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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

過干渉を戒める劇薬

学習は本能です。
どんな子でも伸びます。
親が余計なことをしない限り。

強育論-The art of teaching  without  teaching-

強育論-The art of teaching without teaching-

 

  これは、中学受験のための算数教室を主宰する宮本哲也の言葉です。
 彼の著書『強育論』には、「指導なき指導」という独自のスキルと、そのバックボーンとなる信念とが紹介されています。
 まずは「学習は本能」だという冒頭の言葉について、詳しく解説してある文章を引用してみましょう。

すべての生き物には学習するという本能があります。
人間の赤ちゃんもお母さんのお腹にいる間から学習を始め、生まれた瞬間からはさらに猛烈な勢いで学習をします。
寝たままの状態から起き上がり、つかまり立ちをし、やがては立って歩くようになる。
その瞬間を目の当たりにしたお父さん、お母さんの感激はさぞかし大きいことでしょう。

もちろん、赤ちゃんは親を喜ばせるために立ち上がるわけではなく、本能に突き動かされ、精いっぱいの力を振り絞って立ち上がるのです。
そこには何の打算も計算も働いてはいません。
この本能の部分をそのまま潰さなければ優秀児が壊れることはありません。

ところが、ある時期から彼らは親の顔色に反応するようになります。
もちろん、そういうことが必要な場合もあります。
赤ちゃんが危険なものに近づこうとしたら、親は怖い顔をして声を荒げて叱らなければなりません。
言葉を理解できない赤ちゃんには叱られている内容はわからなくても、自分が何かいけないことをしたことに気づき、その情報は確実に脳に刻まれます。
これは必要な躾です。

しかし、生活全般、学習全般にわたってこれをやってしまうと、本能の部分がどんどんすり減ってしまい、自分の興味の赴くままに何かに取り組むことがなくなっていきます。
自分の興味や好奇心を満たして叱られるより、親の顔色をうかがって相手の喜ぶ行動をとったほうが彼らにとっては楽だからです。
これでは動物に芸を仕込むのと同じです。

世間一般では、我を通して叱られる子どもより、大人の顔色をうかがい、相手が喜びそうな答えを素早く用意できる子どものほうを優秀と判断する場合が多いようです。
でも、この場合の「優秀児」というのは、「お利口なワンちゃん」と同程度の意味合いしかありません。

飼い犬はご主人にほめられ、頭をなでてもらったり餌をもらったりするのが大好きなので問題ありませんが、人間の子どもに同じことをやらせてはいけません。
私の観察する限りでは、従順さと優秀さは両立しません。
自分なりの判断を放棄し、他人の言うことを鵜呑みにする子が優秀なわけがありません。

実は「優秀」というレッテルを貼られた時点で、その子は壊れているのです。
この場合の「優秀」とは、大人の顔色をうかがうのがうまいということで、壊れているのは学習するという本能です。
言い換えると、「大人の顔色をうかがうのがうまい子は学習するという本能が壊れている」というのが私の結論です。

 ここで彼が警告しているのは、子どもに「人の顔色をうかがって勉強する」という悪癖を刷り込んでしまう、周囲の人間たちの関わり方。
 それは、塾講師としての彼自身の経験から来る反省でもあります。

 塾講師になりたての頃は超のつくスパルタ特訓塾である程度の実績を上げていた彼でしたが、体罰で生徒をコントロールするというその塾の指導方法に限界を感じて一年半で辞めたそうです。
 次に勤めた体罰厳禁の大手塾では、授業延長、補講、個別指導など熱心に行って実績を上げていたそうですが、生徒が教師に依存してしまうこのやり方にも疑問を持ったということです。
 そうして彼は、宿題も出さず、質問も受け付けず、ただ自分の頭でとことんまで考えさせる「指導なき指導」の手法を確立させ、無試験先着順の入塾で首都圏トップ校に驚異の進学率を上げ続けたのです。

 これまで様々な受験生の親子を見てきた彼は、中学受験で失敗する原因のほとんどが「やらせ過ぎ」にあると指摘します。
 子どもたちが本来持っているはずの学ぶ本能が壊れていくプロセスを、彼はこのように描写しています。

私の授業の目的は子どもに頭を使わせることにあります。
問題が解けるかどうかはどうでもいいのです。
頭を使い続ければ必ず頭がよくなります。
元のレベルがどれだけ低くても関係ありません。

本来、算数という科目は、知的欲求を刺激してやまない子どもとは、非常に相性のいい科目なのです。
だから、放っておきさえすれば算数嫌いの子なんて世の中に存在するはずがありません。
でも、現実には多数存在します。
何がいけないのでしょう。
親の関わり方がいけないのです。

親が子どもに対して学習を無理強いするのは子どものためではなく、自分の不安を解消するためであり、欲求を満たすためなのです。
だから、子どもが拒絶するのです。

学習は本能ですが、「他人に支配されたくない!」というのも自己保存の本能です。
どちらが優先されるかというと、当然、自己保存の本能のほうなのです。
結果を求めることをあせるとすべてが壊れます。

