裏については黙ったままプロレスを演じておいたほうが得策です。
しかしこの内田樹という人物は「正しさはフィクションである」という自覚を持った上で、自分の手の内をおおっぴらにさらけ出しています。
この記事の冒頭にはそのことがよく現れていました。
「別に『それが正しい』なんて本気で思った上で事実として言ったわけじゃなく、私の望む効果を生みだすために言ってみただけなんだから」という言論の世界の種明かしが、何のてらいも無く行われていたのです。
この戦略的な世界観の見事な体現者と出会ってから、私はこれまで読んでこなかったような種類の本に手を出すようになりました。
それは、本から何か「正しい知識」を得るためではありません。
「正しさ」なんてフィクションを真に受けて矛盾点を見つけるたびにいちいち目くじら立ててたら 、人の話なんてどれも自分勝手な基準を採用した上での誘導された議論でしかありませんから真面目に聞く気にはなれないでしょう。
私が興味を持ったのは、議論を誘導する際にどのような言葉が使われているかという、具体的な言葉の荒波の造られ方。
著者たちは「自分好みの世界観を広めたい」という自分の都合に応じて説得力を得ようと著書の中でさまざまな工夫を凝らしており、その「自分好みの世界観を広めるための戦略」を分析しながら本を読むという作業がとても面白かったのです。
これから紹介していきたいのは、世の言論人たちはこの言葉の荒波をどう渡り歩いているのかという具体例について。
言論人たちの仕掛ける「正しさ」というプロレスを真に受けることなく、それらの作り話が私たちをどのように説得したがっているのかという「都合と力のバランス」を考察していきたいと思います。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。