強さとは我儘(わがまま)を押し通す力のこと。
これは、人気格闘漫画『グラップラー刃牙』など板垣恵介の作品群に共通している不変のテーマです。
グラップラー刃牙 (39) (少年チャンピオン・コミックス)
- 作者: 板垣恵介
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 1999/03
- メディア: コミック
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この板垣氏独特の強さの定義に対しては、「我儘を正当化する未熟な有り様が強さだなんてとんでもない」とか「己を律することのできる心の強さこそが人としての本当の強さではないか」といった高尚なお説教が聞こえて来そうです。
彼はその作品の中で、そうした常識的でお上品な言い分に対する明確な反論を繰り返し述べています。
その一例として、劇中の格闘トーナメントにおける開会宣言での力説を紹介してみましょう。
地上最強を目指して何が悪い!!!!
人として生まれ男として生まれたからには誰だって一度は地上最強を志すッ
地上最強など一瞬たりとも夢見たことがないッッ
そんな男は一人としてこの世に存在しないッッ
それが心理だ!!!
ある物は生まれてすぐにッ
ある者は父親のゲンコツにッ
ある者はガキ大将の腕力にッ
ある者は世界チャンピオンの実力に屈して
それぞれが最強の座をあきらめそれぞれの道を歩んだ
医者 政治家 実業家 漫画家 小説家 パイロット 教師 サラリーマン
男にとっては地上最強こそが真のロマンであり、それ以外の道は夢破れた者たちの代償行為に過ぎない。
この乱暴で大胆な極論は、野生の世界を支配している弱肉強食の法則を如実に反映したものです。
人類がこの地球上に現れた当初は、ヒトも他の動物たちと同じように、喰ったり喰われたりの捕食合戦に強制参加させられていました。
当時の人類にとっては、自らを餌とみなして襲いかかってくる肉食獣たちこそが、目に見える一番の脅威だったでしょう。
動物としての生身のヒトは、肉食獣たちの脅威に対して単身で立ち向かえるほどの身体能力は備えていません。
ですがヒトは、さまざまな武器を用いることでその乏しい殺傷力を高め、言葉のコミュニケーションによって互いに連携し合うことで、闘争における個々の力のハンデをカバーしてきました。
私たち現代人が住んでいるこの広大な居住地は、過去に行われてきた大規模な狩りの戦利品です。
喰われる心配をしなくて済む「平和で文化的な生活」という一見お上品な作り話は、野蛮な文明社会による動物たちへの圧倒的な武力弾圧の上に成り立っているのです。
この弱肉強食の世界でものを言うのは結局のところ武力ですから、教育によって野生を忘れてしまう以前のヒトの雄が強さに憧れるのは当然のこと。
板垣恵介がその作品の中で描き続けているのは、文明社会のフィクションの中でも消されることのない野生の雄たちの魅力です。
ですから、医者、政治家、実業家、漫画家、小説家、パイロット、教師、サラリーマンといった強さを求める以外のものわかりの良い生き方は、雄としての野生を去勢された後の妥協の産物として描かれます。
富や地位や名誉など、ヒトの間でのみ通じる社会的な野心なんて、動物としての純粋な闘争に比べたら、牙を抜かれたペットたちによるままごと遊びに過ぎないと言うわけです。
冒頭に紹介した「我儘を押し通す」という一見ものわかりの悪い姿が強さと見なされているのは、その基準が弱肉強食という野生の原点にあるから。
喰うか喰われるかの日常における最大の我儘とは、喰われる立場を避けて一方的に喰う側にまわることであり、その我儘を可能にする肉体的な力こそがこの世の原点における本来の強さです。
文明人たちが高飛車な道徳観や人生訓を振りかざすことができるのは、人間が動物たちとの野蛮な殺戮合戦に勝利してきたおかげ。
板垣氏の描く原点における強さを否定できるような無垢な立ち位置など、隠然たる暴力で成り立ったこの人間社会には存在しません。
作中の台詞を借りて言うならば、野生の現実を無視したお上品な空論など「上等な料理にハチミツをぶちまけるがごとき思想」に過ぎないのです。
板垣氏の作品には、一国の軍事力に匹敵するほどの一個人や、恐竜を素手で殺して食べていた旧人類など、現実にはあり得ない設定のキャラクターが数多く登場します。
これらの荒唐無稽な物語は、剥き出しの野生が見えにくくなった文明社会の中で、それでも野生の原点を探求しようとする一種の思考実験です。
このハチャメチャなバトル漫画から何か一つ教訓を得ようとするならば、「私たちが生きているこの社会は暴力的に去勢された茶番で成り立っている」ということになるでしょうか。
私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
ですが、いくら言葉で「正しいか正しくないか」なんて語ったところで、それだけでは実際の物理的な暴力には太刀打ちできません。
言葉の上での道徳的な「正しさ」なんて、警察や軍隊など物理的な暴力にバックアップされなければ、現実には何の効力も持たないのです。
野生を去勢されてしまったものわかりの良い文明人たちは、「正しさ」という言葉の中だけで成立しているフィクションを、この世を言い当てた摂理だと真に受けてしまっています。
その結果、実在するはずのない「正しさ」という作り話に振り回されて、「自分は正しくないのではないか」といった自己否定の念にかられる犠牲者が生まれていきます。
言葉の影響力によって必要以上のダメージを受けてしまっている現代人は、板垣氏の描く去勢されない男たちの姿を参考にしてみてはいかがでしょうか。
冗談としか思えないような男たちの極論を経由して今いる世界を見つめ直してみれば、己の抱えている悩みが文明社会の茶番の上にしか成り立っていないことを実感できるかもしれませんよ。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。