間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

責任ある大人のマナー

 言葉とは、まるで放射性物質のような存在です。
 電気信号として脳に刻まれた言葉は、影響力という名の放射線を脳に浴びせ続けることによって、私たちの在り方を変容させていきます。
 生物としてのヒトの身体構造は約20万年前にほとんど完成したわけですが、 そこから先のヒトの行動や習性におけるめざましい変化は、そのほとんどがこの言葉という強大な影響力によってなされたものでしょう。

 言葉による行動や習性の変容を繰り返していくうちに、いつしかヒトは己のことを「人間」と呼び、他の動物とは別格の存在として位置付けるようになります。
 カントは『教育学講義』において「人間が人間となることができるのは、教育によってである」と述べました。
 こうした発言の裏側には「人間は他の動物より高等な存在だ」という人間特有の特権意識が隠れています。

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 私はこの「動物としてのヒトが教育によって高等な人間へとランクアップする」といった、人間中心主義的なものの見方には反対です。
 この独り善がりな人間観は、「昔から今に至るまで人間はまっすぐ進歩してきた」と捉える進歩史観にも繋がるものです。

 ですが、人間の変化は「進歩」というような一定の方向を持ったものではなく、言葉との出会いという不確定な要素に左右されるランダムで膨大な変容の積み重ね。
 ランクアップというよりはむしろ「奇形」と呼ぶのに相応しい現象ではないでしょうか。

 言うなれば、人間とはヒトの奇形であり、言葉とはヒトを変容させるための放射性物質です。
 ヒトという動物は、言葉の放射線を浴びて変容を繰り返すことで人間と呼ばれるようになります。 
 私たちが日頃何気なく繰り返している会話とは、言葉という放射性物質のぶつけ合いであり、影響力という放射線の照射合戦なのです。

 ヒューマニズムがごり押しする「人間らしさ」という作り話も、こうした無数の放射性物質の一つでしかありません。
 教育とは、動物として生まれてくるヒトを、社会にとって望ましい存在へと奇形させていく洗脳の試みだと言い換えることができるでしょう。

 ですから、高名な教育学者やベテランの教育者であっても、我が子の変容のいく末すら思い通りにできないという事態は特に珍しいものではありません。
 それは人間の変化が「進歩」のような一定の方向を持ったものではなく、無数の言葉との出会いによってランダムに影響を受け続ける複雑系の事象だから。
 いくらシミュレーションを重ねても100日後の天気がほとんど予測できないのと同じように、人の長期的な変化もほとんど予測不能ですし、まして思い通りのコントロールなどできるはずがありません。

 浴びる言葉のバリエーションによってその影響の現れかたは千差万別ですから、それぞれの奇形の在り方には大きな個人差があります。
 この個人差は一般に「個性」と呼ばれることになっています。
 
 さらに、言語そのものが異なる文化圏同士では、その奇形スタイルも根底から異なっているはずです。
 母語が違う者同士がその奇形スタイルの差を乗り越えて関わり合うことを「異文化コミュニケーション」と呼んだりもしますが、この根底のギャップはなかなか埋まることがありません。
 色のようなシンプルな概念でさえ、言語が違えば全く異質な切り分け方になるのですから。

 また、言葉は喩えや組み合わせによって日々新しく産み出されていくものですから、その時代にどんな言葉が流通していたかによって集団としての奇形の在り方も違っています。
 「ジェネレーションギャップ」と呼ばれる現象も、世代ごとで奇形の在り方が異なってくるという典型例の一つです。

 もっと大きなスケールで言えば、狩猟の時代、農耕の時代、工業の時代、ITの時代など、時代ごとにその奇形の在り方は大幅に異なるでしょう。
 個人の権利といった概念が発明される前のヒトの生態は現代とは全く違うでしょうし、さらに掘り下げて言うなら「私」とか「存在」とか「知る」といった言葉が確立される以前の人類など、カントの言う「人間」とは全く違う生き物のはずです。

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 私が主張している「世の中の全ての発言は記述ではなく説得である」という捉え方も、この回避不能な言葉の影響力を「説得」「煽動」「洗脳」などと別の言葉で言い換えているだけ。
 言葉とは、誰かの脳に焼き付けられて初めてその存在を確認されるものですから、人に影響を全く及ぼさないピュアな言葉など原理的にありえません。
 「私は誰のことも洗脳しようとしていない」「ただ単に事実を述べているだけだ」などと無責任に言い逃れられるイノセントな立ち位置など、この世には存在しないのです。

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 誰しもが奇形の生成に常に加担しているという認識を持ちながら、言葉の説得の効果を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合う。
 「間違っていないか」を気にして生きてしまうのはこの言葉の影響力に毒されているからだと自覚した上で、「是か非か」という物事の捉え方から意識的に距離を置く。
 そんな態度を大人としての当たり前のマナーにしていこうという試みこそが、この「間違ってもいいから思いっきり」というブログの立ち位置です。

 私たち人間は言葉を使って生きている限り、絶えず何らかの奇形を生み出し続けるしかない存在です。
 人が他人に対して何かを訴えているとき、そこで起こっているのは無垢な心情の告白や事実の記述なんかではなく「己の影響力の拡大」という手垢まみれの説得工作です。

 先程述べた大人のマナーとは、万人の持つそうした犯意を当たり前に自覚して生きるということでもあります。
 そんな言葉との付き合い方こそが成熟の条件とみなされる社会の実現を目指して、これからもブログ記事という私なりの放射性物質を投げかけ続けていきたいと思います。

 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

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「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。

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