ベルセルク (21) (Jets comics (839))
- 作者: 三浦建太郎
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 2001/05
- メディア: コミック
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三浦建太郎の描く漫画『ベルセルク』は、壮大なスケールで描かれるダークファンタジー。
戦乱の世に平民の身分で生まれたグリフィスという才覚豊かな男は、その圧倒的な剣の腕とカリスマ性で「鷹の団」という最強の傭兵団を築き、大胆かつ緻密な知略で敵の裏をかいて数々の武功を上げていきます。
グリフィスの幼い頃からの野望は、自分の国を手に入れること。
騎士となり貴族となって宮仕えするようになってからは、宮中の政敵をも手玉に取り、王女の心も掴んでいきます。
しかし、国を手にする一歩手前でグリフィスは王女をかどわかした罪で失脚。
彼は1年以上にわたる拷問の末に皮を剥がされ手足の腱や舌までも切られて、一生動くことも話すこともできない体にされます。
絶望の淵に追いやられた彼の前に現れるのが、ゴッドハンドという人外の魔物です。
ゴッドハンドたちからの勧誘にあったグリフィスは、「鷹の団」の仲間たちを魔物たちへの生け贄にすることと引き替えに、ゴッドハンドたちの仲間入りを果たします。
こうして神のごとき力を手にいれたグリフィスは再び人の姿へと授肉し、ついに自らの国を手に入れて現人神として君臨します。
この物語の主人公は、グリフィスの親友であり「鷹の団」最強の剣士であったガッツです。
彼は、野外で亡くなっていた母体からこぼれ落ちていた赤ん坊として傭兵に拾われ、生まれながらに剣しか知らずに育ってきた男。
その特殊な出生から不吉な存在として忌み嫌われてきた彼は、唯一信頼していた育ての親にも殺されかけたことで、剣以外には何も信じられなくなります。
そんな人間不信だったガッツが、初めて友情を交わし合えた男こそがグリフィスです。
グリフィスと出会うことでガッツにはようやく「鷹の団」という自分の居場所ができ、仲間のキャスカとは心許せる恋人同士になります。
ですが彼は「鷹の団」の仲間たちと一緒に、グリフィスから魔物たちへの生け贄として捧げられてしまいます。
仲間たちがみな魑魅魍魎たちの餌食となっていく地獄絵図の中、キャスカは人外の存在となったグリフィスに犯され魔物の子を孕みます。
そんな中、片目を潰され片腕を千切りながらも何とか生き延びたガッツは、気が触れたキャスカを連れ出し、グリフィスへの復讐を誓って旅に出るのです。
この『ベルセルク』のグリフィス授肉をめぐるエピソードでは、さまざまな登場人物の「信仰の在り方」が対照的に描かれています。
舞台は、国王が亡くなり、疫病が流行り、邪教徒狩りが盛んになり、国中が荒廃し、皆が神の奇跡を祈っているような暗黒時代。
中世ヨーロッパの魔女狩りを思わせる世界観の中、聖地にある「断罪の塔」の中では教団による残虐な拷問が繰り返されていました。
神の名の下に無実の人々を次々と異端審問にかけ、拷問し、処刑していく僧侶モズグス。
揺らぐことのない信念を持つモズグスに憧れて邪教徒狩りに精を出す、貴族の娘にして聖職者のファルネーゼ。
邪教徒狩りに精を出すファルネーゼの姿に嫌気がさしている部下のジェローム。
邪教徒狩りやその密告合戦によって戦々恐々としている聖地で、娼婦仲間と肩を寄せ合い信頼関係を築きながら生きているルカ。
そんな聖地で教団に捕まったキャスカは、異端審問にかけられ、魔女とみなされて処刑されることになります。
また、時を同じくして、この地で虐殺されてきた人々の怨念が巨大なスライム状の化け物となって世に現れ、聖地にいる人々を次々と飲み込み始めます。
パニックに陥り救いを求めて「断罪の塔」に集まった民衆に対し、モズグスは「この魔女を殺せば化け物はいなくなる」と演説し、キャスカを火炙りにしようとします。
そんなキャスカを助けに来たガッツに対して、モズグスはこう言い放ちます。
あなたには聞こえぬのですか!?
この祈りの声が!!
