史上最大級のジェノサイドとして有名なのが、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによって行われたユダヤ人の虐殺です。
ホロコーストとも呼ばれるこの組織的殺戮の目的はユダヤ人の根絶だとされており、その犠牲者の総数は1100万人以上とも言われています。
このような憂き目に遭ったユダヤ人たちの中には、民族の最大の危機にも助けてくれなかったような神は信じるに値しないという理由で、信仰を捨てようとした人もいたようです。
自身もユダヤ教徒である哲学者のエマニュエル・レヴィナスは、ユダヤ人社会の崩壊を食い止めるべくその著書『困難な自由』の中でこう述べています。
- 作者: エマニュエルレヴィナス,Emmanuel L´evinas,内田樹
- 出版社/メーカー: 国文社
- 発売日: 2008/10
- メディア: 単行本
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唯一神に至る道には神なき宿駅がある。
真の一神論は無神論の正当なる要請に応える義務がある。
成人の神はまさに幼児たちの空の空虚を経由して顕現するのである。
その顔を隠す神とは、神学者の抽象でも、詩人たちの幻像でもないと私たちはそう考えている。
それは義人がおのれの外部に一人の支援者も見出だし得ない時、いかなる制度も彼を保護してくれない時、幼児的宗教感情を通じて神が現前するという慰めが禁じられている時、一人の人間がその良心において、すなわち受難を通じてしか勝利し得ないその時間のことである。
レヴィナスを師と仰ぐ内田樹は、この難解な文章の意図を以下のように解説しています。
http://blog.tatsuru.com/2007/06/12_1055.php
あなたがたは善行を行えば報償を与え、悪行を行えば懲罰を下す、そのような単純な神を信じていたのか。
だとしたら、あなたがたは「幼児の神」を天空に戴いていたことになる。
だが、「成人の神」はそのようなものではない。
「成人の神」とは、人間が人間に対して行ったすべての不正は、いかなる天上的な介入も抜きで、人間の手で正さなければならないと考えるような人間の成熟をこそ求める神だからである。
もし、神がその威徳にふさわしいものであるとすれば、神は人間に霊的成熟を求めるはずである。
神の不在に耐え、人間が人間に対して犯した罪の償いを神に委ねることをしない成熟した人間を求めるはずである。
レヴィナスはそのような論理によって、現に奇跡的な介入がなく、義人が受難したという当の事実に基づいて「成人の神」が存在することを証明しようとしたのである。
このように、神に対して「正当な裁きが下されなかった」とクレームを付けるような在り方は、幼児並の未熟な信仰に過ぎないというのが内田樹流のレヴィナス解釈です。
創造主たる神は人間の為した不正くらい自力で解決できるように人間を造られているはずなので、それを信じて「神なしでの解決」を目指すのが成熟した真の信仰の姿である。
レヴィナスの言葉をこう読み取ることで、内田樹は「世の問題のあれこれにクレームを言っているだけの人間はいくつになっても半人前の幼児でしかない」とする独自の成熟論を展開しています。
レヴィナスや内田樹が指摘するこうした「幼稚なクレーマー思考」は果たしてどこから来るのか。
私はこの問題の原因が「レフェリーへの依存心」にあると考えています。
なぜ人を殺してはいけないのか - 間違ってもいいから思いっきり
レフェリーへの依存心を抱える幼稚なクレーマーたちの望みは、公正(だと自分が納得できるよう)なジャッジが下されること。
ですが、人間たちの世界ではジャッジを下すのも結局のところ欲深い人間でしかありません。
例えば、私は日本という国に住んでいる日本人ですが、現在のような「国民国家」という仕組み自体は数百年前に人の手によって発明されたものでしかありません。
私自身が「日本人」として生きていられるのは、「日本政府」と名乗る行政組織が「日本列島」と名付けた地域を実効支配しているこの時代に、「日本人」としてタグ付けされた両親の下で生まれたからこそ。
人間は皆、良くも悪くも、それまでに積み重ねられてきた「人の営み」という偶発物に囲まれて生まれます。
ですから、現代に生まれた私がこの日本で生きるからには、過去の権力闘争の末にできあがった日本社会の仕組みに従うしかありません。
もし社会の現状が不満ならば、日本人の一員として仕組みを変えるための権力闘争の輪に加わるか、日本人の一員であることを止めるしか、一人前の成人としての選択肢はないのです。
そして、国際社会についても同じことが言えます。
国際機関と呼ばれる組織は地球上にいくつもありますが、これらは別に諸国家の上に立つ指導的な存在ではなくあくまでも国家同士による自発的な集まり。
その代表的な存在が国連(United Nations)です。
United Nationsを素直に直訳すると「連合国」となります。
これは第二次世界大戦中に戦っていた片側の陣営を表す言葉であり、「世界政府」のような全世界の統一機関という意味ではありません。
ですが、日本では「国際連合」という派閥色をまるで感じさせない中立そうな言葉に翻訳されてしまっています。
そのため、日本国内では「国々の上には国連がある」といった素朴な誤解が誘発されます。
当の国連では、アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国という第二次世界大戦の主要な戦勝国に常任理事国としての特権が与えられていますが、このことについて「世界の統一機関として公平でない」といったニュアンスのクレームを付ける日本人もいるようです。
そんな的外れなクレームが生まれるのは「国々の上に立つ国連」という根本的な勘違いがあるから。
そもそもどんな国際機関も、それを作る国々の都合によって左右される利益調整のための支配システムでしかありません。
その現実から目を背け、「国際社会には国々を取り仕切る公平なレフェリーがいるべきであり公平でない支配はどれも不当だ」という類いのクレームを付けたがる「レフェリー頼み」の根性こそが芯から甘ったれているのです。
内田樹の言う幼児とは、必ず裏切られる「完璧なレフェリーへの期待」を大事に抱えたまま、いつまでもクレームを吐き続けるだけの存在です。
私たちがただ待っていても「完璧なレフェリー」などは決して現れてくれません。
あなたの望む「あるべき公正さ」なんて、あなた自身の手で周囲を巻き込み、試行錯誤を繰り返しながら少しずつ造り上げていくしかないものですから。
ろくでもない場所を変えるには - 間違ってもいいから思いっきり
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。