意識とか心とか魂などと呼ばれている〈私〉たちの内面的な情景は、〈自分〉という肉体の生理機能が演出している幻のようなもの。
そのおかげで〈私〉たちはそれぞれの肉体の主のような錯覚に捕らわれていますが、「実際の主は肉体そのものの方であり、意識なんてものはお飾りの神輿に過ぎない」というのが前回紹介したトール・ノーレットランダーシュという科学評論家の持論でした 。
- 作者: トールノーレットランダーシュ,Tor Norretranders,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2002/09
- メディア: 単行本
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自己流に喩えて言うならば、〈私〉とは馬の背中に乗せられて騎手のふりをしているだけの猿のようなものです。
馬を動かしているのはあくまでも馬自身であり、別に猿が馬の行動を決定しているわけではありません。
それなのに〈私〉という猿は〈自分〉自身という馬を操っているような錯覚に陥っているというわけです。
例えば歩くとき、走るとき、自転車に乗っているときなど、〈私〉たちは体をどのように動かすかと特に意識しなくても、体幹や手足の動かし方などは〈自分〉の肉体の方が勝手に調整してくれています。
また、行き慣れた道であれば考え事をしながら移動していてもいつの間にか目的地にたどり着けてしまいますが、その移動の際の立役者も意識ある〈私〉ではなく無意識の〈自分〉の方です。
この〈私〉と〈自分〉の根本的な立場の差は、人間の思考の過程においても如実に現われています。
そのほんの一例として、長い間使っていなかったコンピューターのパスワードを思いだそうとするときの思考の過程を追ってみましょう。
「パスワードは何だっけ?」
「……」
「あっ、思い出した!」
この「何だっけ?」から「あっ」までの間に意識上に浮かび上がるのは、最初の「パスワードは?」という発問と思い出された結果としての「****」という数字の羅列だけという場合がほとんどです。
もしかしたら、パスワードを設定したときや過去にパスワードを使用したときの記憶くらいはよぎったりするかもしれませんが、がんばって列挙してみたところでせいぜいそういった断片的な印象程度のもの。
実際には、そのわずかな時間に〈自分〉の脳や神経において電気信号や化学物質のやりとりが超高速で行われているわけですが、その複雑に入り組んだ情報処理のプロセスが〈私〉の意識に浮かび上がることはまずありません。
より高度な知的思考の過程においても同様で、アインシュタインやマクスウェル、ガウスにポアンカレなど過去に偉大な発見を成した研究者の多くは、己のひらめきを「どこか理解の及ばない場所から不意にやってきたもの」と形容して、その出所の分からなさ具合を真摯に告白しています。
この思考プロセスの無自覚性について、ドイツの神経生理学者ハンス・H・コルンフーバーは以下のように述べています。
神経系では膨大な量の情報削減が行なわれる。
ちなみに、脳内を流れる情報のほとんどは意識されない。
心は体より『豊か』だとは言えない。
それどころか、私たちの中枢神経系で行なわれる情報処理のほとんどが知覚されない。
無意識の営み(これは、フロイトよりはるか昔に発見され解明されていたのだが)こそ、神経系の最も普通のプロセスなのだ。
我々はただ結果を見ているにすぎない。
多くの偉大な研究者たちが異口同音に語ってきたことからも察せられるように、思考において〈私〉たちの意識はそのきっかけと結果を認識させられるに過ぎず、その思考の過程は〈自分〉自身の肉体の生理機能によって自動的になされています。
これまでの話を総括すると、行動においても思考においても、〈私〉たちの意識はその活動の実務をほとんど担っていないということになります。
それでは、〈私〉という意識にはどんな存在意義があるのでしょうか。
前回紹介したアメリカの神経生理学者リベットの実験には、この疑問に答えるための続きがありました。
脳内の運動準備電位を計測するリベットの実験では、〈自分〉が行為の準備を済ませた0.35秒後に〈私〉は行為の決断を下したような気になっており、そのさらに0.2秒後に実際の行動が始まっていました。
リベットはこの行動が開始されるまでの0.2秒の猶予に注目し、実行しようと決めた行為を途中でやめるという選択肢を実験に織り交ぜることにしました。
すると、行為を中断したときも実行したときと同じように脳内に運動準備電位が発生した0.35秒後に行為の意思が起きましたが、中断か実行かという選択がなされるのはその後の0.2秒間の瀬戸際でした。
これによってリベットは「〈私〉の意識は行為を起こすことはできないが、〈自分〉が起こした行動を中断することだけはできる」という結論に至りました。
ただし、〈自分〉の起こした全ての行動を〈私〉が中断できるわけではありません。
〈私〉に止められるのは、意識という限られたスポットライトの中に浮かび上がった行為の衝動だけ。
意識に上がることのない無意識下の強迫的な衝動や、画鋲を踏みつけた時に飛び上がるといった肉体の脊髄反射などは、お神輿の猿である〈私〉ごときに中断することはできません。
〈私〉の判断は常に〈自分〉という肉体よりも0.35秒は遅れているため、痛みや恐怖からの回避といった生死に直結しかねない原始的な衝動の制御を、悠長な〈私〉の意識なんかに任せてはいられないのです。
逆から考えるならば、〈私〉という後天的なプログラムにあてがわれる中断の権限は、生死に直結しないような優先度が比較的低い情報に限られる、と言うこともできるでしょう。
〈自分〉の衝動をいくらか抑えることができる〈私〉たちの意識は、その能力によって「選択と集中」というもう一つの役割を担っています。
弱肉強食の世界に生きる野生動物たちは、喰うか喰われるかの生存競争のためにその肉体を常にフル稼働させています。
一瞬の判断の遅れが命取りになる野生動物は、感覚器官から間断なく入ってくる膨大な情報をもとに瞬時に己の最適動作を割り出して実行に移し続ける、という厳しい使命を己の肉体に課さざるを得ません。
ですが人類は、道具や概念の発達とともに感覚や動作だけに頼らない生存の知恵を積み重ね、この命がけのハードワークからだんだんと解放されていきました。
そうして、それまで感覚や動作の開発に終始していた生理機能のワーキングメモリーは、意識というスポットライトの向く先にもその使い道を集中させられるようになってきたのです。
自転車に乗れるようになるまでの過程を思い出してもらえばわかるように、練習によって最終的に運転技術を覚えるのは、ちっぽけな〈私〉の意識ではなく豊かな可能性を秘めた〈自分〉の肉体の方です。
ですが、この肉体のワーキングメモリーを練習に集中させることで〈自分〉自身の技術開発を助けるのは、他の行為への衝動を抑えられる〈私〉の役割です。
この〈私〉による「選択と集中」が実現するためには、動作や感覚の開発を一時的にサボっても十分生き延びることができるできるような恵まれた環境と、集中する対象を概念として喩えられるだけの比喩能力とが必要となります。
その前提条件の上でなら、生死に直結するわけではない緊急性の低い案件ついてのみ、〈私〉の手綱さばきが可能になる場面が生じます。
〈私〉がスポットライトを当てた案件について、〈自分〉が試行錯誤の末に立案を行い、その立案された衝動について〈私〉は採択だけを行うというわけです。
こういった緊急性の低い行為の創出は文化とも呼ばれ、その積み重ねが人類の文明社会となっていきました。
今日に至る学問、芸術、技術、科学などの発展は、ヒトの膨大な処理能力を選択的に集中使用することが可能となったために引き起こされた一大事です。
そしてこれこそが、〈私〉というちっぽけな意識の為した巨大な功績なのです。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。