私たちが生きているこの社会は、ヒトが持つ動物としての野生を去勢させることで成り立っています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/26/235800
私たち人間は、この弱肉強食の世界に婚姻、貨幣、善悪、神、法律、数式といった独自のルールを追加することで、古来から続いてきた野生の力関係を大幅に変容させてきました。
こういった様々なローカルルールの付け足しを可能にする力の源泉こそが言葉です。
言葉の影響力は絶大なもので、使い方によっては発言者の意図する通りの印象を人々に抱かせることもできます。
今回はそのほんの一例として、「アキレスと亀」という有名な話を紹介してみましょう。
アキレスと亀のパラドクスとは、古代ギリシャの哲学者ゼノンが唱えた「足の速いアキレスはのろまの亀を追い越せない」という常識に反する結論を導いてしまう以下のような理屈のことです。
足の速いアキレスとのろまの亀がハンデをつけて競争する。
アキレスのいる地点①から前方の地点②に亀がいて、同時にスタートする。
アキレスが亀のいた地点②にたどり着いたとき、亀はその先の地点③にいる。
アキレスがその地点③に着いたとき、亀はさらにその先の地点④にいる。
この作業はいつまでも繰り返され、終わることがない。
よってアキレスは亀を追い越せない。
このパラドクスについては、多くの人が解釈の仕方を述べています。
それらの見解を調べて、大雑把な基準で4種類の立場に分類してみました。
A「不思議な話として紹介するに留まる」
B「級数の収束という概念を持ち出してパラドクスは既に解決しているとみなす」
C「Bの立場の人はパラドクスの意図する論点を理解していないと反論する」
D「Cの立場も理解した上で、それでも パラドクスは解決できると主張する」
まずはBの立場を紹介しましょう。
ここでは仮に、地点①から地点②までの距離を4メートルとし、1秒の間にアキレスは1メートル進み、亀はその半分の50センチ進むものとします。
最初、アキレスが地点②に着くまでに4秒かかりますが、その間亀は2メートル進んで地点③に着いています。
そこからアキレスが地点③に着くまでにさらに2秒かかりますが、その間亀はさらに1メートル進んで地点④に着いています。
この応酬は何度でも繰り返されますが、アキレスと亀それぞれの地点①からの距離と、出発してからの経過時間とを比べてみると、以下のようになります。
4秒後、アキレス4m、亀6m。
6秒後、アキレス6m、亀7m。
7秒後、アキレス7m、亀7.5m。
7.5秒後、アキレス7.5m、亀7.75m。
7.75秒後、アキレス7.75m、亀7.875m。
7.875秒後、アキレス7.875m、亀7.9375m。
経過時間はどんどん8秒に近づいていきますが、この作業をどこまで繰り返していっても8秒以上になることがありません。
Bの1「よってこの話はスタートしてから8秒までの間に限定されており、8秒以内に追い越すことができないといっているに過ぎない。だから追い越せないという結論の持っていき方はおかしい。」
Bの2「無限に足し算を続けるからといって答えが無限大になるとは限らない。この和は8秒に近づいていくのだから8秒たった時点を考えればアキレスは亀に追いついている。」
ここで結論の仕方によって2通りに分けましたが、私は「結論の持っていき方がおかしい」とするBの1の意見には全面的に賛成です。
しかし、「8秒たったら追いつく」というBの2の意見だと、Cの立場の方々に反論する隙を与えてしまうことになります。
Cの立場での反論はこうです。
8秒たったら追いつくということは、追いついたときにはそこまでの無限回の作業をやり終えたということになるが、無限回の作業をやり終えるなんて話が矛盾している。
もしそうだとしたら、最後にアキレスがたどり着いた地点は最初から数えて何番目だったのか答えられるはずだ。
しかしそれは無限にある自然数をすべて数えつくすことができるというのと同じであり、原理的にありえない。
よってアキレスは亀を追い越せない。
そして私は「それでもパラドクスは解決できる」というDの立場の一人です。
私の考える説明は「この話では議論の前提条件を定めることができていないのですっきりした結論が得られないのは当たり前」という身も蓋もないもの。
これだけじゃ納得がいかないという方のために、ここでちょっと喩え話をしてみましょう。
ある広場には丸い土俵があり、AさんとBさんとCさんとDさんは土俵の中にいます。
Cさんは言いました。
「今からこの土俵の外に出られるかというゲームをしよう。ルールはこの土俵から外に出ないこと。もし外に出られたら君らの勝ち、出られなかったら僕の勝ちだよ」
Aさんは悩みました。
「どうやっても土俵の外には出られない。おかしいなあ」
Bさんは特に悩みません。
「だってすぐそこに土俵の外側があるじゃん。出られないわけがないよ」
そうしてBさんは土俵の外に足を踏み出しました。
するとCさんはすかさずBさんに文句を言います。
「それはルール違反だよ!土俵から出ちゃ駄目ってルールだったでしょ?君は全くルールがわかってないね」
そこでDさんは言いました。
「こんな馬鹿馬鹿しいゲームには参加しないよ。遊んでほしかったらまともなルールを用意して出直しておいで」
そう言ってその場を去るDさんをCさんは罵倒します。
「負けたくないからって勝負を避けるなんて卑怯だぞ!」
そして誰もCさんの相手をしなくなりました。
まず確認しておきたいのは、このアキレスと亀のパラドクスは「アキレスは亀を追い越せない」という結論を述べているのだから、その前段階には「アキレスは亀を追い越せるか」という問いがあるということです。
