勝てば官軍、負ければ賊軍。
このことわざは、たとえ道理にそむいても戦いに勝った者が正義となり負けた者は不正となるという意味であり、戦いの勝敗によって物事の正邪善悪が決まってしまうことを表しています。
今日私たち日本人は、近現代史の官軍であるキリスト教勢力が築き上げてきた世界秩序に従って生きています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2015/02/01/080937
そのため、そうした官軍側の価値観と合わない考え方を無意識のうちに「正しくないもの」として捉える癖がついています。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
その一つに、官軍側に属さないイスラム世界への偏見が挙げられます。
2015年2月5日現在、インターネット検索サイトGoogleで「イスラム」という言葉を検索してみると、関連キーワードとして以下のような語群が表示されます。
イスラム原理主義 イスラム革命
イスラム金融 イスラム 食事
イスラム暦 イスラム 女性差別
イスラム帝国 イスラム語 翻訳
イスラム過激派 イスラム国
ここからは「厳しい戒律がある」「一夫多妻など女性差別が根強い」「テロの温床となっている」といったイスラム世界へのステレオタイプな先入観が読み取れます。
このような硬直した偏見を再検討するための参考文献として、今回は思想家内田樹とイスラーム学者中田孝による対談を元にした共著『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』を紹介したいと思います。
一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教 (集英社新書)
- 作者: 内田樹,中田考
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2014/02/14
- メディア: 新書
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ですが、三年生の頃に入ったイスラム学科でイスラムの文明や歴史や思想を学んだことで、クリスチャンになろうかムスリムになろうか迷った末に、キリスト教の方が厳しそうだと判断してイスラム教への入信を選んだと言います。
一般的に「戒律が厳しい」と思われがちなイスラム教ですが、彼自身は「ぜんぜん厳しくない」「あくまでも慣れの問題」と言い、日本社会の暗黙のルールの方がはるかに厳しいと指摘します。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/09/21/211415
彼はイスラム世界でのごくごく平凡なムスリムの感覚を以下のように描写しています。
はた目には戒律を守っているように見えるかも知れませんが、必ずしも宗教意識ではないです。
別に窮屈だとは当人たちは感じていません。
イスラームの世界にいれば当たり前のことなので。
そんなことより、決まりを守るという点では日本の方がずっと厳しいです。
服装はみんなキチンとしているし、電車は時間通りに来るし。
実は今日も私、この(対談の)約束に二分ほど遅れかけてあせったのですが、それって外国人から見たら「なぜ!」ですよ。
たった二分をなぜそんなに守るのかと。
日本社会の儀礼の方がはるかに煩些です。
マナーに外れた者へのまなざしも厳しいですね。
他国の人が見たら日本人ほど戒律をよく守る民族はいない。
食べ物にしても、イスラームでは当たり前の習慣になってますので、中にいればまったく不自由は感じません。
豚肉だってイスラーム圏ではそもそも存在しませんもの。
なければ食べたいとは思わない。
食べないものを売ってないのは当たり前ですね。
一日五回の礼拝もそうですよ。
どこにでもモスクや礼拝の場所があり、周りの人も礼拝しているわけですから、当たり前だと思えばどうってことない。
その間休めますし、仕事するより礼拝してる方が楽です。
礼拝に行くと言うと、絶対に止められない。
どんな労働をしていても中断してよい。
礼拝の権利を妨げるのはたいへんな罪ですから。
また、彼は「アッラーは基本、慈悲の神」「懐深く許してくれる性格」だと述べます。
これもまた「非寛容な宗教文化だ」という世間一般の思い込みとは異なっているので、内田樹がその真意を訊ねたところ彼はこう答えています。
有名な「目には目を、歯には歯を」という言葉がありますね。
あれ、単純な復讐法だと思っている人が多いのですが、厳密にはそうではなくて、イスラームの場合はあくまでも許すのがいちばんいいのです。
