「もしこの世界が近いうちに滅亡してしまうとしたら、あなたはこれからも今と変わらぬ生活を続けていきますか?」
2015年3月にビッグコミック・スペリオールで始まった新井英樹の『なぎさにて』という作品では、このような終末論的世界観がやけにリアルに描かれています。
この物語に登場するのは、ジャックと豆の木に出てくるような天まで届く巨大な蔦。
若者たちに「ニョロニョロ」と呼ばれているこの蔦は太長い筒状になっているのか、半透明な表皮の内側には莫大な量の液体が見えています。
このニョロニョロが世界で初めて現れたのは2011年のこと。
南アフリカ共和国のケープタウンに突然生えてきたニョロニョロは何かの拍子に破れてしまい、ケープタウンは謎の大量の液体を浴びて壊滅してしまいます。
そんな大災害から4年が経った2015年現在、同様のニョロニョロは世界中に数キロ間隔でびっしりと生えており、ケープタウンのような災害がいつどこで起こってもおかしくない状態になっています。
そのせいで「世界は滅亡寸前だ」という雰囲気自体は世界中に蔓延していますが、ケープタウンが壊滅してから同じような災害はおそらく一度も再発していないため、とりあえずは普段と変わりのない社会生活が続けられています。
この作品の設定で私が秀逸だと感じたのは、いつ起こるかわからない災害の危機が目の前にありながらも実際の災害はしばらく起こっていないため、いつも通りの経済活動が相変わらず続いているという、気味が悪いほどのリアリティー。
これは、2011年の東日本大震災による福島第一原発の事故にも関わらず、喉元を過ぎれば熱さを忘れ(たふりをし)てしまえる世の風潮とリンクしています。
また、環境汚染や金融危機など、じわじわと起こっていく破滅には鈍感になれてしまう私たちの性を巧妙に描いているとも言えます。
私たちの現実世界よりも明確に「世界を滅ぼす元凶」が見えてしまうこの世界では、気が滅入って体調を崩す人が多いために病院は大混雑、学校なども「終わこもり」と呼ばれる欠席者だらけです。
学校には「いつか絶対ニョロニョロが全部、破水して、ケープみたく世界も終わってみんな死ぬし、なら好き勝手しなきゃ」と卒業後の進路を放棄する生徒もいれば、世界が破滅しなかった場合に備えてとりあえず学校に通って受験勉強を続ける生徒もいます。
そんな時代を生きる杉浦なぎさは、世界の破滅目前という現状を前向きに受け止めて「やりたいことは今のうち」と元気よく大声ではしゃぎ回る一見破天荒な女の子。
物語の始まりには、一目惚れしたであろう通りすがりのイケメンに赤面しながら大声で告白し、返事は聞かずに猛ダッシュでバタバタと帰宅して「私…変わった?」と自問します。
そんななぎさのやかましい帰宅に、気分が優れなくて寝込んでいた祖母は「かなわんな空元気…」と寝室でボヤいています。
それもそのはず、以前のなぎさは真面目で目立たない子だったようです。
こうしたなぎさの豹変を、いじわるなクラスメートは「世界がパニクる空気に乗って別キャラ演じ始めた」「ニョロニョロデビュー」「やるなら今のうちデビュー」などとおちょくっています。
そもそも「自分はやりたいことがやれていない」と思って「ここではないどこか」を求めている人は、周囲からのさまざまな誘導に振り回されやすいもの。
なぎさのように突然ハイテンションになる人は他にも描かれており、現在のなぎさが「自分なりにやりたいことがやれている」と言える状態かどうかは甚だ疑問です。
ニョロニョロの出現をまるで「自分らしく生きよと導く自己啓発のシンボル」であるかのようにもてはやす一部の流行りに、ふわふわと乗せられて迷走しているだけかもしれませんから。
この物語はまだまだ始まったばかりですので、これからこの世界がどうなっていくかは未知数です。
私が気になるのは、「この世界はもう長くない」と諦めた人々の集団心理がこの先どう動いていくか。
mrbachikorn.hatenablog.com
個人的には、このニョロニョロがいつまでたっても破れずに、先の人生を「無いもの」として扱っていた人々が「終わってくれない世界」の中で苦しんでいく展開の方がより悲劇的だと思います。
たとえニョロニョロによる大袈裟な災害が起こらなかったとしても、モラルの崩壊という人災によって世界が終わっていく…。
そんな展開を想像しつつも、予想を上回る展開を期待しながら今後の連載を楽しみたいと思います。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。