間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

作り話の効用と賞味期限

 当ブログの目的は、気付かないうちに私たちを洗脳していく言葉の影響力について、様々な角度から見つめ直していくこと。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/06/29/053200
 中でも特に力を注いでいるのが、「言葉はそもそも何のためにあるのか」という存在意義について、大学時代から温め続けてきた持論を発信することです。


記述信仰からの卒業 - 間違ってもいいから思いっきり

 そしてその次に力を注いでいる当ブログの裏テーマは、私が勝手に心の師と仰いでいる内田樹の言説を紹介すること。
 人に伝えるのが難しくて長い間一人だけで抱えてきた自説を、私がこうして曲がりなりにも発信できるようになったのは、「その問題の難しさ」について分かりやすく説いていた内田樹という先達がいてくれたから。
 そんなわけで、これまでもたくさんの内田樹の文章や語り方を紹介してきています。

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 そんな彼が書いてきた本の中で、私の最高のお気に入りは前にも紹介した『子どもは判ってくれない』です。
 この本には「子どもじみた正論」だけで世の中を語り付くそうとしない「知恵ある大人の語り方」の具体例とその合理的根拠とが列挙されていますので、今回はそういった内田樹のエッセンスを紹介したいと思います。

子どもは判ってくれない

子どもは判ってくれない

 

 
 例えば彼は、日本の歴史認識問題について、いわゆる皇国史観自虐史観も作為的に練り上げられた作り話に過ぎないという正論をまず述べます。
 ですが彼は、作り話に対して「それは作り話だから意味がない」などと短絡的に却下することはありません。

 子どもじみた正論ユーザーと内田樹との違いは、「同じ作り話ならどの作り話が使い勝手が良いかを時と場合に応じて選べば良い」とクールに算盤を弾いているところ。
 そんな大人の計算が伺える部分を抜粋してみましょう。

私が大学受験のときに愛読したのは山川出版社の『資料世界史』である。
これはマルクス主義的な歴史観に基づいて編まれた参考書であるので、ただ一つの「歴史を貫く鉄の法則性」によって、世界史上のすべての出来事が「なんでそうなるのか」きちんと説明されている。

私はこの教科書を一読したときの「心からの感動」を今でも覚えている。
ただし、その感動は「今まで『なんでそうなるのか』判らなかった」ことが「分かった」がゆえの感動ではない。

私は一読して「これはつくり話だ」ということが分かった。
しかし、「つくり話」であれ、因果の糸にきちんと貫かれている歴史書は、物語的関連なしに事実だけが羅列してある歴史書よりもはるかに暗記しやすい。
受験生である私にとって喫緊の課題は何よりも世界史の「まる暗記」であった。

だから、単純な「お話」でありさえすれば、世界史は「神の見えざる手」が導いていようが、「階級闘争の歴史」であろうが、「絶対精神の顕現の審級」であろうが、「ウェストファリア・システム内部でのゼロサムゲーム」であろうが、受験生にとってはどうだっていいのである。
どんなに「ばかばかしい内容」であれ、「説得しようとする熱気」さえあれば、それは受験生にとっては「よい教科書」であると私は思う。

 つまり内田樹は、「歪められた情報を歴史教科書に載せるべきではない」とする幼稚な正論に対し、「歪みを含まない情報など存在しないのだから歪みは歪みとして活かせば良い」との達観を示しているのです。
 その上で彼は、見解の異なる様々な歴史教科書が存在することの教育的な意義について、日教組や「新しい歴史教科書を作る会」などとは全く違う、以下のような見解を述べています。

高校生たちのうちに、どんな「お話」も簡単には信用しない懐疑精神が育ってくれるのであれば、歴史の教育効果としてこれにすぐるものはないと私は思う。

 「お話」はあくまでも「お話」として受け止め、その「お話」が通用している世界では「お話」として便利に活用していく。
 これこそが、内田樹が日頃から説いている、「作り話だらけのこの世の中」を生きていくための大人の叡智です。

 神話、宗教、科学など、私たちがこの世界を生きていくためには何らかの作り話が必要です。
 誰かが主張する「真実」も所詮はその人の脳内における作り話に過ぎませんから、「作り話だから」と言ってすべての作り話を却下していたのでは、私たちに使える物語はなくなってしまいます。

 「お医者さんに任せておけば安心」という作り話を信じていられる人は、医者の能力を常に疑ってかかる人よりも、同じ治療を受けていても回復が早い場合があります。
 「とにかく先生はえらいものだ」という作り話を信じていられる人は、教師の能力を常に疑ってかかる人よりも、同じ講義を受けていても多くの学びを得る場合があります。
 「誰の仕事でもない仕事は自分の仕事だ」という作り話を信じていられる人が一定数存在する社会は、皆が「自分の仕事以外はする必要がない」と信じている社会よりも住み心地が良くなる場合があります。