「アキレスが亀を追い越せるかどうか」を判定するためには「こういうときに追い越したと言えて、そうでないときは追い越してないと言える」という○×の基準を互いに共有しておく必要があるでしょう。
しかし、もし「アキレスが亀を追い越さない範囲の話しかしてはいけない」というルールがあったなら、そんなルールの中で「追い越せるかどうか」を判定できるような基準など導入できるはずもありません。
アキレスと亀のパラドクスの巧妙なところは、「以前亀がいた場所にアキレスが着いたとき」という語り方を用いることで、聞き手がそれと気づかないうちに「アキレスが亀を追い越さない範囲で話をすること」をルールとして強制しているということです。
この語り方を使っている限り「アキレスが亀の後ろにいる間のこと」しか語れないのだから、「アキレスは亀を追い越せる」という常識的な結論が出ることは構造上ありえません。
つまり、「以前亀がいた場所にアキレスが着いたとき」という語り方自体が「アキレスが亀を追い越せるかどうか」を判定するための議論にふさわしいものではないのです。
先ほどのBの2の解答でまずかったのは、この語り方が強制しているルールをよく吟味せずに「アキレスは亀を追い越せる」と言おうとしたことです。
相手が必ず勝つルールでしか勝負してないのだから、そのルールに乗った上で勝とうとしてもルール上で負けにされて終わります。
その点、Bの1の解答は「あなたの語り方はおかしい」と言うことで相手が持ち込もうとしたルールを認めないことに成功しています。
自分が必ず勝つルールでしか勝負しようとしない人なんて相手にしないのが一番です。
私だったらDさんのように、「追い越すとか追い越さないとかいう話をしたかったら、それをきちんと判定できるだけの基準を用意して出直してこい」と言うでしょう。
しかし、中には「勝負を避けるなんて負けを認めるみたいで嫌だ」という方がいるかもしれません。
そういう場合は、ゲームを始める前に自分が勝てるルールを認めさせれば良いのです。
この場合の新しいルールは単純な1次不等式で十分です。
t秒後のアキレスは地点①からtメートル進んでおり、t秒後の亀は地点②から0.5tメートル進んでいる。
地点①と地点②の距離は4メートルなので、亀の地点①からの距離は(4+0.5t)メートルで表せる。
アキレスが亀を追い越すのは地点①からのアキレスの距離が、地点①と亀の距離を超えたときなので「t>4+0.5t」を解けばよい。
すると「t>8」が求められ、8秒を超えたときアキレスは亀を追い越すこととなる。
しかし、「アキレスは亀を追い越せない」と説く人は「そんな語り方じゃパラドクスを解決したことにならない」と言うでしょう。
つまり、相手もこちら側が用意したルールを認めなければ負けることはないのです。
「追い越せる」と主張したければ追い越せることを説明できる前提を持ってくればよいし、「追い越せない」と主張したければ追い越せないことを説明できる前提を持ってくればよい。
結論というのはその前提によっていくらでも変わるものですから、結論を譲りたくない者はその前提を決めるときに譲らなければ良いのです。
なんだかどっと疲れるやり取りに見えますが、すっきりしない議論とはもともとこのような仕組みから生まれるもの。
自分好みの結論に誘導するために議論の前提を操作しようとするような力づくのパワーゲームは、世の中の至るところに溢れかえっています。
ですから、 AさんやB2さんのように知らぬ間に相手からコントロールされたくなければ、 B1さんやDさんのように「話の前提を疑う」という思考の習慣付けをおすすめします。
ちなみに私が推奨しているのは、言葉は何のために在るのかという前提条件を疑うこと。
言葉の一つ一つに正しさや確かさを求めてしまう人は、知らず知らずのうちに「言葉は物事を言い当てるためにある」という固定観念に囚われています。
ですが私は「そもそも言葉とは事実の記述ではなく人への説得のためにあるのではないか」と疑い、「正しさ」という概念も説得の効果を高めるためにでっちあげられた方便ではないかと訴えます。
そして「こちらが正しい」とか「何が正しいのか分からない」とか「本当の正しさなんてどこにもないじゃないか」などと本気で訴えている人は、その方便が理解できずにいつの間にか「正しさ」という茶番に洗脳されきっている、という解釈の可能性を探っています。
もし言葉の本質が記述ではなく説得ならば「何が正しい記述か」なんて○×ゲームではなく、「どんな言い回しに説得力があるか」という巧拙の次元でしか人は語ることができないのだと思います。
私の人生のテーマは、記述というフィクションに騙されて、知らぬ間に「正しさ」という詐術にコントロールされてしまう犠牲者を世の中から少しずつ減らしていくこと。
そのためにも「今の発言は聴き手にどのように思わせたがっているか」という説得の効果を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うという大人のマナーが、もっともっと世に広まってくれたらと願っています。
「何が正しいのか分からない」と戸惑うAさんや「本当の正しさなんてどこにもない」と言って勝ち誇るB2さんのような人は、どちらも「言葉は記述のためにある」というCさんの仕掛けた前提の罠にからめとられて「正しい記述でなければならぬ」という出発点から離れられなくなってしまった子どもです。
ですが、説得の効果を常に考慮に入れるという大人のマナーを身に付けていれば、B1さんやDさんのように「正しさ」の詐術を見破ることができます。
この世を取り巻く「正しさ」の荒波を泳ぎきれる人が少しでも増えていくよう、これからもこうした発信を続けていきたいと思います。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。