一般に比喩と言えば、言葉を文字通りの使い方や標準的な使い方とは別の方法で用いることを指します。
例えば〈草食男子〉という喩えは、文字通りの「草を食べる男の子」とは違った意味合いで使われる言葉です。
今回は、この比喩という概念を拡大解釈することで「言葉を使わない比喩」という考え方を提案してみます。
そして、私たちが感じとっているこの世界がそうした比喩の積み重ねでしか成り立っていないことを説明することで、信じ込まされた固定観念の曖昧さとその根深さに迫っていきたいと思います。
例えばミツバチの眼は、紫外線や偏光というヒトには見えない種類の光を識別することができます。
ミツバチたちは、紫外線が見えるおかげで蜜のある花を探し当てることができるし、青空の偏光が見分けられるおかげで迷子にならずに自分の巣に帰ることができると言われています。
ですが、蜜のある花を探し当て、迷子にならずに自分の巣に帰るには、ただ紫外線や偏光が見える眼を持っているだけでは不十分です。
紫外線の見え方がどう蜜のある花の発見に繋がるか、偏光の見え方がどのように帰路の確保に繋がるか、といった「見えた光を活かす能力」がなければ、単によく見える眼だけあっても活かしようがありません。
こうした能力は一般に認知機能と呼ばれますが、比喩という概念を「言葉」という限られた範囲に留めずに、ありとあらゆる「情報」にまで拡張してしまえば、ミツバチの「見えた光を蜜や帰路のありかに置き換える行為」も立派な比喩だと言うことができるでしょう。
そんな風に、感覚器官が受け取る生のままの情報をもとに具体的な行動を起こす現象までを比喩の定義に含めてしまうことで、ほとんどの動物は比喩能力を身に付けていると言うことができます。
ヒトは赤、青、緑を感じる3種類の視細胞を持っており、その3種類の視細胞の興奮の強さによって感じる色が違います。
例えば、3つの視細胞が同じ強さで興奮する状態を、私たちは白と感じます。
言い換えると、3つの視細胞が同じ強さで興奮する状態を私たちは〈白〉と喩えているわけで、つまり〈色〉というのは「視細胞の興奮」という生の情報を解釈するために編み出された根源的な比喩です。
このように知覚の1つ1つが根源的な比喩で成り立っていることを確認することで、私たちが体験しているこの世界も実はすべて比喩でできていることが判明します。
そして、ヒトという動物を特徴付ける決定的な要素もこの比喩能力にあります。
ヒトは、比喩と比喩を重ね合わせることでまた新たな比喩を造り出すという、比喩の世界での創作行為がたいへん得意な動物です。
道具を作ったり、言語を使ったり、死者を弔ったり、といったヒトの際立った特徴はどれも、そういった喩える能力の高さから生じたものです。
そんなヒトが造り上げてきた無数の比喩の中で、最もインパクトの大きかったのが〈私〉という比喩でしょう。
〈私〉がどれだけ突拍子もない比喩かを説明するためには、まず〈自分〉という比喩について言及する必要があります。
〈自分〉とは、必死で生きようとしている各自の身体そのもののこと。
臓器・感覚器官・運動部位・神経系などを含む私たちの身体こそが〈自分〉です。
それに対して〈私〉という言葉は一般に、「心」とか「内面」などと呼ばれる認知機能のことを指します。
〈私〉とは、脳内に描かれるシミュレーションのようなもの。
例えば私たち人間は、行き慣れた道順を脳裏に思い描くことができます。
そのとき頭の中では、まるでゲーム画面の中をキャラクターが動くような感覚で、記憶と想像によって再現された〈行き道〉という比喩の中を架空の〈私〉が辿っていきます。
人類がコンピュータを造り出したように、ヒトの比喩能力は〈私〉というシミュレーションを編み出したというわけです。
ですが、ヒトの比喩能力の過剰さはそんな次元では留まりません。
映画『マトリックス』の中で機械が人間たちに仮想現実という共通の夢を見せていたように、比喩能力の発達したヒトの内蔵知能は〈私〉というシミュレーションの性能を向上させることで、あたかも〈私〉の意識がこの身体の主であるかのような〈実感〉という名の錯覚を与えることに成功したのです。
そのおかげで私たちは、今感じている世界が比喩によって造られた解釈だということにほとんど気付かないまま、精巧な〈私〉というシミュレーションの中を生きています。
言葉というのは、音声情報や視覚情報などを脳内の活動に変換していく比喩のうちの一つ。
そして思考とは、言葉と言葉の組み合わせによって織り成される複雑な脳内活動の喩えです。
ですから、この世界が本当はどのように成り立っているかといくら考えたところで、比喩で造られたあやふやな〈世界〉についてはザックリとした比喩でしか表すことができません。
ですが世の中には、この現実世界は私にとってもあなたにとっても共通のものであり、思考や言動などもその「共通の世界」に即した正しいものでなければならないと素朴に信じている人が数多く存在しています。
中には、それぞれの脳内で形造られている〈価値観〉という比喩の差を踏み越えて、「それは正しい」「それは間違っている」という○×ゲームで交通整理を始める人も出てきます。
そのように振りかざされる言語ゲームが「共通の世界」とやらに近付いている保証はどこにもないのですが、それでもこうして造られた〈正しさ〉という比喩は、人間社会の中で影響力を獲得してしまうことが多々あります。
比喩というのは、認知機能に影響を及ぼして〈私〉たちの〈世界〉を変更していくもの。
他人が造った乱暴な○×ゲームに無闇に振り回されてしまわないよう、こうした比喩の影響力を常日頃から考慮に入れていける成熟した大人の姿を目指していきたいものです。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。