肩こりや腰痛や手足の関節痛など、慢性的に起こる激痛の原因は何なのか。
ニューヨーク医科大学のジョン・E・サーノは1980年代にTMS理論という仮説を発表し、慢性痛に関するそれまでの定説に反旗を翻しました。
それまでの医学の常識では、脊椎の構造的な異常、姿勢の歪みや運動不足や過労などからくる筋肉の異常、神経の圧迫といった、物理的な要因が慢性痛の原因とされてきました。
それに対してサーノは、慢性痛は脳が積極的に作り出した生理現象の一部であり、身体の構造に正すべき異常があるから痛みが起こっているわけではないと説いています。
脳によって作り出される慢性痛を彼は緊張性筋炎症群(以下、TMSと略す)と名付け、 痛みを作り出すこうした脳の働きを防衛反応の一種だと説明しました。
TMSでは、自律神経系が抑圧された不安や怒りなどの感情に反応し、ある部位の筋肉や神経、腱、靭帯の血流量を減少させていると仮定しています。
こうして血液をあまり送り込まれなくなった組織は酸素欠乏を起こし、痛みやしびれ感、麻痺、筋力低下といった症状が完成するのです。
ではなぜ脳は身体に痛みを作りたがるのか。
それは抑圧された感情から己の自我を守るため。
つらい感情に心が囚われてしまうのを避けるために、脳は身体に痛みを作り出すことで意識を痛みの方に向けさせているのだとサーノは説きます。
それでは不安や怒りなどの不快な感情と縁を切らない限り、身体の不調とは離れられないのかと誤解されてしまいそうですが、そういうわけではありません。
もしそうならば、人間である限り不快な感情と無縁でいることなど不可能ですから、痛みの完治も不可能という結論にしかならないでしょう。
ですがサーノは、手術、理学療法、カイロプラクティック、整体、鍼灸、マッサージといった物理的なアプローチに一切頼らずに、17年間で数千人以上の慢性痛を完治させ、その後の再発すら防ぐことができました。
彼が実践した治療法とは、数回の講義によって患者にTMS理論を学習させるという、シンプルな脳へのアプローチのみ。
TMS理論によれば慢性痛を引き起こしているのは患者本人の脳なので、主犯格である脳に情報を与えて教育し、痛みを作ろうとする脳の動機そのものを断念させることが根本的な治療に繋がるというのです。
これまで紹介した肩こり・腰痛・関節痛などのTMS以外にも、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、痙攣性大腸炎、便秘、緊張性頭痛、偏頭痛、動悸、湿疹、ニキビ、花粉症を始めとするアレルギー性鼻炎といった症状はすべて、抑圧された無意識下の感情から目を反らすために脳によって作り出された自作自演の苦痛だとサーノは主張しています。
心的な要因から引き起こされる疾患として、この中でも特に有名なのが胃潰瘍と十二指腸潰瘍です。
彼はこうした消化器の潰瘍とTMSとの密接な関係について、その著書『ヒーリングバックペイン』の中で大胆な分析を試みています。
サーノ博士のヒーリング・バックペイン―腰痛・肩こりの原因と治療
- 作者: ジョン・E.サーノ,長谷川淳史,浅田仁子
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アメリカやカナダでは、1950年代から1980年代にかけて胃潰瘍や十二指腸潰瘍の発症件数は激減し、慢性的な肩こりや腰痛の発症件数は激増したと報告されています。
サーノはこれらの事実から、脳は抑圧された感情から目を背けさせるための手段として昔は胃潰瘍や十二指腸潰瘍による痛みを多用していたが、近年は肩こりや腰痛や関節痛などのTMSの方をより頻繁に使うようになったと言います。
そんな手段の乗り換えが起こった原因は、「胃潰瘍や十二指腸潰瘍はストレスが原因で起こる」という理解がアメリカやカナダで既に常識となってしまったこと。
このような社会では、いくら脳が消化器に潰瘍をこしらえたとしても、潰瘍についての常識が「感情の問題から目を反らす」という脳の目的を邪魔してしまいます。
その点、肩こりや腰痛や関節痛については、脊椎や筋肉の構造的な異常、神経の圧迫、姿勢の歪みといった物理的な要因で発生するという理解のされ方が一般的。
患者本人が「物理的な理由で痛みが生じている」と信じ込んでいる限り「感情の問題から目を反らす」という脳の目論みはまんまと成功しているので、脳はこの便利な逃避手段を多用することになりました。
