間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

バカリズムに学ぶ排泄の習慣づけ

 2012年12月29日に放送された「すべらない話」の中で、お笑い芸人のバカリズムは排泄に関するディープな告白をしました。
 それは彼が自宅のリビングでくつろいでいるときに起きました。
 テレビを観ているときに尿意を催した彼はわざわざトイレに行くのを面倒に感じ、「今まで意識的に服を着たままおしっこしたことないなぁ」と思って試しにやってみようと決心したのです。

 パンツとズボンは洗えばいいだけだからと思って試しにチャレンジしてみたところ、服を着たままおしっこをしたら駄目だと体が思っているらしくてなかなか出ません。
 それでも無理にやってみたら、えもいわれぬ開放感で大変気持ちよかったそうです。

 そこで翌日、もう一回やってみようと思ってチャレンジしたところ、前日よりもすんなりおしっこが出て、その分気持ちよさも減りました。
 それを最後に着衣のままの排尿行為は止めたそうですが、そこから1週間くらい彼はおねしょが止まらなくなったということです。

 このおねしょについて彼は、やってはいけないことをしたせいで「膀胱が馬鹿になった」という言い方をしていましたが、テレビで観ていた私は別の感想を抱きました。
 彼の体に起こった現象は、故障ではなくむしろ学習。
 物覚えの良い彼の膀胱は、「おしっこは服を着たままするものだ」という新たな習慣を、たった2回の指導で身に付けてしまったのです。

 疫学者の三砂ちづるは、私たち文明人のほとんどがバカリズムのような破天荒な排泄行為を一度は学習してきていると言います。
 それはおむつへの垂れ流しです。
 
 彼女は2006年度から2年間、トヨタ財団の助成を得て、伝統的な「なるべくおむつを使わない育児」の研究をしました。
 保育士、母子保健・育児関係者、民俗学者などをメンバーとする研究チームをつくり、日本やインドネシアでのおむつはずしの変遷を調査し、そこで獲たノウハウを現代のお母さん方に試してもらったそうです。
 そうして「おむつを使わないでいる方が赤ちゃんもお母さんも実は楽」だという結論に達し、その成果を『赤ちゃんにおむつはいらないー失われた育児技法を求めて』という本にまとめています。  

赤ちゃんにおむつはいらない

赤ちゃんにおむつはいらない

 

  といっても特に難しい方法が書いてあるわけではありません。
 赤ちゃんが発する排泄のサインを読み取って、赤ちゃんが排泄したいときに服を脱がせてしかるべき所で促してあげれば、「ためて出す」という排泄のコントロールを自然と身に付けていくのだそうです。

 こうした赤ちゃんへの排泄の促す行為は「やり手水(ちょうず)」とか「ささげ」などと呼ばれ、昭和初期までは普通に使われていた言葉だったそうです。
 おむつ自体はこの頃も使われていましたが、それはあくまでもためておくことに失敗したときのために備えてあるものであり、最初からそこに垂れ流すために装着するものではありませんでした。

 戦前の『主婦の友』には、おむつを使っていると赤ちゃんはおむつで排泄することに慣れてしまうが、それは「悪い習慣づけである」とためらいもなく書いてありました。
 当時は遅くても二歳までには完全におむつがはずれていたみたいですが、だからといって母親たちはおむつをはずすこと自体には大して力を入れていなかったようです。
 赤ちゃんの様子を察知して、トイレ等でおしっこやうんちをさせるようにしていたら、いつのまにか自然に排泄の自立に至っていたというのが、当時の母親たちの実感でした。

 しかし、おむつ外しの時期は紙おむつの普及とともにだんだんと遅くなり、今では「三歳までにとれればよい」「幼稚園に入るまでにとれればよい」などと言われ、四歳児むけの大きなおむつも発売されています。
 近年では「無理しておむつをとろうとすると、子どもの心を傷つける」といういかにも科学的風な脅し文句が知れ渡っているため、ほとんどの母親がおむつを早くとろうとはしません。

 そんなわけで、文明人たちの多くは生まれて間もない頃からバカリズム式の垂れ流し排泄を学習させられます。
 おむつを長い間着けていれば「着衣のまま垂れ流す」という習慣はその分強化され、「トイレで出す」という別の習慣に乗り換えるのが困難になります。
 バカリズムのおねしょはたったの一週間で済みましたが、おむつに垂れ流す期間が長かったならその学習効果の分だけおねしょも長期間続くのかもしれません。

