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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

制度は動機を内面化する

 私は現役の数学教師ですが、一般的な教師像とはかなりかけ離れた信条の持ち主だという自覚があります。
 それは、私自身が教育そのものに対するありがちな動機を内面化していないから。
 内面化というと何やら難しい言葉に聞こえますが、要は「学校での教育は生徒のためにある」という信念を全く持ち合わせていないということです。

 私は「学校教育は社会秩序を維持するために設計されている」という風に社会の現状を認識しています。
 そして、現場で使われている「生徒のため」という美辞麗句は、そうした本来の目的をオブラートに包む大袈裟な建前だと感じています。

 もちろん、現行の社会と折り合いをつけていかなければその社会の中では生きていけませんから、体制側からの要求を知ることも生徒にとっては重要です。
 現在所属している社会の枠組みの中で将来も生きていこうと思うのなら、その社会体制を成している諸々の勢力と無縁でいることはできません。

 ですが、だからといって「学校教育は生徒のためにあるものだ」という八百長を演じきる図太さも私にはありません。
 だから私は「この教育制度は現体制からの要求だ」という事実を包み隠さず伝えますし、数学もその制度と折り合いをつける処世術の一環と位置付けた上で教えています。

 このようなシニカルな言い方をしていると、「教師がそんな有り様では数学の楽しさや美しさや意義を伝えることができない」とお叱りを受けてしまいそうです。
 しかし、こうした生真面目な叱責をしてしまいたくなる教師たちの信念の持ち方こそが、制度によって造られる集団心理の成せる業なのです。

 学校教育とは、現行の社会体制がその社会秩序の維持のために設計する、一種の集団洗脳プログラムです。
 「社会全体の発展のため」とか「生徒一人一人の幸せのため」といった大義名分は、そうした体制側の都合を包み隠す方便の一つに過ぎません。

 ですから、体制側が近代国家の成立を目指して学校教育を導入する際に、民衆の側はいつでも諸手を挙げて喜んでいるわけではありません。
 子どもが家計を支える大事な働き手となっている場合もありますし、それ以前に近代的な価値観と根本的に馴染まない風土だってあります。
 そういった人たちにとって、権力者たちから述べられる「社会全体の発展のため」「一人一人の幸せのため」といった綺麗事は、いかにも胡散臭い騙し文句のように映るでしょう。

 ですが、権力の行使によって普及していく教育システムも、何世代にも渡って続いていけばだんだんとそれが当たり前になっていきます。
 そして、導入当初は不自然だったはずの「社会全体の発展のため」や「一人一人の幸せのため」という大義名分を、心の底から信じ込める人だって現れ始めます。
 このようにして、制度は人々の内面に様々な動機を植え付けていくのです。

 私自身の心情としては、数学は楽しく美しく役に立つものだと思っています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/08/084900
 ですが、この私の個人的な趣向が、生徒たちすべてに伝わるべき理想だとは考えていません。
 授業の中で数学の楽しさをメインに伝えようとする教師は、それが運よく伝わった生徒にとっては素晴らしい導き手となるでしょうが、そもそも趣味・趣向の異なる生徒にとってはまるで共感できない独り善がりな存在へと変わります。

 楽しさが伝わらないのは教師の力量不足だという考え方もありますが、その背景には「伝わりさえすれば数学は万人にとって楽しいものだ」という傲慢な固定観念が隠れています。
 しかし、その大本にある「万人にとって楽しい趣味がこの世に存在する」という大変強気な主張を、私は確信を持って言うことができません。
 私は「数学を楽しいと思うかどうかはその人の趣味・趣向による」という、人それぞれの価値観を尊重する見方を支持します。

 私が教師になった動機は、多くの生徒にのしかかる「数学を学ばなければならない」という制度上のハードルを少しでも越えやすくすること。
 家庭教師をしていた学生時代に、ただ教科書通りに進めるだけの工夫のない授業のノートをたくさん目にし、「もっと伝わりやすいやり方があるだろうに」と生徒たちに同情したことが、教師を目指した直接のきっかけです。

 自分や周囲を鑑みるに、「数学そのものに楽しみを感じる」という趣向の持ち方はなかなか稀なケースですから、数学の楽しさを伝えるなんて図々しい目標はそもそも優先しません。
 数学の楽しさ自体は、あわよくば伝われば良いという程度のプラスアルファの付加価値に過ぎないと冷静にとらえた上で、授業がただの趣味の押し付けにならないように気を付けています。
 
 私が数学の授業を通じてやろうとしているのは、生徒たちが数学というハードルを越えやすくするためのお手伝いであり、苦手だけど受験のためにやらねばという子の苦痛の少しでも軽減していくことです。
 私自身は数学と楽しく向き合いながらそれらのサポートをしていますので、そういった私の姿を見て数学の楽しさを感じとってくれる教え子もいるようです。

 だから私は、「数学はこんなにも面白い」という話を授業の時間にわざわざすることはありません。
 私はただ、数学を楽しみとして享受している人種も世の中にはいるという実例を、自分を通じて結果的に見せてしまっているだけ。

 数学の楽しさなんて、そのように背中から自然と伝わればそれで十分ではないでしょうか。
 趣味としての楽しみのお話は、興味を持って食い付いてくる生徒にだけ個別に提供してあげれば良いと、個人的には思います。

 そんなわけで、私は教育現場に流通する「数学を学ぶ必要性」という教条を全く内面化していません。
 「現制度からの要求」を「信じるべき教条」とすり替えて生徒に押し付けようとする教師たちの洗脳行為には大変な欺瞞を感じています。

 制度とは知らない間に動機を内面化していくものですから、教師たちの中にも洗脳されきっている被害者がいるわけで、そうした無自覚の洗脳行為もある意味致し方ないことでしょう。
 私はあくまでも、制度という現状に応じた「生きる知恵」の一環として、数学との上手な向き合い方を伝授していきたいと思います。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300