間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

就職も結婚も入れ歯と同じ

 この世界は、各々の都合と都合とがしのぎを削る弱肉強食の説得合戦の場。
 たとえば人間の赤ん坊だって、この説得ゲームの熱心なプレイヤーの一人です。
 彼らは可愛らしさを武器にして周囲の大人たちを自分に都合のいいように操りますし、気に入らないものに対しては全力で泣いたり暴れたりすることでその身から遠ざけようとします。

 ですが、こうした「野生の説得」だけで生きていけるのは赤ん坊の頃まで。
 人間の社会を上手に生き抜くには、動物としての野生の力関係以外にも倫理観や価値観など、言葉で創作された多くの物語との付き合い方もマスターする必要があります。

 ですから私たち人間は、文明社会でしか通用しないさまざまな言葉のプロレスを、幼いころから「本当のこと」として刷り込まれています。
 そうして演出された「正しさ」という作り話をこの世の事実として真に受けてしまった人は、そのフィクションが方便として通用しない範囲にまで馬鹿正直にその「正しさ」を当てはめようとしてしまいます。

 この分かりにくい話を説明するための具体例として、「就職も結婚も入れ歯と同じ」という突拍子もない話があります。
 前回、前々回と紹介してきた内田樹が、『街場のメディア論』という著書の中で就活中の大学生に向けてアドバイスしたものですが、就活や婚活をされている方には是非ともおすすめしたい逸話です。
 どんな思い込みが就活や婚活を邪魔する原因とされているのか、まずは次の引用文をご一読ください。 

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

 

 就職活動を始めるときに、みなさんは最初に「自分の適性」ということを考えます。
そして、適性にふさわしい「天職」を探し出そうとする。

でもね、いきなりで申し訳ないけれど、この「適性と天職」という発想そのものが実は最初の「ボタンの掛け違え」だと僕は思います。
「適性と天職」幻想にとらえられているから、キャリアを全うできなくなってしまう。
僕はそう思います。

勤め始めてすぐに仕事を辞める人が口にする理由というのは、「仕事が私の適性に合っていない」「私の能力や個性がここでは発揮できない」「私の努力が正当に評価されない」、だいたいそういうことです。
僕はこの考え方そのものが間違っていると思います。
仕事っていうのはそういうものじゃないからです。

みなさんの中にもともと備わっている適性とか潜在能力があって、それにジャストフィットする職業を探す、という順番ではないんです。
そうではなくて、まず仕事をする。
仕事をしているうちに、自分の中にどんな適性や潜在能力があったのかが、だんだんわかってくる。
そういうことの順序なんです。

就職というのはその点で「結婚」と似ています。

みなさんは、結婚というのはまず「自分にぴったりした配偶者に出会うこと」から始まると思ってますでしょう。
それが間違いなんです。
そうじゃないのね。
「まず結婚する」んです。
そこから話が始まる。
結婚してみないと、自分がどういう人間なのか、そもそも結婚に何を求めているのかなんて、わからないものです。
結婚してはじめて、自分の癖や、こだわりや、才能や、欠如が露呈してくる。
「ああ、オレって『こういう人間』だったんだ」ということがわかる。

結婚は入れ歯と同じである、という話があります。
これは歯科医の人に聞いた話ですけれど、世の中には「入れ歯が合う人」と「合わない人」がいる。
合う人は作った入れ歯が一発で合う。
合わない人はいくら作り直しても合わない。
別に口蓋の形状に違いがあるからではないんです。
マインドセットの問題なんです。

自分のもともと歯があったときの感覚が「自然」で、それと違うのは全部「不自然」だから厭だと思っている人と、歯が抜けちゃった以上、歯があったときのことは忘れて、とりあえずご飯が食べられれば、多少の違和感は許容範囲内、という人の違いです。
自分の口に合うように入れ歯を作り替えようとする人間はたぶん永遠に「ジャストフィットする入れ歯」に会うことができないで、歯科医を転々とする。
それに対して、「与えられた入れ歯」をとりあえずの与件として受け入れ、与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように自分の口腔内の筋肉や関節の使い方を工夫する人は、そこそこの入れ歯を入れてもらったら、「ああ、これでいいです。あとは自分でなんとかしますから」ということになる。
そして、ほんとうにそれでなんとかなっちゃうんです。

