私の人生を決めたのは田楽座。
長野を拠点に50年以上活動している田楽座は、日本各地に受け継がれる民俗芸能を地元の担い手から習い受け、日本人のルーツやふるさとへの深い愛着を舞台の上で表現している歌舞劇団です。
私は10年以上前から田楽座を応援することを人生の主な目的としており、流しの数学教師として各地を転々としながら九州や関西を中心に応援活動を続けています。
私が田楽座と出会ったのは、大学院生のころに始めた和太鼓を通じてでした。
和太鼓を始めた当時は勉強だと思ってさまざまなプロの和太鼓を見てきましたが、エンターテイメントとして好きになれるようなステージはほとんどありませんでした。
ですが、田楽座の舞台からは、他の和太鼓のステージとは全く質の違う熱気が感じとれたのです。
その出会いをきっかけに田楽座の追っかけになった私は「自分がなぜ田楽座に惹かれてしまうのか」を分析した末に、原因がクリエイターとしてのメンタリティの違いにあると発見します。
地方の地味な世界にいた日本の和太鼓を近代的で華麗なステージショーの世界に「引き上げてやっている」と自負する人達と、奥深い日本の芸能の姿の一端をステージショーの世界にも「おすそ分け」しているつもりの人達との違いとでも言いましょうか。
私が毛嫌いする和太鼓のステージの共通点は、彼らの用いる和のテイストが彼ら自身の凄さや威厳を脚色するための道具にしかなっていないということ。
そうした和のテイストは、派手で特色のあるステージを演出するための、単なる「ビジネス和風」でしかないように見えました。
ですが、田楽座が舞台を通して伝えようとしていたのは、そんな表層的な和のテイストではありませんでした。
田楽座の舞台からは、「社会の近代化とともに忘れ去られつつある各地の民俗芸能がどれだけ魅力的なものか」を伝える使者でありたいという、謙虚な使命感が感じられます。
私には「己の凄いところを見せ付けたがるだけの格好つけた太鼓打ち」よりも、田楽座のような「日本の文化の味わいや楽しさやを思いっきり感じてもらうためにその身を投じる演技者」の方が遥かに好ましく見えていたのです。
その顕著な例が、埼玉県の秩父地方に伝わる秩父屋体囃子という曲です。
ステージ和太鼓のプロによって広められたこの曲は、地元で実際になされているものとは似ても似つかないほどド派手にアレンジされた姿で全国の和太鼓チームに出回ってしまっています。
しかし、現地の祭りで実際に秩父屋台囃子を見てまず思ったのは「演奏者の姿が見えない」ということ。
お囃子は屋台という巨大な山車の内部で演奏されているため、他の祭りの参加者は純粋に「囃子の音」だけを楽しんでいました。
そして、現地の合宿練習会に参加させてもらって感じたのもその「音へのこだわり」でした。
20トンもの屋台を曳く数百人の曳き子を応援するのが囃子のそもそもの存在意義ですから、「のれる音」「山が曳ける音」にならないと囃子の意味がないのです。
ですが、全国に広まってしまった「秩父屋台囃子」は、座って叩くというスタイルの珍しさだけを抽出し、音はうわべだけ真似たような薄っぺらいもの。
そこに、大袈裟にバチを振り回すパフォーマンスや、何の意味があるかわからない腹筋パフォーマンスなど、現地ではまず有り得ない要素がゴテゴテと付け足されていました。
ここには、「自分が主役になって人前で目立ちたいだけの太鼓打ち」と、「祭りを縁の下から支える職人としての囃子方」のメンタリティの違いが浮き彫りになっているような気がします。
こうしたショービジネスの論理によって自分たちの大切な囃子を歪められてしまった地元の方の中には、全国の太鼓打ちに向けて「ちゃんとした秩父屋体囃子を伝えたい」と講習会を開いている方もいらっしゃいます。
太鼓打ち達の自己顕示のために、自分達の大切な囃子を好き勝手にいじくり回されるなんて、そりゃあ我慢ならないでしょう。
全国各地に古くから伝えられてきた唄や踊りや笛や太鼓などのお祭り芸能の文化は、人と人の繋がりを築いていく共同体の核とも呼べるものでした。
そんな日本文化の「素材としての美味さ」を大切にする田楽座は、ステージパフォーマンスの世界に媚びて大切な素材を改変し過ぎることがありません。
先程の秩父屋体囃子にしても、地元の方に師事して習い受けたものを、大切に尊重しながら舞台に上げています。mrbachikorn.hatenablog.com
日本のお祭り芸能には、余計なものをゴテゴテと付け足さなくても十分に感動を伝えられるだけの底力があると田楽座は信じています。
ですから彼らの舞台には、他の太鼓のステージにはない日本のお祭り独特の熱気があります。
だからこそ私は、全国に数多とあるどんな太鼓グループよりも田楽座のことが大好きなんです。 www.dengakuza.com
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。