2015年2月9日放送の「5時に夢中!」というテレビ番組の中で、読売新聞の以下の記事が紹介されました。
外務省は7日、イスラム過激派組織イスラム国の勢力圏があるシリア北部に渡航しようとした新潟県在住の50歳代の新潟県在住の男性に対し、旅券(パスポート)の返納を命じ、受け取ったと発表した。
旅券法は、生命、身体、財産を保護するため、旅券返納を命じることができると定めているが、すべての国への渡航を制限することになるため、この理由での適用はなく、初の事例となった。
外務省は、イスラム国による日本人人質事件を踏まえ、今後もイスラム国の支配する地域への渡航については旅券の返納命令を出し、入国を阻止する方針だ。
返納命令に従わない場合、その旅券は失効する。
男性はカメラマンで、トルコ経由でシリア北部に入ることを計画していた。
外務省と警察庁が再三、渡航の取りやめを求めたが、応じなかったという。
憲法は「海外渡航の自由」を保障しており、渡航を制限することは原則できないが、同地域に関しては、「生命が危機にさらされる可能性が高く、例外に当たる」(外務省幹部)と判断した。
男性は読売新聞の取材に対し、「イスラム国支配下から逃れてきたクルド人難民らを取材する計画だった。法的措置が取れるか検討したい」と話した。
この記事に対して、株式評論家の若林史江は「渡航の自由」や「知る権利」を外務省がたやすく制限してよいのかという論調で、以下のように発言しました。
旅券返納を命じることができる一方で、私たちは渡航の自由というのも憲法で定められているので、じゃあどっちを取るのかということですよね。
だからじゃあ後藤さん(日本人人質事件で殺害されたとされるフリージャーナリスト)を行かせた国が悪かったのか良かったのかって賛否もあると思うんですけど。
ただ、何でもいいって今のシリアに対してやってしまうと確かに大きな国益を損なうことにまでなってしまうってとこがあるので。
国が、全てをダメなんではなくて。
やっぱり私たちって知る権利があるじゃないですか、その僻地だったり紛争地の。
そういう人たちを取材して私たちは知るということをしなければいけない、その戦地をね。
目を塞ぐことはできないわけですよ。
だから、この取材に行ってくれる人っていうのはやっぱり国益として大事にしなきゃいけないし。
その境を外務省が出す出さないっていうのは。
ちゃんとその人たちの人格だったり仕事だったりとか、もちろん知識だったりとかを調べて、まあ、あの可否をすればいいのかなっていう感じはしますけどね。
それに対してエッセイストのマツコ・デラックスは、外務省の今回の決断は仕方ないのではと擁護する見解を述べました。
難しいよね、それは。
じゃあその線引きを、どこでするかっていう話になっちゃうじゃん。
たとえばだから、後藤さんなんかは、NHKですらさ、素材を使うような人だったわけじゃない。
それぐらい…。
でもそれも難しいよね。
それぐらいちゃんとしてるジャーナリストかそうじゃないかっていう線引きだって、外務省が決めるったって難しいから。
こういうときは…いいんじゃない?
対する若林史江は「じゃあ、海外の人が挙げたYouTubeの画像を見てればいいってこと?」と、マツコ・デラックスの擁護に疑問を呈します。
「日本独自のジャーナリズムを放棄するつもりか」というこのつっこみに対し、マツコも何とか対案を述べようとしますが歯切れよく答えることはできません。
じゃあ共同通信だったり、そういうところに所属してる人に任せましょうとかね。
あ、でも、フリーだから行けるところもあるんだろうしね。
若林史江はさらに「フリーだからこそ自分の意思でそこに、危険地帯まで行って…」とフリージャーナリストの存在意義を語りますが、ここで司会のふかわりょうが思わず口を挟みました。
「もう助けませんよ」というのは駄目なんでしょうか?
これに対し「行ってもいいけどってこと?」とマツコ・デラックスが確認すると、ふかわりょうは「はい」と応えました。
このふかわりょうの発言は「単なる民間人が勝手な使命感を偉そうに主張しているだけではないか」「分かっていて自分から危険地帯に飛び込む人を国がわざわざ助けてやらないといけないのか」といった自己責任論を反映しています。
それまで意見を交わしていた二人のコメンテーターは、この率直な指摘にしばらく黙ってしまいました。
最終的にはマツコ・デラックスが「それは私たちには決められない」と静かに発言することで、このコーナーは締め括られています。
もしこの「行くのは止めないが助けもしない」という提案を認めてしまっていたら、小難しいべき論者たちからの「国家が国民を見捨てることを許すのか」といった厳しい非難は避けられなかったでしょう。
ですから、素朴な庶民感覚を代弁するふかわりょうの言い分に仮に共感できたとしても、テレビ番組という公の場で不用意に賛同するわけにはいかなかったのです。
そもそもパスポートとは、出入国を管理するために国家が渡航者に保管を義務づける書類であり、一個人には所有権なんかありません。
パスポートによる移動の管理と近代国家との関係を研究したジョン・トーピーは、その著書『パスポートの発明(監視・シティズンシップ・国家)』の中でこうまとめています。
パスポートの発明―監視・シティズンシップ・国家 (サピエンティア)
- 作者: ジョン・C.トーピー,John C. Torpey,藤川隆男
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しかし、国家による管理装置であることが今日のパスポートの主要な機能だとしても、パスポートの機能はそれだけに限定されるわけではない。
というのも、パスポートは、人間や領土に官僚的な支配を拡大するのみならず、他国の領域にいるパスポートの所有者に対して発行国が援助や救援をおこなうという保証を与えるからだ。
すなわちパスポートの所有そのものが、発行国の大使館ないし領事館が提供するサーヴィスを利用する正当な権利の証明になる。
いうまでもないが、極端な場合には軍事力の利用もこれに含まれる。
つまり、国際社会を支配する「人間の移動をパスポートで管理する」という西欧型ルールの中では、他国にいるパスポートの所有者に対して発行国が援助や救援を保証することが織り込まれています。
ですから、ふかわりょうの「パスポートは持たせるけど助けない」という提案は現行の国際ルールから逸脱するものであり、日本が国際社会の一員としての地位を守りたいなら絶対に駄目なのです。
この件に関して、外務省には「生命を守るために行かせない」か「いざというときは助けることを前提に行かす」かの選択肢しかなかったわけです。
逆に言うと、国際社会を支配しているパスポートという仕組みの恩恵を受けるためには、出入国を国家に管理されることに同意する必要があるということでもあります。
日本国が保証している渡航の自由とは公共の福祉に反しない範囲のものでしかありませんから、日本人がこの国際社会を合法的に移動したいのなら、自らの行動が公共の福祉に反しないことを日本国に納得させるしかありません。
そうした努力もなしに「そもそも外務省ごときがジャーナリストの行動を制限するのがおかしい」と言うのなら、その文句は外務省や日本国ではなく「自国への出入国を管理する権限を国家の主権として認める」という国際社会のルールに対して向けるべきです。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/11/23/144020
人々の移動を制限する国際社会のルールに従う気がなくジャーナリストとしての使命感や正義感の方が大事と言うのなら、パスポートという仕組みの恩恵なしに行動するしかないでしょう。
それほどの度胸があればの話ですが。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。