 このように、作り話の中にも「有用な幻想」があると、内田樹は言います。
 そしてその上で、大人同士の有意義な議論とは、「あなたは幻を見ている。私も幻を見ている。だが、私の見ている幻の方が快適であるので、こちらを採択されてはいかがか(もっと快適な幻が出てきたら、いっしょにそちらに乗り換えましょうね)」という形で繰り広げられるべきものだろうと述べています。
 「あなたは幻を見ている。私は真実を見ている。だからあなたも私が説明する真実を理解しなさい」という一方的な宣言は、どんな年長者が主張したところで子どもの言い分なのです。

 その意味で、内田樹が「子どもじみた正論ユーザー」として批判し続けているのが、上野千鶴子を始めとするフェミニストたちです。
 彼は、「母性愛というのは近代の父権性の下で、女性を家庭に繋縛するために発明された幻想である」と断じて「母性愛幻想」を粉々に打ち砕こうとするフェミニストたちに対して、以下のような反論を加えています。

「母親になったからといって自然に子どもに対する汲み尽くせぬほどの愛情が湧き上がるはずではない」というのは事実である。
しかし、そのような「事実」の背景には、その女性が育児の代償に、「自由気ままな生活」や「ビジネスでのサクセス」や「スレンダーなボディ」を享受するチャンスを逸したという「怨み」がしばしば潜在している。

だが、「自由気まま」や「サクセス」や「美貌」を「素晴らしいもの」と思いなす幻想のあり方は、「母性愛」神話に繋縛された母親が「母であることの幸福はすべてを圧する」と信じ込んでいるときの幻想のあり方と本質的にはどこも違わない。
どちらも、その社会の「システム内的」な幻想であることに変わりはない。

「母性愛は幻想だ」と言うのは正しい。
私たちの社会には幻想性を免れているような制度は一つも存在しないからだ。
しかし、その言明が「幻想を棄却すれば、あなたは真実に出会える」と言外に言おうとしているなら、それは問題の多い言説であると言わねばならない。

母性愛をかなぐり棄てて、ビジネスに没頭する女性は、「母性愛幻想」と「サクセス幻想」を交換しているにすぎない。
子どもを棄てて、めくるめく恋愛に没頭する女性は「母性愛幻想」と「恋愛幻想」を交換しているにすぎない。
家を棄てて、自己表現にすべてを賭ける女性は「母性愛幻想」と「承認幻想」を交換しているにすぎない。

どの幻想に支援されて生きるかは、その人の自由である。
しかし、それは「幻想を脱して、真実に触れた」のではなく、幻想Aを幻想Bと置換しているにすぎないという不愉快な事実はアナウンスしておく必要があるだろう。

 内田樹は「母性愛幻想」を必要としていない人が「母性愛なんて無意味だ」と断言することについては全く反対をしていません。
 ですが、世の中には「母であることの幸せさえあればどんな苦労も苦痛ではない」と信じ込んでいられるおかげで、仕事や家事や育児などを何とかこなせているという人もいます。
 そんな人たちに向けてまで「母性愛なんて無意味だ」などと言って幻想を砕いてまわろうとするフェミニストたちの原理主義的な行為に、常識ある大人の一人として彼は反対しているのです。

 といっても彼は、フェミニズムに対して全面的に異議を唱えているわけではありません。
 戦前から続いていた「女性たちの生きづらさ」を改善させてきたウーマンリブ運動の成果については、彼もその意義をある程度までは評価しています。

 内田樹が述べているのは、その運動の原理をどこまで言い張っていくかという思想の「賞味期限」の問題。
 父権制が築いてきた幻想を打ち砕くことに熱心なあまり「まだニーズのある幻想」までも打ち砕こうとするフェミニストたちの姿勢に、彼は「そのクレームの付け方はもはや賞味期限切れではないか」と投げかけていたわけです。

 こうした「思想や制度や常識には賞味期限がある」という考え方も、内田樹が常々発信している提案の一つ。
 『子どもは判ってくれない』の中で彼は、人種という物語の賞味期限について語っています。

 内田樹が目をつけたのは、2002年に日本で公開された『チョコレート』という映画の紹介文。
 その映画評には「今年のアカデミー賞で、黒人の父、白人の母を両親に持つハル・ベリーが黒人女性として初めて主演女優賞を受けて話題になった作品」と書いてあったそうです。

 彼が引っ掛かったのは、「黒人と白人の子は黒人である」と分類するその偏見のあり方。
 まず彼は、そうした物言いに潜んでいる差別的な見方について、以下のような歯切れの良い正論を述べます。

アメリカでは「黒人の父と白人の母を両親に持つ子ども」は「黒人」にカテゴライズされるのが「ふつう」である、だから別にこれはイデオロギッシュな言明ではなく、たんに客観的事実を記述しているにすぎない、というふうに言えるかもしれない。

なるほど。だとすると、ハル・ベリーはたしかに「黒人」だ。
彼女が白人男性と結婚しても、その子どもたちは「黒人」だ。
その子どもたちが非黒人と結婚しても、孫たちは「黒人」だ。以下無限に続く……。
と、いうことでよろしいのかな。

