間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

正しい子どもと複雑な大人

 高校一年生の頃、私は筒井康隆の『やつあたり文化論』というエッセイ集と出会いました。
 この本の冒頭に収録されていた「ゴルフ嫌い」というエッセイは、当時の私に強烈なインパクトを与えます。

やつあたり文化論 (新潮文庫 つ 4-9)

やつあたり文化論 (新潮文庫 つ 4-9)

 

  筒井康隆は、ゴルフに興味のない自分に対して己の価値観を押し付けてくる輩を、理詰めで滅多斬りにします。
 この本が刊行された1979年当時の日本はゴルフブームの真っ只中。
 仕事の手段として「ゴルフ接待」が使われ、「ゴルフも仕事のうち」などと持て囃されていたこの時代の風潮に、筒井康隆は以下のような筆誅を下したのでした。

ゴルフを面白がる気持ちだって、わからないではない。
ゴルフのボールというのはたしかによくとぶ。
しかしあれは老人が打ってもある程度とぶようにできているのであって、だからこそ老人たちが面白がってやっているわけだから、ましてあれを若い者が打ったらよくとぶのはあたり前なのである。
よくとんだからといって老人たちに褒められていい気分になるのもいいが、あまり自慢すると馬鹿に見えるから、ひとに喋るのだけはやめた方がよろしい。

「歩くのがいいのだなどというひともいるが、たしかによく歩くことは老人の健康法のひとつである。
しかし老人の健康法を若い者が真似たってしかたがないので、まあ何もやらないよりはましといったところであり、胸を張っていうほどのことではなく、そんならなぜ山へ登らないかといわれたら困るだろう。

「自然の中できれいな空気を吸うのがよろしい」などというやつもいるが、あんなもの何が自然だ。
木を根こそぎ引っこ抜いて地ならしし、芝生を植えただけの人工庭園ではないか。
これもやはり、そんならなぜ山へ登らないかといわれたら困るだろう。
どちらにしろ彼らは老人たちのいったことばをそのまま口うつしにしてゴルフを賛美しているのであり、それがすべて老人の論理であることに、喋っていながら気がついていない。

ゴルフをやる連中がなぜ「歩いたり」「自然の中で空気を吸う」ために山へ登らないかというと、そういうところへは老人が行かないからだ。
自分たちだけで山へ行ったのでは上役と交際できず、商談も成立せず、いい取引先を紹介してもらうこともできず、得意先の接待にもならず、費用を接待費として落とすことができず、これも仕事のうちだと妻にいうわけにいかず、したがって大威張りで日曜日に出かけるわけにもいかず、エリート意識も持てず、高価な会員証を自慢することもできず、何よりもまず第一にふだんの老人たちとの会話に困るからである。

どうもいやしさがついてまわるスポーツである。
いやしさのともなうことをやっている時に人間がまずしようとすることは、まずそれを美化することであり、次に仲間をたくさん作ることであり、仲間に入らない者を疎外することである。
話題があわなかったり座談に入れてもらえなくなったりすると、途端におろおろしはじめる連中の心理をよくつかんだ一種の村八分である。
これにまどわされ、老人たちとあまりつきあいのない連中までが、若い者ばかりでゴルフ場へ出かけたり貧乏ゴルフをやったりしているが、もの欲しげでもあり、愚の骨頂である。

 結論に至るまでに駆使されるこれらの鋭い語り口は、当時の私をしびれさせました。
「理詰めで世の中のことを何でもズバッと斬れるような人物になりたい」
 そんな憧れさえぼんやりと抱くようになりました。

 しかし、そんな大それた野望は19歳になったばかりのころに頓挫します。
 自分の器量ではそんな人になれそうもないと諦めたわけではありません。
 そんなことは原理的にほぼ不可能だろうという結論に至ったのです。

 少年時代の私はとにかく不満だらけでした。
 一般的に言って、不満には二つの根があります。
 ひとつは自分自身の未熟さについての不満、もうひとつは自分を取り巻く環境が望ましいものでないことについての不満です。

 そして自分の未熟さに目を向けられないほどに未熟な人間は、その不満の持って行き所として「世の中は間違っている」とか「どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ」なんていうありきたりな他責に走ることになります。
 私もそんな糞ガキの一人でした。
 「理詰めで世の中のことを何でもズバッと斬れるような人物になりたい」という憧れも、自分が不快だと感じている世の事柄を下等なものとして見下したいという欲求の現われだったのかもしれません。

 ただ、理のない主張をわめき散らすという行為は、当時の私のプライドが許しませんでした。
 決め付けや思い込みで物事を断ずるのは、実際には証明できていないのに証明できたふりをするようなもの。
 数学を得意としていた私にとって、その種の分かったふりは最も恥ずかしい行為でした。

 ですが、大学で数学の基礎論をかじって感じたのは、数学は「すっきりした理路によって物事を語りたい」と望む人にとっての理想郷であるために、「現実世界がどうなっているか」という何とでも言えてしまう問題には一切手を出さないということ。
 逆に言うと、複雑かつ曖昧な現実世界の問題を理詰めですっきりと語り尽くすのは不可能だからこそ、ルールと論理の積み重ねだけで構成された「数学」という温室の世界が重宝されてきたのです。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/04/13/020400

 

 もともと数学と同じくらい厳密な水準でしか断言をしたくないと思っていた私は、そのようにして数学以外の話題では何も断ずることができない人間になります。
 高校時代に生まれた「理詰めで世の中のことを何でもズバッと斬れるような人物になりたい」という朧気な目標は、理路へのこだわりの前に脆くも崩れ去りました。