ですから、TMSに対する根本的な治療法とは、感情の問題から目を反らさないこと。
脳が身体にいたずらするTMSの仕組みを患者本人がしっかりと理解し、肩や腰や関節などに激痛が走ったときに「私の脳はどんな不快な感情から気を反らせたくてこの痛みを作っているんだろう」と問い直す習慣を身に付ければ、痛みはじきにおさまります。
いくら痛みを作ったところで「感情の問題から目を反らす」という当初の脳の目的はもう果たせないので、身体に痛みを作ろうとする脳の動機がなくなってしまうのです。
この治療法の難点は、世間の常識が邪魔をして、「脳が痛みを自作自演している」というTMS理論を患者本人がなかなか受け入れられないということ。
痛みを和らげるための対策として、安静にしなさい、姿勢をよくしなさい、筋肉を鍛えなさい、ストレッチをこまめにしなさい、血行をよくしなさい、といった物理的なアドバイスが世間に溢れているために、物理的な要因を真っ先に心配する習性が染み着いてしまっているのです。
ですが、運動の仕方や普段の姿勢など身体のケアにばかり気を取られている姿こそ、脳が作り出したかった「感情の問題に目を向けない」状態です。
脳は「物理的な要因で身体が痛んでいるだけ」だと私たちを騙しておきたいので、私たちが物理的な改善のアプローチを試みれば一時的に痛みを作るのをやめて「物理的アプローチが成功した」と思わせます。
そして、そのトリックが私たちを騙せている間は、性懲りもなく新たな不調を作って私たちの気を反らそうとします。
その最たる例がヘルニアです。
本来ヘルニアは年とともに誰にでもできるもので、ヘルニアになっていても痛みを感じない人はいくらでもいます。
サーノはヘルニアが原因とされている慢性痛の正体も脳が作り出したTMSだと指摘しており、外科的な手術など施さなくても痛みは取り除けることを何度となく実証しています。
もちろんヘルニアを手術することで痛みが改善することもあるのですが、それは脳が私たちに「手術をしたから痛みが改善した」と思わせたくて痛みを手術箇所に作るのをとりあえず止めたというだけのこと。
「悪霊のせいで体が重い」と信じ込んでいる人が、お祓いによって不調を改善させるのと原理は同じで、こうした現象はプラシーボ効果と呼ばれます。
どちらにしろ痛みが改善されているならばお祓いも手術も有効だという見方もありますが、これらのプラシーボに頼れば脳は「身体に不調を作れば不快な感情の問題から目を反らすことができる」と学習しますので、いつまた脳によって別の症状が作成されるか分かりません。
このように、脳の目眩まし戦略を手助けするような常識が世間で幅を利かせているため、いくら患者がTMS理論を頭で理解したとしても、長年培ってきた思考の癖は一朝一夕では抜けきれません。
ですから、サーノはそれまでの刷り込みを書き換えるために、TMS理論の留意点をまとめた以下の「毎日の注意」を毎日復習するよう患者たちに指示します。
◆痛みは(身体の)構造異常ではなくTMSのせいで起こる
◆痛みの直接原因は軽い酸素欠乏である
◆TMSは抑圧された感情が引き起こす無害な状態である
◆主犯たる感情は抑圧された怒りである
◆TMSは感情から注意をそらすためだけに存在する
◆背中(肩)も腰も正常なので何も恐れることはない
◆それゆえ身体を動かすことは危険ではない
◆よって元のように普通に身体を動かさなくてはいけない
◆痛みを気に病んだり怯えたりしない
◆注意を痛みから感情の問題に移す
◆自分を管理するのは潜在意識ではなく自分自身である
◆常に身体ではなく心に注目して考えなければならない
このTMS理論をサーノが提唱し始めてから、もう30年以上が経ちます。
心が身体に影響を及ぼすという心身症についての見識は当時よりかはいくらか一般的になってきましたが、それでも肩こりや腰痛や関節痛に関しては物理的なアプローチによる治療の方がまだまだ主流です。
ですが、上に挙げられた12ヶ条の留意点が「地球が丸いこと」と同じくらい当たり前の常識となる日が来れば、肩こりや腰痛や関節痛に悩まされる人はほとんどいなくなっているのかもしれません。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。