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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

ジャズもお囃子も規格化はできない

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ジャズという音楽はない。
ジャズな人がいるだけ。
 
ジャズをやっていてもジャズじゃない人がいる。
音楽をやらなくてもジャズな人はいる。
 
 これは、2014年の秋から放送が始まった「ヨルタモリ」という番組で、ジャズ喫茶の経営者を演じるタモリが何度となく繰り返している主張です。
 11月16日の回のゲストだった松たかこに「ジャズを歌ってみたら」と勧め、彼女に「ジャズを勉強したい」と返されたタモリは、「勉強」という響きに引っ掛かったのか以下のような説教をします。
 
ジャズという音楽はない。
ジャズな人がいるだけ。
ジャズという音楽があるようであるわけではない。
 
ジャズをやっていてもジャズじゃない人がいる。
音楽大学でピアノをやっていて凄いテクニックをジャズを好きでやっていてもジャズな人ではない人がいる。
 
(松たかこは)真面目で完璧に仕上げる方だと歌を聞いて思うが、それはそれでいいと思うがいっぺん自由にそこんとこ少し音が外れたってやってみようという気持ちが出たときに凄いジャズな人になると思う。
 
歌うということは「歌うということ」をやめること。
歌は語りの延長線上にあるもの。
シングライクトーキング」という言葉があるように語るように歌え。
 
ここでこう、ここで盛り上げる、ここで帰着させて余韻を残す、など一旦やるがそれをやった後にそれをやめたら凄い歌になる。
それをこれから目標にしてもらいたい。
 
 もともとは世界中に様々な形で存在していたはずの音楽。
 タモリの言葉は、西欧諸国の世界侵略とともに五線譜やおたまじゃくしによってお行儀よく規格化されてしまった、近代以降の権威的な音楽の世界へのアンチテーゼとも言えるでしょう。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 私はジャズそのものにはあまり詳しくありませんが、タモリの言葉はお囃子など日本の芸能にも通じるところがあるなと共感できました。mrbachikorn.hatenablog.com
 ですから私も、タモリに習ってお囃子に関する格言を作ってみました。
 
お囃子という音楽はない。
囃し合える場所があるだけ。
 
お囃子をやっていても囃し合わない人たちがいる。
音楽をやらなくても囃し合っている場所はある。
 
 たとえば音楽の専門化がジャズやお囃子の演奏を再現するために、パートごとに音色を分析して楽譜に起こし、各パートの奏者が個々のパフォーマンスを正確に再現して全員同時に鳴らしたとしましょう。
 でも、そういった規格化されただけの一斉演奏はジャズともお囃子とも呼べない代物でしょう。
 お行儀よく手なずけられた音楽の考え方のみでは、ジャズじゃないジャズや、囃し合わない囃子みたいな微妙な模造品を生むだけです。
 
 囃子とは、語りや唄や踊りや祭りや山車の進行といった人の営みを盛り上げるための言わば「合いの手」であり、音楽として単体で見せびらかすためのものではありません。
 囃せているかどうかは、そのお囃子によって「語り手が語りやすくなっているか」「唄いやすくなっているか」「踊りやすくなっているか」「祭りの場が高揚しているか」「山車の曳き手が曳きやすくなっているか」などによって決まるもの。
 その目的意識を持たずに、規格化された音楽の基準で再現しただけのお囃子など、料理に喩えるならば「美味いか不味いか」という問題以前に食べることすらできないただの食品サンプルのようなものです。
 
 長野にある歌舞劇団田楽座は、全国各地のお祭り芸能の担い手に師事し、ただ単に曲の音階や踊りの振り付けだけでなく、そういった担い手たちの心意気までも舞台の上で表現しようと取り組んでいます。
 また、和の色合い豊かなお囃子の曲を創作し、演奏を通じてそういった日本古来の心意気を追体験できるようにと、地元の芸能を持たないような全国のファンや太鼓チームの共有財産として提供しています。www.dengakuza.com
 
 こうして創られたほとんどの田楽座の曲には、全国各地のお祭りにある踊りや山車のような「囃されるべき分かりやすい対象」は設定されていません。
 その代わりとしてなのか、田楽座は「人の輪そのものを囃し立てる」「笛や太鼓など演奏する者同士が互いに囃し合う」というコミュニケーションのあり方を提唱し、「人と人とを繋ぐツールとしてのお囃子」という考え方を普及しています。
 
これが和の心だ。
これが日本の伝統文化の新しい姿だ。
 
 いわゆる和太鼓の世界では、こんなフレーズを頻繁に耳にします。
 ですが、実際に舞台の上で繰り広げられているのは、テクニックや迫力を誇示するだけの見せびらかしパフォーマンスであることがほとんど。
 
 そんな規格化された「和の心」や「日本の伝統文化」が、日本に受け継がれてきた伝統の系譜と呼べるものなのか。
 地元のお祭り芸能の担い手の心意気を大切にする田楽座の活動は、そんな軽薄な「和の舞台パフォーマンス」の世界へのアンチテーゼとしても読み取ることができます。
 
 私は大学院生のころに田楽座と出会って和太鼓や篠笛や民舞などにハマり、田楽座が伝える「祭りが繋ぐ人の輪」や「囃し合いの精神」に感化されて、2004年の春に地元福岡で田楽座ファンの太鼓チームを中心とする交流グループを立ち上げました。
http://dengakuza-fukuokanokai.jimdo.com/
 そこから「にぎわい祭り」という年に一度の太鼓チームの交流イベントが生まれ、交流の輪がじわじわと広がってきて今年で8回目を迎えることができています。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 これからも規格化された単なる「和の舞台パフォーマンス」の披露に陥らないよう、初心を忘れずに互いの交流を楽しんでいけたらと思います。
 そのためには、田楽座が教えてくれた「囃し合いの精神」をしっかりと伝えていきたいですね。
 

 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300