これは『クルアーン』にはっきり書かれてまして、人の罪を許すと自分の罪の償いになるので、許すのがいちばんいい。
けれどもそれができない場合は、同じことをやり返してもいい。
しかし自分がされた以上の過剰な復讐は決して行ってはならない。
そういう意味なのです。
ちなみに言いますと、ユダヤ教では、目を潰されたら目を潰さないといけません。
これは義務です。
厳しいのです。
キリスト教の場合は「汝の敵を許せ」で、許さないといけません。
これも別の意味で厳しい。
しかし、イスラームは許すのがいちばんいい。
でも、同じことをやり返してもいい。
二段構えになっているのです。
確かに、危害を加えられた際に「復讐しなければならない」と決められているユダヤ教も「許さなければならない」と決められているキリスト教も、本人に選択の余地がないという意味ではどちらも厳しい戒律と言えます。
それに対してイスラム教は「やられた以上の復讐さえしなければ最終的には本人次第でよい」という点で、戒律通りにできない人を「復讐しなければならないのに」「許さなければならないのに」といった罪悪感で追い詰めていく他の二つの一神教よりもはるかに柔軟で寛容的だと言えるでしょう。
さらにイスラム世界では、富める者が貧しい者に財産を与える「喜捨」の文化や、水や食料など生きていくのに必要不可欠なものを共有する相互扶助の文化が当たり前の身体感覚として根付いていると言います。
これは、あらゆるものに「誰の物であるか」とタグ付けして個々の所有権を守ることばかりに熱心な個人主義社会の感覚とは大違い。
実際にイスラム圏で暮らしてみての感触を、中田孝は以下のように述べています。
特徴的なこととして、「施し」の文化ということがあります。
イスラームでは困っている人に分け与えることをとてもよしとします。
たしかに、ぼったくりはあるのです。
百円のものを五百円で売りつけるとか。
そういうところは日本人にたいへん評判が悪いのですが、彼ら的にはぜんぜん問題なくて、商売として強欲なのはOKなのです。
しかし、人間として共有すべきものは共有すべきだというシェアの思想は厳然としてあって、例えばタクシーに乗ったら運転手さんがお水を飲んでいて、目が合った。
その時お客さんに「どうぞ」と勧めないのはとんでもないことなのです。
これをやらないのはドケチであり、末代までの恥なのです。
ご存じと思いますが、宗教的に断食する「ラマダン」というものがありますね。
あれも施しの文化と言えます。
約一ヶ月間、日の出から日没まで飲食禁止で、日が暮れると解禁になるのですが、この時期は市中のモスクやレストランで食事がタダで振る舞われます。
教会と違ってモスクはメンバーシップがありませんので、誰でも入れて、お金がなくても食べられます。
日が落ちると人がいっせいに集まってきます。
「ドゥユーフッラフマーン」と言いまして、「アッラーの客」という意味です。
イスラームの世界では施しの考え方が発達していますので、普段からパンくらいは恵んでもらえます。
その上、一年のうち一ヶ月はたらふく食べられる。
こっちの方がよほどすぐれたシステムだと、私、最近思うようになりました。
だって見ていたら、日本の貧しい人、おいしいものを腹いっぱいになんかまったく食べられませんもの。
そんなわけで、ムスリムの共同体さえしっかりしていれば、イスラム世界には近代国家の枠組みなんてそもそも必要なかったというのが中田孝の所見です。
実際、イスラムの教えが浸透している町では、富裕な商人たちがそれぞれ財産を出しあって弱者救済や公共事業などを自主的に行うワクフという仕組みでまかなえています。
彼はイスラム世界の伝統的なムスリムの感覚を「究極のところ、この世は神がお決めになった法によって成り立っているのであり、人間の支配などはどうでもいいと考えている」と説明します。
その上で、アラブの国々で独裁的な政権がいくつも起こり、国々が全く連携できていない原因を以下のように分析しています。
アラブ世界で独裁制が起こりがちな根本原因が一つあると私は考えています。
(アラブ世界は)もともとは部族主義で、族長という大きな存在がありました。
これに西欧的な国民国家の概念が結びついて最悪になったケースが多いような気がします。
(族長主義とは)族長のところに部族のすべての資源を集中して、族長がみんなに資源を再分配するかたちです。
ですから、ドカンと大きく集めてパッパと分配する気前のよい族長ほどよい族長だという話になります。
遊牧民の場合、共有財産が大きいのでそういうことになります。
