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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

身体性を優先せよ

 『海馬』『高校生の勉強法』『進化しすぎた脳』などの著作で知られる池谷裕二の活動テーマは、脳科学の視点から見て「よりよく生きるとは何か」を考えること。
 楽しく、ごきげんに生きるために脳科学の成果を活かそうとうする彼の脳の捉え方が、『脳には妙なクセがある』という著書にまとめてあったのでここで紹介してみます。

脳には妙なクセがある (扶桑社新書)

脳には妙なクセがある (扶桑社新書)

 

 「脳」が何のために存在するのか考えてみましょう。
現在では「脳」は高度な情報処理を実行する特殊な組織として機能しています。
だから、「脳は何のためにある?」と訊くと、たいていの人は「精神を司るため」とか「意識や心を産み出すため」と答えます。
しかし、こうした機能は脳の本質ではありません。

ごく初期の生物を見たほうが、脳の本来の役割がわかるというものです。
こうした生物では、脳は、外界の情報を処理して、適切な運動を起こす「入出力変換装置」です。
餌ならば近寄る、敵や毒ならば避けるといった、単純ですが生命にとって大切な反射行動を生み出す装置です。

つまり当時の脳は、とことん身体感覚(入力)と身体運動(出力)の処理に特化した組織だったはずです。
こうした経緯を、発展的に再考すれば、すべての高次脳機能が身体制御という原始機能がコオプトされたものであったとしても、もはや不思議ではないでしょう。

 ここで池谷氏が用いている「コオプト」という言葉は、本来は別の目的で機能していたツールを他の目的に転用することを表す用語です。
 本文では、身体制御のための原始的な機能が、感情や思考や計算などの高度な情報処理に使い回されている例が数多く紹介されています。

 トロント大学のアンダーソン博士は筋電図で顔面の筋収縮を測定し、人が道徳的な嫌悪感を感じるときに収縮する顔の筋肉と、苦味を感じるときに収縮する顔の筋肉が共通していることを発見しました。
 彼はこの実験結果から「道徳心は進化的に古くから存在している心理的反応を原型として派生した」と推測しています。
 古い生物は、苦味(毒)や悪臭(腐敗)などの生命にとって都合が悪いものを拒絶するシステムをすでに発見していて、のちに脳はこの効果的なシステムを転用することで、モラルという高度な社会的感情を創作したというわけです。

 カルフォルニア大学のアイゼンバーガー博士らは、心痛に関する実験を行っています。
 何も知らない被験者を集団遊びの中で仲間外れにし、そのときの脳の活動を検査したところ、疎外感を感じたときには手足などの身体の痛みに関係する前帯状皮質が活動することが分かりました。
 つまり、生存のために鋭敏になっている動物としての痛覚系が、ヒトとして社会的に孤立しないためのセンサーとして使い回されているわけです。

 パリ第11大学のノプス博士らは、足し算と引き算などの算術も身体感覚に関係していることを発見しました。
 彼らはまず、眼球を左右に動かすときの頭頂葉の活動を記録し、次に足し算と引き算をしたときの頭頂葉の活動を記録して、両者の比較を行いました。
 すると、実際に眼球を動かしていなくても、足し算をするときには眼球を右に動かすときの活動が、引き算をするときには眼球を左に動かすときの活動が頭頂葉から検知されました。
 ノプス博士らは「計算を行うとき、私たちは左右に伸びる数直線をイメージし、その空想上の数直線の目盛りを仮想的な視点移動で追いかけているのではないか」と推測しています。

 脳の構造は階層的になっており、その中心には脳幹や小脳、基底核といった進化的に古く、身体と深い関係をもった部分があります。
 こうした旧脳のうえには大脳新皮質がありますが、この大脳新皮質と身体との接点は、旧脳に比べてはるかに少ないです。
 つまり、身体感覚や身体運動の制御という面から見ると、大脳新皮質という新参者は必ずしも必要ではない補足品のようなものです。

 この身体性の希薄な大脳新皮質の発達により、ヒトの脳には実際の身体運動や身体感覚を省略する癖が生じます。
 ヒトの脳は、網膜が数直線を捉えていなくても空想上の数直線をイメージしますし、実際に眼球が動いていなくても無意識のうちに架空の眼球運動によって計算を行えてしまいます。
 計算力や同情心やモラルなどの高次な機能はこうした身体性の省略から生まれたのではないかというのが、池谷氏の提唱する仮説です。

 「考える」という行為は身体性から派生しており、純粋に独立した精神など存在しない。
 彼がこの仮説を通じて訴えようとしているのは、日頃の身体経験の重要性です。
 こうした論点を踏まえた上で、最後に『脳には妙なクセがある』に書かれている「楽しく、ごきげんに生きる」ための提言の数々を紹介したいと思います。

ヒトの脳は、身体の省略という美味しい「芸当」を覚えたがために、身体性を軽視しがちです。
身体を動かさずに、頭の中だけで済ませたほうが楽なのはよく理解できます。
しかし脳は、元来は身体とともに機能するように生まれたものです。

手で書く、声に出して読む、オモチャで遊ぶーー活き活きとした実体験が、その後の脳機能に強い影響を与えるだろうことを、私は日々の脳研究を通じて直感しています。
精神と身体は切り離して考えることはできません。
心は脳にあるのではありません。
心は身体や環境に散在するのです。

ローマの詩人ユウェリナスは「健全なる精神は健全なる身体に宿る」という名言を残しています。
この言葉が象徴するように、昔の人は身体を脳の上位においていたにちがいありません。

ところが、後年にデカルトフロイトなどのように精神の重要性に気づく人が現れ(そして、精神を強調しすぎたがゆえに)、現在では脳を身体よりも上位においてしまう奇妙な錯覚に至ったのでしょう。
そんな今だからこそ、心は身体から派生することを、あえて念頭に入れておくことが大切だと私は思うのです。

「ヒトは自分自身に無自覚であるという事実に無自覚である」とは、ヴァージニア大学のウィルソン博士の言葉です。
私たちは自分の心がどう作動しているかを直接的に知ることはできません。
ヒトは自分自身に対して他人なのです。

こうした研究成果が明らかになればなるほど、意識上の自分をあまり過信せずに、謙虚にならねばと襟を正す思いがします。
と同時に、自分が今真剣に悩んでいることも、「どうせ無意識の自分では考えが決まっているんでしょ」と考えれば気が楽になります。
そう、そもそも私たちは、立派な自由など備わってはいません。
脳という自動判定装置に任せておけばよいのですから気楽なものです。

ヒトという生き物は自分のことを自分では決して知りえない作りになっているようです。
だからこそ私は、よい経験を積んで、よい「反射」をすることに専念する生き方を提案しているのです。
これが脳を最大限に活用するための一番の近道なのだと確信しているからです。
よい経験をしたら、あとは脳の自動的な反射に任せておくだけーーこれほど前向きで、健全な生き方が他にあるでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300