この地に集いしすべての人間が
今心一つに救いを求めているのです
神の勝利の時を待ち焦がれているのです
あなたは邪悪なる魔女一人と引き替えに
この何千何万の信者の命が奪われても構わぬと言うのですか
これまでゴッドハンドという超越者たちの定めた摂理に逆らい、足掻きながら何とか生き延びてきたガッツは、他人を生け贄にするだけで助かろうとする民衆たちの根性に怒りを覚えて反論します。
ふざけんじゃ…ねェ…
祈ってるだけだろうが
これだけ雁首揃えて自分のケツに火がついてる時に拝んでるだけだろこいつら
何千何万人が揃いも揃って女一人にすがり付いてんじゃねえ
そして、「貴様のような不信心者には決して奇跡は訪れぬ!!」とバッシングするモズグスを意に介さずにこう返します。
御大層な奇跡を待つより…
先に体が動いちまう性分でね
神に会えたら言っとけ!!
放っとけってな!!!
こうした争いの末にキャスカを救い出し、化け物たちが火に弱いことを発見したガッツは、近くで生き残っていたファルネーゼやジェロームらと協力し、松明をつかって化け物を牽制しながらこの場から脱出しようと持ちかけます。
一方、化け物の出現が現実として受け入れられないファルネーゼは、神にもすがらず、自分の力でなんとしても生き延びようとするガッツのぶれない姿に驚愕します。
…なぜ?
そんなふうにやれるのだ………?
こんな絶望的な…誰もが何かにすがりつくしかできない中で
なぜこんなにも正確に当然のように生き抜くことを口にできるのだ…!?
ファルネーゼの当惑をよそに、ガッツは生き抜くために必要なことだけに専念し、頭でっかちのファルネーゼにも「自ら行動する姿勢」を要求します。
活路は切り開く
死にたくなかったらてめェもちったァ手ェ動かせ
そして、松明を抱えたまま思わず両手を組んで「神よ…」と祈ろうとするファルネーゼに、ガッツは極めて現実的な激を飛ばします。
祈るな!!
祈れば手が塞がる!!
てめェが握ってるそれは何だ!?
こうしてガッツたちが必死のサバイバルをしている間、パニックに陥った民衆は化け物から逃れるために我先にと「断罪の塔」に詰めかけます。
ですが、あまりに大量の民衆がかけつけたために、破損した塔が重みに耐えられなくなって倒壊してしまいます。
やがて朝になって化け物たちが消え去り、何とか生き延びることができたジェロームは、聖地の周辺に意外と多くの生き残りがいたことに気付いてこう総括します。
皮肉なもんだぜ
神さまにすがってあの塔に逃げ込んだ連中が自分たちの重さで塔を倒しておっ死んで
逆に神にすがらず一目散に難民窟から逃げ出した不信心者達の方が生き残った
実際もう二度とお祈りする気にはなれねェわな
化け物の襲来に対し、娼婦仲間を樽に詰め込むことで助け、自らは井戸に飛び込むことで難を逃れたルカは、このジェロームの信仰放棄の発言に対して別の建設的な捉え方を語ります。
そうでもないさ
生き延びようとすることと恐怖から逃れようとすることはべっこのことだよ
恐怖に我を忘れて周りに流されずに最後まで生き延びるために行動した者が順当に生き残ったんだ
神さまってのは何考えてんのかわかんないしどうにもならない運不運を人に押しつけるけど
それでも人が自分達で何とかできる領分は残しといてくれてるよ
ファルネーゼや民衆たちがすがっていたのは、困ったときには奇跡を起こして救ってくれるお助けマンのような「幼児のための神」です。
彼らがこの「幼児のための神」を信じていられたのは、それを煽動するモズグスの「確固たる信念を持つ姿」に依存することで安心していたかったから。
ジェロームが皮肉ったのは、こうした幼稚な思考停止の姿でしかありませんでした。
神への不遜などまるで意に介さずに己の力だけで道を切り開こうとするガッツの姿を間近で見ていたジェロームは、神への信仰そのものが馬鹿馬鹿しいものに見えたのでしょう。
ですがルカは、そのような「困ったときの神頼み」だけが信仰の姿ではないと諭します。
ルカにとって「奇跡が起きなければもう駄目だ」と容易く神頼みに走るような態度は、そもそもこの世に神の導きがあることを信じきれていないのと同じ。
ルカが生き延びるための行動を最後の最後まで模索できたのは、どんな困難でも「神さまは人が自分達で何とかできる領分は残しといてくれてる」という、ユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナス並の成熟した信じ方をしていたから。
神を信じずに行動することで助かったガッツと、神を信じて行動することで助かっていたルカ。
両者に共通していたのは、自らの生き方を他人任せにしてしまわないという態度です。
現代を生きる我々の身の周りにも、占い、宗教、哲学、科学、疑似科学、スピリチュアル、自己啓発などといった、さまざまなモズグスが「正しい生き方」を騙って幼稚な安心感を提供しています。
あなたもそんな周囲の荒波に流されて、思考停止の罠に陥ってはいませんか。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図にまとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com