 自分自身の出した結論によって、ほとんどの話題が「語りえぬもの」となってしまった青年期の私は、それでも何かを語りたいと思い、自分にはどんなことが語りうるのかと考え続けるようになります。
 世の物事についての「~は…だ」という事実確認的な断定を自分自身に禁止した当初の私は、「~は…だろう」といった予想や仮説しか語ることができませんでした。
 その中で私は「この世界を動かしているのは理屈上の正しさではなく都合と力のバランスでしかない」という仮説を立て、その説に則って「複雑な都合と力の荒波」を生き抜いていくことを決意します。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/18/064700


 そのようにして都合と力のバランスと向き合っているうちに、青年期の私が抱いていた「数学と同じくらい厳密な水準でしか断言をしたくない」というこだわりは、「言葉はそもそも世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするためにあるもの」という固定観念が生み出していたのではないかと思い当たります。
 言葉の根本的な存在理由が「人心を説得すること」ならば、「断言」とは人心を説得するための効果的なテクニックの一つに過ぎないわけですから、「正しく記述すべき」という無駄なこだわりで自主規制する必要などなかったのです。


記述信仰からの卒業 - 間違ってもいいから思いっきり


 青年期における私のこうした葛藤とその克服の過程を分かりやすく代弁してくれていたのが、内田樹の『子どもは判ってくれない』です。 

子どもは判ってくれない (文春文庫)

子どもは判ってくれない (文春文庫)

 

  この著書の「たいへんに長いまえがき」にあった以下のエピソードは、そのまま私自身の過去のこだわりにも当てはまるものでした。

例えば、「愛している」という言葉がある。
私たちはこの言葉をずいぶんと濫用する傾向にある。

私は若いころ、恋人に向かって「愛している」という言葉をあまりにみだりに口にしている自分の軽薄さを反省したことがあった。
そして、思いきって自分の「内面」を覗き込んでみた。
いったいどういう心理的根拠があって、私は「愛している」という言葉をこれほど濫発できるのだろうか調査してみたのである。

覗き込んだ私の心の中には、「がらん」とした空洞が広がっていた。
なんと、私が習慣的に口にしていた「愛している」という囁きにはまるで心理的根拠がなかったのである(多少の生理的根拠はあったようだが)。

私は若かったので、もう二度とこういう「いいかげんな言葉」を口にするのはやめるべきだと考えた。
そこで私は彼女にこう告げた。
「君を愛しているのかどうか、ぼくにはよく分からないんだ。でもね、『君を愛しているかどうかよく分からない』と君に告白するぼくの誠実さだけは信じてほしい。」
もちろん彼女は憤然と去ってしまった。

私はここで再び反省の人となった(若いころはよく反省する人間だったらしい)。
そして気づいたのである。

私は「愛している」という気持ちを実定的に所有していたがゆえに「愛している」という言葉を口にしたのではない。
そうではなくて、「愛している」という言葉を口にすると、私の身体はそれに呼応するように熱くなり、声が優しくなり、気持ちがなごんでくる。
それと同時に、彼女の声も優しくなり、目がきらきら輝き始め、肌がなめらかになる。
私は「愛している」という言葉のもたらすその効果を「愛していた」のである。

「愛している」は私の中にすでに存在するある種の感情を形容する言葉ではなく、その言葉を口にするまではそこになかったものを創造する言葉だったのである。
ことの順番が違うようだが、実はこれでよいのである。
世の中というのは存外そういうものである。
だから恋人たちが飽かず「愛している」「愛している」「愛している」と囁き続けるのは理にかなったふるまいなのである。
「もう君がぼくを愛しているのは分かったから、別の話をしない?」というわけにはゆかないのである。

大切なのは、「言葉そのものが、発話者において首尾一貫しており、論理的に厳正である」ことよりも、「その言葉が聞き手に届いて、そこから何かが始まる」ことである。

 内田樹のこうした複雑な物言いを、未熟な子どもは「妥協した大人の卑怯な詭弁」として受け止めるのかも知れません。
 そのような「正しい子ども」の誤解を緩和するために書かれたのがこの『子どもは判ってくれない』です。
 正しいことを言うことだけに執着しない「大人の合理性」を説いたこの本のあとがきには、私が長年言いたかったメッセージが凝縮されていましたので、最後にその引用をご覧ください。

この本からのメッセージは要言すれば次の二つの命題に帰しうるであろう。
一つは、「話を複雑なままにしておく方が、話を簡単にするより『話が早い』(ことがある)」。
いま一つは、「何かが『分かった』と誤認することによってもたらされる災禍は、何かが『分からない』と正直に申告することによってもたらされる災禍より有害である(ことが多い)」。
これである。

命題に要約してもなお「ことがある」などという限定符を付してはなはだ歯切れがよろしくないが、そもそも「歯切れがよろしくないことは、歯切れがよいことに比べて『よくない』ことであると歯切れよく断言されるのはいかがなものか」ということを延々と申し上げている書物なのであるから、歯切れが悪いのは「当たり前田のクラッカー」なのである(お、ここだけ妙に歯切れがいいな)。

というわけであるから、本書を最初から最後まで読み通されたあとに「要するに何が言いたいわけ?」という問いが発せられることは避けがたいのであるが、もちろんそのような問いかけに対して著者には、「だからですね。何につけても『要するに』というような単純なもの言いはもうやめませんか、と申し上げているわけですよ。要するに」とお答えする心の準備ができているのである。



※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300