数千年前の古代人たちは、現代の私たちが抱いているような主観的で意識ある心を持ち合わせておらず、右脳から聴こえてくる神々の声に従って生きていた。
前々回の記事で紹介したジュリアン・ジェインズは、1976年に刊行した『神々の沈黙』でこの途方もない仮説を発表し、意識を巡るその後の研究に大きな影響を及ぼしました。
- 作者: ジュリアンジェインズ,Julian Jaynes,柴田裕之
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2005/04
- メディア: 単行本
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その数年前に行われたワイルダー・ペンフィールドとファノール・ぺローの実験により、人の右側頭葉の後部あたりを微弱な電流で刺激すると、刺激された本人は統合失調症の患者が体験するような幻聴や幻視を感じるということが確認されています。
これらの幻覚は実際に聴いたり見たりしたものとして経験され、その声や姿はどれも被験者本人のものではなく他者のものとして認知されていました。
ジュリアン・ジェインズは、この右脳由来で起こる幻覚こそがギリシャ神話に生々しく描かれる神々の正体であり、紀元前2000年より前は誰もが統合失調症だったと仮定したのです。
今回は、このジュリアン・ジェインズの仮説を元に、私なりにアレンジを加えた解釈を組み立てていきたいと思います。
ヒトは、比喩と比喩を重ね合わせることでまた新たな比喩を造り出すという、比喩の世界での創作行為がたいへん得意な動物です。
道具を作ったり、言語を使ったり、死者を弔ったり、といったヒトの際立った特徴はどれも、そういった喩える能力の高さから生じたものです。
この優れた比喩能力は、体中から送られてくる感覚情報を元に、「目に見える世界」という現実世界の喩えをその内面のスクリーンに写し出してます。
つまり、私たちが生きていると思っているこの「目に見える世界」は、脳や感覚器官などが演出している一種の仮想現実に過ぎません。
そしてこの「目に見える世界」という仮想現実の内部を生きている架空のキャラクターこそが〈私〉です。
これは肉体の生理機能によって造られた幻影のようなものですが、現代ではこの〈私〉こそが心とか意識などと呼ばれて重要視され、まるで体の主のようなふりをしています。
ですが〈私〉という比喩が造られたばかりの数千年前は、〈私〉とは肉体が選択する行為のただの傍観者であり、体にとっての付属物でしかありませんでした。
ミジンコやミツバチや猿などが生理反応によって行動したり学習したりするように、ヒトも生理反応によって行動したり学習したりすることができます。
〈私〉という作り物のキャラクターにとって、己の「目に見える世界」を自動的に決定していく肉体の生理機能はまさに主そのものだったのです。
この肉体の生理機能のことを、ここでは〈自分〉と呼ぶことにします。
犬やイルカやヒトの躾を参考にしてもらえば分かるように、〈自分〉という体の生理機能は、己に向けられた様々な音声が喩えようとしている事柄を後天的に学習することができます。
このように生理レベルで刻みこまれた言葉などの音声信号は、〈自分〉という肉体の行動を劇的に変化させていき、初期の文明社会を築いていきました。
中でも言葉という音声信号の影響力は強大なもので、人々に言葉で躾を施してきた重要人物の記憶は、死んだ後も各人の右脳から幻聴としての声を響かせ続けました。
王族などの重要な人の亡骸をあたかもまだ生きているかのように埋葬する習慣が、古代文明のほとんどすべてに存在しているのはそのためです。
〈私〉にとって、主である〈自分〉の体はまさに〈神〉のようなもの。
古代人たちは〈自分〉自身の生理的な反応に従って、まるで主体的な意思など持たないかのように行動していました。
この古代人たちの精神状態は、詩作や音楽などの芸術的な営みにおける没入状態、スポーツ選手のゾーンと呼ばれる状態、神託や憑依などに見られるトリップ状態、催眠、統合失調症といった状態に通じるものです。
ですが、言葉は新たな比喩を造ることによって〈私〉たちの仮想現実を変容させていく力を持っています。
人々の比喩能力は言葉を生み出す度に新たな喩え方を獲得し、〈私〉という傍観者に〈自分〉が起こそうとする行為へのブレーキの権利を与えました。
心と体の問題について議論されるようになるのはそれ以後のことで、現存する文献としては紀元前400年頃にプラトンによって再現されたソクラテスの対話が最古のものとされています。
それより前の時代の文献に心身問題の記述は見つかっておらず、 紀元前1000年前後に創られた人類史上最初の著作である『イーリアス』には神々の命ずるままに生きる主体性のかけらもない人間たちが描かれているだけです。
〈自分〉の起こした衝動にブレーキをかけられるようになった〈私〉という傍観者は、自らがこの体を操縦しているかのような錯覚にとらわれ始めます。
その結果、行為への衝動自体は〈自分〉の生理反応から産み出されているにも関わらず、意識ある〈私〉の方がこの体の主だという倒錯した主観を抱くようになりました。
mrbachikorn.hatenablog.com
それに伴って右脳から響いていた〈自分〉という〈神〉の声も、だんだんと聴こえなくなっていったのです。
それまで〈自分〉の生理反応に従って自動的に行動していた人間たちにとって、行動の主として「何をすべきか判断する」という〈私〉の立場は少々荷が重いものでした。
そこで人間たちは、未だに〈自分〉という〈神〉の声の幻聴を聴きとることができた数少ない人間を王、預言者、占い師、巫女などとして崇め、社会における重大な意思決定をそうした神託に委ねました。
しかし、こうした〈神〉の声を聴きとれる人の数は主観的な意識が普及するにつれて減少していき、それとともに意識ある〈私〉にとっての新たな行動基準が必要とされました。
そうして生まれたのが、もはや聴こえなくなった〈神〉の言いつけを、聖典を通して伝えていくキリスト教やイスラム教などの一神教です。
ですが科学革命とともに行動基準としての〈神〉や宗教の権威も失われ、今では、客観的事実という神話の中にその行動基準が求められています。
多くの文明人たちにとって、科学の位置付けとは〈私〉たちの決断を助けていく現代版の〈神〉の声のようなもの。
そう考えれば、占いや擬似科学、カルト宗教や自己啓発やスピリチュアル文化が流行ってしまうのも、ある意味仕方のないことかもしれません。
いくら時代が変わろうとも、〈私〉以上の権威に判断を委ねたいと願ってしまうヒトの性分はそれほど変わっていないのですから。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。