間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

本当の幸せ


 教員になって1年目のときの出来事です。  

 仕事を終えていざ帰ろうと職員室を出てみると、職員室のすぐ外で同僚が1人の生徒と話し込んでいました。
 その生徒は職員室から出てきた私を見て、同僚に聞いていたのと同じ質問を私にも振ってきました。

「先生はいま幸せですか」

 私は即座に「うん、幸せよ」と答えました。
 その生徒はいろんな先生にこの質問をしてまわっていたみたいですが、私のあまりの即答ぶりに感心したみたいです。
 生徒が続けて「それは何故ですか」と聞いてくるので、「自分が幸せと思えばそれで幸せたい。どんな状況にあったって幸せと思った者が幸せとって」と答えたところ、「それ新しいっ、私も今度からそう言おう 」と満足げに去っていきました。

 さて、私には個人的に嫌いなパターンの言い回しがいくつかあります。
 たとえば 「本当の幸せ」「本当の愛」「本当のやさしさ」「本当の居場所」「本当の自分」などなど。

 「本当の」という言葉は基本的に「本物ではないもの」を区別して否定するために使われるものです。
 そして、「幸せ」だとか「愛」だとか「やさしさ」「居場所」「自分」なんて定義のあやふやな言葉に「本当の」という排他的な修飾語を付けてしまうと、それは一種の脅迫めいた思想になります。
 その脅迫を自分に向ければ「ここは俺の本当の居場所ではないんじゃないか」などという出口なしの蟻地獄に絡めとられますし、他人に向ければ「お前の愛なんて本当の愛じゃない」というような誰が相手でも問答無用で攻撃できるオールマイティな武器になります。

 当時の私は、そういった馬鹿げた脅迫を真に受けていると時間がいくらあっても足りないという判断のもと、この種の神経質な言い回しには取り合わないことにしていました。
 「あなたは幸せか」と問われたとき、うっかり「私はいま本当に幸せなのか」という切り口で考え込んでしまえば、「本当の」という排他思想の罠にひっかかってしまいます。
 つまり、幸せかどうかという問い自体が、不幸を生み出しかねない危険な落とし穴だと考えていました。

 実際、カルト教団自己啓発セミナーなども、「本当の幸せ」とか「願望実現」といった言葉の罠を張り巡らせることで人々の心の隙につけこんでいきます。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/05/29/064500

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/05/31/064300
 そういった言葉の罠を回避するためにも、「幸せか」という問いに対しては「幸せだ」ってことにしてしまって、それ以上そこに囚われないようにするのが得策だと暗に生徒にも伝えたかったのです。

 「幸せ」とは、私たち人間の世界を形作っている膨大な「喩え」の一つです。
 生まれてから今日までに出会ってきた言葉の数々が、私たちにとっての現実を「喩え」によって造り出しています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/05/15/063300

 つまり私たちの人生は、言葉の運用によってどうにでも左右されてしまう移ろいやすいもの。 
 ですから、自分の人生の中にどのような語彙を取り入れるかという問題は、お勉強における単なる優劣の話では済みません。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/31/200500


 もしその「喩え」が楽しみを産み出さずに不幸ばかりを造り上げてしまうものならば、自分の人生には積極的に受け入れないというリスク対策も十分にありえます。
 人々が価値観と呼んで重視しているのはそういった「喩え」の取捨選択のことですから、言葉とは慎重に付き合っていきたいものですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300