間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

上辺だけで終わらないために

 高校で受験数学を教えながらプライベートでは和太鼓や民舞の普及に努める私にとっての心の師は、思想家にして武術家でもある神戸女学院大学内田樹です。
 彼はその著書『邪悪なものの鎮め方』の中で、技芸における停滞について次のように語っています。 

邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

邪悪なものの鎮め方 (木星叢書)

 

 自分の無知や無能を認めることは、「よくある向上心」にすぎない。
「ブレイクスルー」は「向上心」とは次元が違う。
自分自身が良否の判定基準としている原則そのものの妥当性が信じられなくなるというのが「ブレイクスルー」である。

ところが、「原則的な人」はこのような経験を受け入れることができない。
自分が立てた原則に基づいて自分自身を鞭打ち、罵倒し、冷酷に断罪することにはずいぶん熱心だか、その強権的な原則そのものの妥当性については検証しようとしない。

原則の妥当性を検証する次元があるのではないかということに思い及ばない。
それが「原則的な人」の陥るピットフォールである。
そのようにして「原則的な人」はしばしば全力を尽くして自分自身を「幼児」段階に釘付けにしてしまう。

小成は大成を妨げるというのは甲野先生のよく言われることであるが、それはほんとうで、局所的に機能する方法の凡通性を私たちは過大評価する傾向にある。
「原則的に生きる人」はある段階までは順調に自己教化・自己啓発に成功するが、ある段階を過ぎると必ず自閉的になる。
そして、どうしてそうなるのか、その理路が本人にはわからない。

これだけ努力して、これだけ知識や技能を身につけ、これだけ禁欲的に自己制御しているのに、どうして成長が止まってしまったのか。
それがわからない。
だから、ますます努力し、ますます多くの知識や技能を身につけ、ますます自己制御の度合いを強めてゆく。
そして、知識があり、技能があり、言うことがつねに理路整然とした「幼児」が出来上がる。

若い頃にはなかなか練れた人だったのだが、中年過ぎになると、手の付けられないほど狭量な人になったという事例を私たちは山のように知っている。
彼らは怠慢ゆえにそうなったのではなく、青年期の努力の仕方をひたすら延長することによってそうなったのである。

 ここで紹介されている甲野善紀の『小成は大成を妨げる』という言葉は、彼の長年に渡る古武術研究の中で生まれた実感。
 重量や回数をただ増やすだけでは動作の質的な革新など望めないのに、現代のスポーツトレーニングの多くは目先の数値ばかりに気を取られており、人体の持つ豊かな可能性を活かしきれていないと問題提起したものです。

 この問題意識に通じる格言として、武術家であり哲学者でもあったブルース・リーの『考えるな、感じるんだ』が挙げられます。
 私がこれまで数学や和太鼓を指導してきた経験を元に、内田樹甲野善紀の言を借りてブルース・リーの言葉を解釈するとこういうことになるでしょう。

今のあなたのものの見方では、それ以上次元の高い事柄は理解できない。
より次元の高いものの捉え方を獲得して一皮向けるためには、あなたがまだ知らない価値判断の基準に対してチャンネルを閉ざしてしまわないことが肝心である。

現状の凝り固まった頭の使い方で脳みそを稼働し続ける限り、いつまでも同じレベルの小成を重ねるだけ。
未知の判断基準へのチャンネルは閉ざされたままで、あなたのものの捉え方は現状から決して成長することはない。

今以上の水準に「ブレイクスルー」したいのであれば、「何を目指せば良いか」を今のあなたの「原則」で考えるのは止めにして、未知の判断基準へのチャンネルを解放せよ。
考えるな、感じるんだ。

 ゆとり教育の影響なのか「未熟な学習者にはそのレベルで理解できる説明をせよ。高いレベルの者にしか通じない説明を初学者にはするな」というニーズは未だに根強いようです。
 書店にはそんな「幼児」たちのレベルに合わせた、分かりやすく薄っぺらなビジネス書が溢れています。
 ですが、いつまでも「分かりやすい易しい説明」ばかりを繰り返していれば、その学習者のものの捉え方は初学の段階でストップしたままになってしまいます。

 ですから、和太鼓の打ち方などを教えるときも、状況に応じて「分かりやすい表面的な説明」の中に「動作の質に関する深層的な説明」を紛れ込ませるよう心がけています。
 そうすれば初学でまだ慣れない人はそれぞれの許容量の範囲で「分かりやすい説明」だけを受け取っていくし、それだけでは飽き足らない中級者は「1ランク上の説明」の方も受け取ることができます。

 そのため、全く同じことを2回以上説明したとしても「初めからそう言ってくれれば良かったのに」ということがよく起こります。
 これは、最初学んだときには受け取る余裕がなくて無意識のうちにスルーしてしまっていたことも、回数を重ねているうちに受け取るだけの素地が出来上がって理解できるようになったということ。
 変わったのは説明の内容ではなく、受け取る側の姿勢だったというわけです。

 ですから「己の学ぶ姿勢を全く変えずに、自分の持っている考え方だけで全てを理解しようとする人」というのが一番の厄介者です。
 現時点での己の方法論に自信を持っている人ほどその傾向が強いので、そんな学習者に対しては「今のあなたの学習法では決して到達することのできない境地がある」という事例を実際に見せることでその限界を思い知らせることにしています。

 小成は大成を妨げる。
 自分もそんな厄介者になってしまわないよう、常にチャンネルを開いておきたいですね。
 考えるな、感じるんだ。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300