しかしですね、だからといって即座にリーダーの独壇場になるわけでもないのです。
彼らは一人では生きられません。
集団でないと生きていけない。
群れから離れる自由がありません。
ですからそこにある種の民主主義が発生するんです。
離れられないので反対の人も多数派に従う。
いやでも共存を模索するところがあって、その意味で遊牧社会はすごく民主主義なのです。
自由でないがゆえに民主主義が発生する。
近代の民主主義とはちょっと違います。
こっちは個人が気ままに生き、自分の思う通りのことをやれる民主主義です。
また、遊牧民の民主主義は判断を誤ったら死にますので絶対間違ってはいけない民主主義ですが、近代の民主主義は少しくらい間違っても構わなくて、それをデフォルトとしてあらかじめ組み込んでいるような民主主義です。
遊牧民の社会では判断を誤ると死んでしまうので、いろいろな場面で軍隊組織的な厳しさが加わります。
即断即決でその場その場を切り抜けていかなければならないので、スピードも加わります。
みんなに信頼される強いリーダーが求められます。
一方、定住の農耕民はもっとのんびりしたネゴシエーションの文化になりますね。
だらだらと時間をかけてみんなで話し合って。
(族長主義のように)トップにいるのが個人であれば、いかにワンマンであっても大した力は持ちえないのです。
でも国家は違います。
法人であり、機関です。
ぜんぜんレベルが違います。
それに族長みたいな性格を持たせたらたいへんなことになりますね。
すべてをいいように牛耳る強大な権力になって、危ない独裁体制が出現してしまう。
彼ら、それがわかっていないのです。
トップが個人か法人かにはとてつもない落差があることがわかってないのです。
そんなこともありまして、私、イスラームにとって法人概念が最大の敵、最大の偶像だと思っているのですよ。
このような理由で、中田孝は「過去の植民地支配によって西欧から押し付けられた国民国家の枠組みを廃し、イスラム圏にイスラム信仰共同体を復活させるべきだ」とするカリフ制再興論を唱えています。
これは近現代の官軍側であるキリスト教勢力が築きあげてきた世界秩序に真っ向から逆らう行為だと言えます。
インドネシアで開かれた「カリフ会議」という十万人規模の集会で「カリフ制再興を世界中に発信しよう」とアラビア語で訴えて熱狂を生んだ彼のスピーチ映像はYouTubeで全世界に配信されており、アメリカの国防情報局は彼を要注意人物に指定しているそうです。
また、2014年にはイスラム国に戦闘員として参加を希望する当時26歳の日本人学生を仲介をしたとして、警視庁公安部から事情聴取と家宅捜索も受けたとも報じられています。
官軍側の価値観からすれば中田孝の発信は現在の国際社会の世界秩序を乱すものであり、テロリストたちを増長させる危険な政治思想です。
ですが、憂き目を見てきたイスラム世界からすれば「宗教と政治は分離すべきだ」という西側諸国からのもっともらしいバッシングは、道理に反して捏造された正しさと映るようで、彼は以下のような反論をしています。
かえって欧米の方が混同していて、政教分離と言いながら宗教的な価値観を背負って相手の陣営に攻め込んでいるところがありますよ。
民主主義も人権も、彼らは宗教と思っていませんが、立派な宗教であり、特にアメリカにはその狂信者、宣教師がたくさんいます。
で、戦争して人を殺しても、これは宗教ではなく政治の部分によってやっているのだとか言い抜けする。
このように、この世界は力が支配する弱肉強食の説得合戦の場。
私たちはさまざまな力を用いて互いに説得の応酬を繰り返しており、人類は場を仕切る権限をめぐって激しい思想戦を繰り広げてきました。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
民主主義や人権思想を背景とした統治を是とする西側勢力と、イスラム法による統治を是とするイスラム世界との対立。
どちらの価値観にシンパシーを寄せるかは、それまで刷り込まれてきた情報の種類や現実の力関係に左右されます。
ですから問題は「客観的に正しいのはどちらか」という次元にはありません。
対立の根本的な原因は、どちらもが「客観的に正しいのはこちらだ」と主観的に信じていることにあるのです。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配 する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめてい ます。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300