間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

○×はしんどい

 世の中にはヨガや禅などをはじめとする数多くの瞑想法があり、適切な方法で瞑想すると自分と周りの世界との境がなくなって「宇宙と一体となったような感覚」が得られると言います。
 こうした神秘体験の存在は「大いなる存在に繋がっている」といった信心を生み、カルト集団における魅力の源泉にもなっています。

 この神秘体験の最中に体験者の脳内では何が起こっているのか。
 脳科学者のアンドリュー・ニューバーグとユージーン・ダキリはSPECTという撮影技術を用いて、瞑想する若いチベット僧の脳内血流の様子を観察しました。
 彼らの著書『脳はいかにして〈神〉を見るか』によると、宗教者達が瞑想に入るとまずはじめに左脳の言語中枢の血流が減少し、次に左脳の後部頭頂領域にある方向定位連合野の血流も減少したときに「大いなる一体感」への到達が申告されたそうです。

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス

脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス

  • 作者: アンドリューニューバーグ,ヴィンスローズ,ユージーンダギリ,Andrew Newberg,Vince Rause,Eugene D’aquili,茂木健一郎
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  方向定位連合野は空間の位置関係を統合する機能を持っており、その人の肉体の境界を判別することにも役立っています。
 瞑想による神秘体験では、この領域の機能が低下することによって自分の身体の位置の捉え方が明確ではなくなり、それによって普段の空間の感覚を見失っていたということが判明したわけです。

 では逆に、脳内血流の減少による同様の活動低下さえ起これば、瞑想でなくても宇宙と一体となったような感覚は得られるのか。 
 脳卒中による言語機能や運動機能の損傷から奇跡的な回復を果たした脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、『奇跡の脳ー脳科学者の脳が壊れたときー』という著書にこの疑問に対する解答を記していました。

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

奇跡の脳―脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

 

 彼女は脳卒中にみまわれて左脳に大出血を起こした結果、修行僧が瞑想時に感じられるような周りの空間との一体感を手に入れてしまったのです。
 そのときの様子を、彼女は次のように表現しています。

どこで自分が始まって終わっているのか、というからだの境界すらはっきりわからない。
なんとも奇妙な感覚。
からだが、個体ではなくて流体であるかのような感じ。
まわりの空間や空気の流れに溶け込んでしまい、もう、からだと他のものの区別がつかない。

この変容状態では、わたしの心はもはや、いつも脳が外の世界で人生というものを定義し、導いてくれていたことなんで、どうでもよくなってしまいました。
外の世界との折り合いをつけてくれていた、脳の中の小さなささやきも聞こえません。

傷ついた脳の中で広がる虚空に、うっとり魅せられてしまいました。
脳の中に静寂が訪れ、絶え間ないおしゃべりからひととき解放されたことがうれしかった。
あのおしゃべりは、今となっては騒がしい外界の些細なことでしかない。

わたしは生まれて初めて、生を謳歌する、複雑な有機体の構築物である自分のからだと、本当に一体になった気がしました。
知覚が遠ざかっていくのがうれしい。
意識が次第に平穏な状態へ向かうにつれ、わたしは、ふわふわと浮かんでいるような気分になりました。

 こうした神秘体験と脳内の生理現象との相関については、いくつかの解釈が考えられます。
 一つ目は、この神秘体験は脳神経が正常に作動しなくなった結果であり、信仰を持つ人々は脳の誤作動をありがたがっているだけだとするもの。
 二つ目は、神秘体験は脳の仕組みで説明がつくかもしれないが、そんな仕組みが人間の脳に備わっているのは大いなる意志が働いているからだとするもの。
 三つ目は、普段の我々の認知状態は言葉や概念によるストレスフルな矯正の産物であり、瞑想などによって「人間的な認知を築く」という苦役を中断することが偉大な体験として受け止められているというもの。
 私の支持する立場は、この三つ目の解釈になります。

 一つ目の解釈との違いは、私たちが生きていると思っているこの「目に見える世界」のことを、本来あるべき正常な姿だと捉えているかどうか。
 三つ目の解釈では、この「目に見える世界」は言葉や概念によって築き上げられてきた歴史的な構築物であり、この数千年間のような言葉や概念が流通していなかった時代には演出されていなかった一種の仮想現実だと捉えます。
 つまり、私たちが当たり前だと感じている「いわゆる人間的な認知」を、人間本来の正常な姿と捉えるのが一つ目の解釈で、言葉や概念によって変化していく過渡的な形態だと捉えるのが三つ目の解釈です。


失われた神を求めて - 間違ってもいいから思いっきり


 神秘体験で味わえる「ひとつに繋がった世界」こそが個を超越した大いなる境地だとする二つ目の解釈は、私たち人間の「目に見える世界」は仮初めの姿だと見なす点で三つ目の解釈と共通点があります。
 ですが「ひとつに繋がった世界」をやたらと神聖視しない点で、三つ目の解釈は二つ目のスピリチュアルな解釈とは袂を別ちます。
 三つ目の解釈では、私たち人間の「目に見える世界」を築く脳内作業こそが生きるストレスの原因であり、作業中断によるストレスからの解放が神秘体験の幸福感に繋がっているのだと推測します。
 喩えて言うならば、長い間足を締め付けていたスキー靴を脱いだときの解放感のようなものに過ぎません。
 
 これまで当ブログで繰り返し述べてきたように、私たち人間は言葉で物事を考えている限りあらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。
 この○×ゲームのストレスがあったからこそ人類は現在のような文明社会を築くことができたのですが、野生の世界における喰うか喰われるかの生存競走から解放された替わりに、今度は「絶え間ない脳内のおしゃべり」に振り回されるハメになったわけです。
 私たちを取り巻くこうした言葉の荒波に溺れてしまわないよう、言葉の影響力とは上手い距離感で付き合っていきたいものですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300