このマインドセットは結婚でも、就職でも、どんな場合でも同じだと僕は思います。
最高のパートナーを求めて終わりなき「愛の狩人」になる人と、天職を求めて「自分探しの旅人」になる人と、装着感ゼロの理想の入れ歯を求めて歯科医をさまよう人は、実は同類なんです。

与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように、自分自身の潜在能力を選択的に開花させること。
それがキャリア教育のめざす目標だと僕は考えています。
この「選択的」というところが味噌なんです。
「あなたの中に眠っているこれこれの能力を掘り起こして、開発してください」というふうに仕事のほうがリクエストしてくるんです。
自分のほうから「私にはこれこれができます」とアピールするんじゃない。
今しなければならない仕事に合わせて、自分の能力を選択的に開発するんです。

僕の友人で学芸員をやっているオオタくんは、フランス留学から帰ってきたらフランス語の運用能力が一気に向上していました。
何があったの、と訊いたらパリで奥さんが出産して、そのとき分娩室で泣き叫ぶ奥さんの言葉を逐一フランス語で医師に通訳しているうちに、脳内で何かケミカルな異変が起きて、突然フランス語がすらすらと出てくる人間になったそうです。
たぶん、そういうものなんでしょうね。

このことから知られるのは、潜在能力が爆発的に開花するのは、自分のためというよりは、むしろ自分に向かって「この仕事をしてもらいたい」と懇請してくる他者の切迫だということです。

子どもの側からの「ケアしてください」という懇請に応えて、僕たちは「親の愛情」というものを発動させる。
まず「親としての適性」があり、それを全面開花させるために子どもを作るわけではありません。

「潜在能力を選択的に開花させる」というふうに先に書いたのは、そのことです。
開花する才能は自分で選ぶものではありません。
この能力が開花したら、金が儲かるとか、権力や威信が手に入るとか、人に自慢できるとか、そういう利己的な動機に賦活されて潜在能力は発動するわけではない。
もちろん、そういうエゴイスティックな動機づけも才能の開花にはいくぶんかは役に立つかもしれません。
でも、そんな「せこい」動機では、潜在能力の全面的かつ爆発的な開花というようなカラフルな出来事は起こりません。
人間が大きく変化して、その才能を発揮するのは、いつだって「他者の懇請」によってなのです。

人の役に立ちたいと願うときにこそ、人間の能力は伸びる。
それが「自分のしたいこと」であるかどうか、自分の「適性」に合うことかどうか、そんなことはどうだっていいんです。
とにかく「これ、やってください」と懇願されて、他にやってくれそうな人がいないという状況で、「しかたないなあ、私がやるしかないのか」という立場に立ち至ったときに、人間の能力は向上する。
ピンポイントで、他ならぬ私が、余人を以ては代え難いものとして、召喚されたという事実が人間を覚醒に導くのです。

「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。
他者に呼ばれることなんです。
中教審が言うように「自己決定」するものではない。
「他者に呼び寄せられること」なんです。
自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。
そのことをどうぞまず最初にお覚え願いたいと思います。

 勘違いしないでほしいのですが、私はここで「適性と天職」という発想や「自分にぴったりした配偶者」が間違った洗脳であり、内田樹の主張の方が正しいと言っているわけではありません。
 ここで争われているのは「正しさ」などという演出されたプロレスの勝敗ではなく、説得合戦における言葉の影響力の強さ。
 ただ単に「どちらの作り話の方が説得力があるか」という、フィクション同士のぶつかり合いが起きているだけなのです。

 「適性と天職」「自分にぴったりした配偶者」というストーリーは一見もっともらしく見えますが、その作り話を真に受けたことで就職や結婚が難しくなっている人は決して少なくありません。
 内田樹は「入れ歯のマインド」という逆転した物語を投げかけることで、勤労意欲の低下や非婚化といった現状に彼なりの波紋を起こしてみたわけです。

 問題は「どうするのが正しいのか」という次元にはありません。
 そもそも言葉にできるのは、話を造って人の心に影響を与えることだけ。
 作り話じゃない本当の話を持ってこいと言われてもそれはただの無茶ぶりです。

 それでも言葉に正しさを要求してしまうのは、幼い頃から付き合わされてきた「是か非か」という○×ゲームの刷り込みの影響がまだまだ強く残っているから。
 周囲の雑音に惑わされて身動きが取れなくなっている人は、「その話の台本は自分にとって果たして好都合なのか」というシンプルな基準で自身の価値観を見直してみてはいかがでしょうか。 


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300