透明な水に一滴の墨汁が垂れたのと同じで、いくら「希釈」しても、「原初の透明」には決して帰ることができない。
と、そういうことでよろしいのかな。

しかし、それなら、逆に、「白い絵の具」を水に垂らすと、透明な水が「白濁」して、いくら「希釈」しても、「原初の透明」には帰ることができない、という「白人汚染論」があってもよいはずである。
でも、「黒人の父と白人の母を両親に持つ、白人女性」ということは誰も言わない。
なぜ、言わないのか。

 ここまでの歯切れの良い正論を盾に「こんな人種差別はおかしいじゃないか」とクレームをつけるだけならば、内田樹自身が批判しているヒステリックなフェミニストたちと同じ。
 ですが彼は、黒人を差別するレイシストたちの物言いだけでなく、「黒人への差別を解消せよ」「差別の現実を覆して黒人がアカデミー主演女優賞をとれた」と声高にアピールする運動家の物言いまでも、「その言葉づかいこそが差別の構造を固定化している」と指摘します。
 そして、「いつまでも白人だ黒人だとわめくよりも、人種という前時代的な幻想にこだわり続けるのを徐々にやめていかないか」という大人の折衷案を以下のように提出します。

「黒人」「白人」問題というのは、要するに「どちらを有徴項(汚れ)として見るか」という純粋に「見る側」の決断の問題である。
「黒人の父と白人の母を両親に持つ」者は「黒人」であるとする「一般的見解」を「客観的事実」として受け入れるというのは、その人に自覚があろうとなかろうと、その人が白人であろうと黒人であろうと、KKKであろうと公民権運動の活動家であろうと、本質的に「レイシストの視線」で世界を眺めている。

「披差別者の解放」という事業が、ある段階まで「披差別者の有徴化」を戦略としてとらざるをえない、ということを私は理解できる。
「黒人」であれ「ユダヤ人」であれ「在日コリアン」であれ「部落民」であれ、その人が現に受けている差別をはね返すために、「披差別有徴者」としてのポジションをはっきりと示すということは必要なプロセスだろう。

しかし、差別の解消ということが、「有徴化するまなざし」そのものの廃絶をめざすものであろうとするなら、「有徴化」の戦略は「どこか」で廃棄されなければならない。 
私は「今すぐ」廃棄しろと申し上げているのではない。
それが無理であることくらいは承知している。
ただ、「いつか、どこかで」廃棄されなければならない戦略である、ということは頭の隅に置いておきましょう、と申し上げているのである。

「黒人の父と白人の母の子どもは黒人である」というような有徴化の言説は、現在は「常識」として通用している。
しかし、これは「とりあえずは通用しているが、いずれ廃棄されるべき常識」であると私は考えている。

私は「常識」にも「賞味期限」を刻印することが必要ではないかと申し上げているのである。
「これは今は『常識』で通用していますけど、賞味期限がそのうち切れますから、切れたら棄ててくださいね」と誰かが言い続けることが必要だと私は思う。

でも、こういう地味な仕事の意義を理解してくれる人はなかなかいない。
「常識は永遠に常識である」とするか、「棄てるべきものは、今すぐ棄てろ」とするか、どちらかに決めてスッキリしたいという方々ばかりである。

常識の多くは、賞味期限が来たら「腐る」。
しかし、賞味期限が来るまでは「食べられる」。
そういうものである。

「いずれ腐るものなら棄ててしまえ」ということを言う人もいるが、それを棄てると、とりあえずほかに食べるものがない、という場合もある(民主主義とか国民国家とか一夫一婦制というのは、そういう「もの」だ)。

あらゆる社会制度には「前史」があり「後史」(という言葉は存在しないけど)がある。
それが生まれるには生まれるだけの歴史的条件というものがあり、それが消滅し、別の何かによってその社会的機能が代替されるためには、それなりの歴史的条件の熟成というものが必要なのである。

私たちの世界に「未来永劫に正しい制度」などというものは存在しないし、同じように「存在すること自体が人間性にもとるような、本質的に邪悪な制度」というものも存在しない。
それぞれの制度やイデオロギーや慣習は、果たすべき歴史的使命があって登場し、その使命を終えたら退場する。
ただ、それだけのことである。

だから、「制度の賞味期限」をチェックして、「腐ったものを食べない」、「まだ食べられるものを棄てない」という作業はけっこう大切だと私は思っている。
そのうえで、ハル・ベリーを「黒人女優」と呼ぶ習慣をそろそろやめませんかとご提案させていただいているのである。
この「そろそろ」という副詞の使い方に私の万感はこもっているのであるが、残念ながらそれを理解してくださる方はあまり多くはおられないのである。

 制度、イデオロギー、慣習、常識などは、人が生きていくために必要な物語なので、「正しくないから今すぐなくせ」と訴えるだけでなくせるものではない。
 こうした歯切れの悪い複雑な大人の物言いに、独自の説得力を持たせられるのが内田樹の真骨頂です。
 当ブログではこれからも彼の紡いだ叡知を紹介していきますので、良かったら一度だけでも目を通してみてください。

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※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300