間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

数学が得意になったわけ

 私は小さなころから世間を狭くして生きてきました。
 小学校が終わってから遊ぶ友達などもほとんどいないし、家は母子家庭で親は21時頃まで家に帰ってこないので、弟と家で遊ぶかテレビを見てボーっとするくらいしかやることがありません。

 厳密に言うと、放課後は近くの児童館で開かれている学童保育に通っていて17時まではそこで過ごしていたのですが、学校にしても学童保育にしても、帰宅した後に遊ぶプライベートな友達というのはなかなか作れません。
 習い事も小学2年生のころに週1回スイミングに通っていたくらいで、それも1年ほどで辞めてしまいました。

 小学校低学年のときは下校時間が早いので、学童に行っても人がそれほど集まっていません。
 みんなが来るまでの間は一人でもできることで時間をつぶすことになります。

 児童館の図書室においてある本を読んだり、置いてあったドラえもんのコミックを見ながらイラストを描いたり、学童の指導員から教わった計算を延々と繰り返したり。
 そう、小学校に入ったときから計算が得意だった私を見た学童の指導員が、まだ学校では習わない掛け算と割り算の筆算を教えてくれたので、私は得意になってそればかりしていたのです。

 小学校に入ったとき、既に計算が得意だったのは母のおかげでした。
 足し算・引き算を最初に覚えたのはたぶん5~6歳のころだと思いますが、たまのお出かけのときの会話で、母がクイズの一つとして出題してみたのがきっかけだったと思います。
 そのゲームのコツを覚えた私は面白くなって、お出かけや送り迎えのたびに出題をせがんでいました。
 特撮やアニメくらいしか娯楽のなかった当時の私にとって、計算というゲームは数少ない貴重な刺激だったのです。

 そのように低学年のころは暇があれば筆算ばかりしていました。
 はじめのうちは学童の先生が問題を出していたと思いますが、そのうち自分で勝手に数字を設定して解くようになりました。
 4桁~7桁くらいの桁の大きな掛け算・割り算も勝手に作ってやっていました。 割り算の場合、数字をテキトーに設定するとほとんどが割り切れない問題になりますが、小数点第10位くらいまでは平気で計算を続けていたと思います。

 外でボーっと突っ立って考え事をすることもありました。
 そんなときは「2、4、8、16、32、64、128、256…」と2の乗数を暗算しています。
 たしか「…8192、16384、32768」くらいで、数を覚えておくのが面倒になってやめていました。

 そんな当時の私のお気に入りだった数は4と16と256です。
 今改めて考えてみると馬鹿みたいな理由ですが、「2×2=4」だから4が好きで、「4×4=16」だから16がさらにお気に入りで、16×16の結果である256なんかはもうスーパースターでした。

 そして2つ下の弟の、保育園の運動会を観に行ったときのことです。
 園児たちが竹馬に乗って競争をしたり玉を転がしたりしていましたが、園児のはしゃいでいる様子を見ても小学2年生の私には特に楽しいと思えません。
 私は退屈しのぎにこんなことを考えてみました。

 「10、100、1000みたいな切りの良い数の中で、一番最初に16で割り切れるのはどんな数だろう? 」
 当時は「10や100が16で割り切れないこと」くらいはすでに分かっていましたから、そのときは1000以上の数から検討を始めました。

 まず最初に、「16×5=80」となるので、80も800も8000もすべて16で割り切れます。
 1000から800を取り出すと残りが200になり、残った200からは80が2つ取り出せて残りは40になります。
 残りの40は明らかに16では割れないので、この時点で1000は16で割り切れないことが判明します。

 じゃあ次は10000です。
 10000からは8000が取り出せるし、残りの2000からは1600が取り出せます。
 すると残りは400ですが、400には80がちょうど5つ入ります。
というわけで、10000は16で割り切れました。

 ちなみに10000を割り切るまでに取り出してきた数字を思い出すと、8000には16が500個入っていて、1600には16が100個入っていました。
 さらに400には80が5個入っていて、その80には16が5個入っているので、400には16が「5×5=25」で計25個入ってるということになります。
 それらを全部足し合わせると「500+100+25=625」となり、10000には16が625個入っているということが分かりました。

 「10、100、1000みたいな切りの良い数の中で一番最初に16で割り切れるのは10000で、割ったら商は625になる」という結論が、保育園の運動会の客席で出ました。
 自分が何かすごいことを発見したような気になってうれしくなりました。

 運動会のことは上の空で、何度も頭の中で計算を繰り返してこの結論が間違いでないかどうかを確かめていました。
 この個人的な発見は計算が趣味になっていた当時の私にとって強烈なインパクトを持っており、その後は「10は2で割り切れて5になる」「100は4で割り切れて25になる」「1000は8で割り切れて125になる」「10000は16で割り切れて625になる」「100000は32で割り切れて3125になる」という事実から類推して「64以降の2の乗数でも、0が1個増えるごとに割り切れていく」という法則性に何となく気付いていきました。

 この法則性は、中学で教わる素因数分解の考え方を使うと「10のn乗は2のn乗で割り切れて5のn乗になる」と簡単に説明できます。
 私は小学生のころからこのような問題に慣れ親しんでいましたから、中学で素因数分解を習ったときも「何でこんな無意味なことを覚えなきゃいけないのか」などとありがちな疑問は抱かず、「たったこれだけの書き方の工夫でこんなにも分かりやすくなるのか」と感心していました。

 このように、私は小さなころから数字の絡む事柄に関心を抱いていており、その関心を表現するための言語を仕入れる場所が学校の数学の授業でした。
 私が数学を得意になったのは、他に魅力的な刺激がないという生活環境が関係していたと思います。
 自虐的な言い方をするならば、他にやることがなかったから数学なんてものに興味を持って打ち込めたのかもしれません。

 私にとって運が良かったことがあるとすれば、勉強に関して私に「あれをしろこれをしろ」といった指図をする人間が誰もいなかったということでしょう。
 本を読む、絵を描く、計算する、妄想するなど、私には興味が向くままにやりたいことをやる自由な時間が大量にあったのです。

 ですから、過干渉な親に「あれをしろこれをしろ」と指図され続ける子どもたちを見るたびに、「何に興味を持つべきか」といった個人的な趣向の問題に口を挟まれずに育ってこれた私は本当に幸運だったのだなあと思います。
 私に向かって「そんな風に数学が得意になるにはどう育てたら良いか」と聞いてくる親もいますが、正直に「私には自分の興味関心を口うるさくコントロールしたがる親がいなかったから」と答えてしまうかどうかはいつも悩みどころですね。



※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300