 近代化によって失われつつある文化として、三砂ちづるが調査したもうひとつの身体技法が月経血コントロールです。
 吸収力の高い生理用品の普及の影響からか、月経血に関しても「垂れ流してナプキンやタンポンに吸わせるもの」という新しい常識が近代社会には広まっていますが、月経血にも「ためて出す」という身体技法が存在するらしいのです。

 彼女は『昔の女性はできていたー忘れられている女性の身体に"在る"力』の中で、月経血を自然にコントロールしていた方にインタビューを行っています。
 昭和初期から芸事の道で活躍されていた加藤光江さんは、月経血のコントロールについて以下のように語っています。

私は若い頃はあまり月経の量が多くなかったので、月経中でも生理用品のようなものは何も使っていませんでした。
月経中はいつも粗相をしないように自分で気を付けていました。
歩くときなどは何か紙のようなものを股の間にはさむような姿勢で、あまり大きく足を開かないようにしていました。
そのうちおなかのあたりが気持ち悪くなってくるので、そろそろ出そうだなというのがわかるんです。
そしたら出ないように股を締めてお手洗いに行って、たまっていたものを出すんです。

舞台に出る前など、大切な時には必ず、「お手洗いに行った?」とお師匠さんに聞かれます。
月経中でもまめにお手洗いに行っておけば、その後、しばらくは大丈夫でした。
夜寝ている時にしくじったことも、あまりありません。
月経中は気にして寝ているので、夜中に何回も目が覚めちゃうんですよね。
1晩に3~4回くらいはお手洗いに行って出していました。

 また、現代女性の中にも自分なりの知恵として、いつの間にか月経血をコントロールしている人もいるようです。
 そんな一例として、日本出産教育協会の代表を努める戸田律子さんの話が紹介されています。

 彼女は中学・高校時代の排血量が多すぎて、授業時間である一時間ももたずにナプキンから横もれを繰り返していたそうです。
 そこで苦肉の策として排血の我慢を覚え、休み時間のたびにトイレに駆け込んでたまった月経血を出すようにして難を凌いだそうです。
 月経血コントロールを覚えた当時の感覚について、彼女はこう語っています。

排血をこらえている時というのは、意識して膣のあたりを締めた状態にしています。
排血しそうになると、ふわっと温かいものが膣のほうに下りてくるような感覚があるので、その時にさらに締めるようにする、という感じでやっていました。
こうして自分なりに月経血をコントロールしていたのですが、特別なことをやっているという意識はまったくありませんでした。

 つまり、赤ちゃんの排泄も女性の月経も「ただ垂れ流す」だけが唯一の自然状態ではないということ。
 「ためて出す」にしろ「受け皿に垂れ流す」にしろ、それは私たちの身体の勤勉な学習によって身に付けられる後天的な習慣なのです。

 三砂ちづるは月経にしろ出産にしろ育児にしろ、ご自身の発信される方法がより自然で、今普及している近代的な方法は問題があるというニュアンスで紹介していますが、私の着眼点はそこではありません。
 ここで私が言いたいのは、排泄の方法も学習で身に付けていくテクニックの一つに過ぎず、自然で正しい唯一の排泄方法など別に存在しないということです。

 そんなわけで、私が最後に紹介したいのは2014年6月28日放送の「すべらない話」におけるバカリズムのトイレの話です。
 彼は小学校1年生の時、ばれないようにウンコをする裏技を開発しました。
 その裏技とは以下のようなものです。

 まず、どうしても漏れそうになったら人目が付かない草むらなどに隠れる。
 そして、パンツに手を突っ込み、 手にちょっとだけ排便して捨てる。
 そうやって小分けにウンコを出し切って最後に手を洗う。

 学校のトイレでウンコをするのが恥ずかしかった当時のバカリズムは、どうしてもという時にこの裏技をやっていたそうです。
 最初は緊張するしウンコの量の調節も難しかったけど、やっていくうちに段々と気持ちも慣れて技術が向上していき、まん丸い小さなうんこを均等なサイズで出せるようになったということです。
 私はこのバカリズムが完成させた裏技を、おむつなし保育や月経血コントロールに負けるとも劣らない人体の神秘だと感じました。

 どの方法が正常でどの方法が異常かといった議論の小競り合いに、私は大して興味を持ちません。
 排泄の仕方は学習で身に付ける習慣でしかありませんから、ためてから出すにしろ、着衣のまま垂れ流すにしろ、手掴みで排出するにしろ、好きな方法を選んだら良いと思います。

 要はただの選択だということ。
 正しかろうが正しくなかろうが私たちは自分なりの選択をしていくだけ。
 不和の種をまくのはいつも、正しいとか間違ってるなどと言いたがる人々なのです。



※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300