「子どものために」と言いながら、実際には自分の不安と欲望に流され、わが子に対して虐待としか思えない仕打ちを平然と日常的にやってのけるのがバカ親です。
もちろん、子どもを虐待している自覚はまったくありません。
子どもの痛みや苦しみに極めて鈍感で、中学入試もペットの品評会くらいにしか思っていません。
こういうバカ親に冷水をぶっかけて目を覚まさせることは、私の重要な仕事のひとつです。
手加減はしません。

 そんなわけでこの『強育論』も、過干渉な親たちを手加減なしのめった斬りにしています。
 2004年に刊行されたこの著作が支持され続けてきたわけは、その中身が単なる学習法の紹介にとどまらず、子育てや教育や人生についての鋭い考察に満ち溢れているから。
 その中でも、過干渉な親の弊害をもっとも鋭くえぐったテーマが、以下に抜粋する「最悪の子育ての結末とは?」です。
  
最悪の子育ての結末とはどのようなものだと思いますか?
結論から先に申し上げると、最悪の子育ての結末とは、「親が子を殺す」または「子が親を殺す」です。
これ以上不幸な結末はありません。

現在、小学生以下のお子さんをお持ちの方は、将来自分が子どもを殺す場面、または自分が子どもに殺される場面なんて絶対に想像できないでしょうが、ほんの数年後にそういう現実と向かい合うことになるかもしれません。
そういう不幸を未然に防ぐにはどうすればいいのでしょうか?

簡単なことです。
さっさと家から出してしまえばいいのです。
タイミングとしては高校を卒業するあたりがよいでしょう。
親子の関係というのはあまりにも近過ぎるので、あるいは濃過ぎるので、いったん距離を置いたほうがお互いをよりよく理解することができるのです。

【親子が殺し合うもっともありふれたケース】
二十歳を過ぎても三十を過ぎても四十を過ぎても働きもせずにぶらぶらしている子ども(もはや子どもと呼べる年代ではありませんが、精神年齢は中学一年生あたりで止まっています)に、親が意見をする。
意見をして直るくらいなら、二十歳をとうに過ぎてもぶらぶらしているような状況に陥るはずがありません。
自分を生かす場がなくてぶらぶらしているわけですから、自己主張できる場所は家庭しかありません。
それでも、働いていないことに対する引け目は感じているはずなので、ふだんは親に対してもあまり強くは出られません。

そこへ意見されると「待ってました!」とばかりに反発する。
自分に正当性がまったくなくても反発します。
親以外に自分の言うことを真剣に受け止めてくれる人なんていないのですから。
ふつうは年老いた親が負けます。
ときには殺されるときもあります。

親が勝つためには相手が油断している隙を狙う、つまり寝込みを襲うしかありません。
失敗すると自分が殺されるので一撃必殺。
両親で力を合わせて絞め殺したという事例もありました。

【反抗期は自立期】
三十路を過ぎてもひきこもりという人にも、自立の芽生えはあったはずです。
それまで全面的に受け入れてきた親に対してあるとき、うとましさを感じるようになる。
親はそういう兆候を感じたら一歩引かなければなりません。
これを力で押さえ込もうとすると自立の芽が潰れてしまいます。

この場合、押さえ込むという行為は親の側の甘えです。
「あなたにはまだお母さんが必要なのよ!」
子どもにもっと甘えていてほしい。
もっと頼っていてほしい。
子どもの成長(=子どもの幸福)よりも自分の母性を満たすことを優先しているのです(母親失格!)。

そういう甘ったれた母親に対する私のとっておきのアドバイスは——。
「子どもをペット化してはいけません。猫っ可愛がりしたいのなら、猫を飼いなさい。今すぐペットショップに行っていちばん弱々しい死にかけた子猫を買ってきなさい。そして必死に看病し、育てなさい。ベタベタに甘やかしてかまいません。自立させる必要はありませんから」

いったん親が自立の芽を潰してしまうと、次にいつ芽が出てくるかわかりません。
もう出てこないかもしれません。
そして、子どもが二十歳を過ぎ、親が子どもを持て余し、「あなたもそろそろ独り立ちしないと……」なんて言ってももう手遅れです。

だいたい自分が子どもの自立の芽を潰しておいて勝手なことを言ってはいけません。
一生、子どもの面倒をみなさい。
決して子どもより先に死んではいけません。
自活能力のない子どもを社会に押しつけて自分だけ先に死んではいけません。
子どもが一生困らないだけの蓄えを残すか、自分が死ぬときに道連れにするか、どっちかにしてください。

子どもは天からの授かりものと言われていますが、授かりものであると同時に預かりものでもあります。
決して所有物ではありません。
いつかは社会に返さねばならないのです。
そういうつもりで子どもを育ててください。
見返りは何もありません。
親とはそういう報われない役割なのです。
子どもだけが生き甲斐という方は、子どもが巣立ったあとのご自身の人生設計をしておいたほうがよいでしょう。

 などなど、過激すぎて私の口からはとても言い放つことができない言葉ばかりですが、あまりにも過干渉な親と接しているとこのように言いたくなってしまう気持ちが痛いほどわかります。
 ですから、どんな忠告も耳に入らなくなっている教育ママには、「中学受験のエキスパートが書いた凄い本がありますよ」と言って『強育論』を紹介することにしています。
 あなたの周りの手強い教育ママたちにも、劇薬として処方してみてはいかがでしょうか。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300