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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

真理の探究では世界を救えない

キリストでもシャカでもマルクスでも悪魔くんでもみな同じことだ
それぞれ方法はちがっているが根本にある考えはおなじなんだ
 
世界がひとつになり貧乏人や不幸のない世界をつくることは……
おそかれはやかれだれかが手をつけなければならない人類の宿題ではないのか………
 
悪魔くんはそれをやろうとしたのだ
きみはその人を売ってしまったのだ!
現実に金になるというだけで……
 
 これは水木しげるの漫画『悪魔くん千年王国』の中の一コマです。
 この作品は、国境で区切られて争いだらけのこの地球上に革命を起こし、貧富の差も戦争もない人類がみな平等の千年王国を建設しようと十二使徒とともに戦う異能の天才少年の物語。
 冒頭に紹介した台詞は、革命のリーダーである悪魔くんを現体制側に3000万円で引き渡した第三使徒に向けて、第一使徒が発したものです。

悪魔くん千年王国 (ちくま文庫)

悪魔くん千年王国 (ちくま文庫)

 
 ここで挙げられている「貧乏人や不幸のない世界をつくること」というのは、本来は人文・社会科学にとっての宿題のはずだと主張しているのが、構造主義者の高田明典です。
 彼は1997年に著した『知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門』の中で、科学者たちが本来取り組むべき宿題を放置してどうでもいい仕事しかやれていないのは、そもそもの研究手法を選び損ねているからだと指摘しています。
知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門

知った気でいるあなたのための構造主義方法論入門

 
 このボタンのかけ違えは、科学の中でももっとも信頼度が高いとされる自然科学の研究手法を、人文・社会科学の分野にもむやみに取り入れようとしたこと。
 科学的エビデンス(根拠)にこだわって実験を重ね数値的に統計をとって解明しようとする自然科学の手法を「切れ味の良い剃刀」に喩える彼は、人文・社会科学の壮大な課題を解決するのに必要な研究手法はそんなみみっちいものではなく、構造主義のように大胆かつパワフルな手法なんだと次のようにプレゼンしています。
 
物理科学に代表される自然科学は、その手法の確立という観点からするとほとんど完成の域に達していると考えられているようです(もちろん異論もあります)。
しかしながら自然科学的分野に比べて人文科学・社会科学的分野での「研究手法」に関しては、もちろんそれぞれの分野の内部での整合性や妥当性はつねに吟味の対象となっており相当の段階に達しているものもあるのでしょうが、まだまだ「確立」といえるレベルではないことは明らかです。
 
私たちは現代でも様々な問題に直面しています。
それらの問題を解決する上では、できるだけ有効な「道具」を用いる必要があります。
 
紙を切るには良い「鋏」が、材木を切るには良い「鋸」が、それぞれ別々に必要になるのと同じです。
どんなに切れる「鋸」であっても、それで紙を切ることはできません。
 
物理学や経済学には「数学」という強力な道具がありますが、その他の人文社会科学の分野では計量的な「数学」という道具に馴染まない問題が多々あります。
剃刀は確かに鋭利な刃物ですが、巨木を切るのには適していません。
巨木を切るには「斧」が必要なのですが、人文社会科学にはそのような斧が用意されていませんでした。
 
数学という「剃刀」を使って木を切り始めてみたものの、「やっぱり切れないや!」「いや、ちょっと切れたよ!」などという不毛な議論を繰り返してきた分野もたくさんあります。
また「そんなトコを剃刀で切ろうとしてもダメだよ!ほら、こっちこっち。ここが切れやすいから、ここを切ろう」などと言いつつ、枝の先っぽばかり切ることに熱心になってしまった人文系の分野もあります(数理心理学などがその代表例です)。
 
「数的処理が可能な問題」のみを扱うというのも確かに潔い姿勢でしょうが、それが「問題の解決」からは程遠いところにあるというのは明らかでしょう。
私たちは道具によって問題を選択するのではなく、解決しようとしている問題に適した道具を使いたいのです。
数的処理が可能である「実験」を考えるという事態は、まさしくその罠に陥っていることを表しています。
 
構造論的手法こそが、ここでいう「斧」にあたるものです。
斧では「薄い紙」を正確に切り取ることは難しいのですが、木を切り倒すことならできます。
ですから、「正確にこの紙を切り取れないような、そんな斧は無意味だよ……」という批判のほうが「無意味」なのです。
 
構造主義には、「斧」がもっているような「概念の曖昧さ」や少々悪くいうと「ズサンさ」があることを否定はしません。
しかし斧には斧でしかできないことがあるように、構造主義にも得意とする適応分野が存在します。
そのような分野を対象として、構造主義がいかなる問題を扱うのかについて考えていくことにしましょう。
 
20世紀末の現在、この世界には「問題」が溢れています。
「科学は進歩した、もしくは、進歩しつつある」「科学の進歩は日進月歩だ」などという言い方は、「科学」を「科学技術」と言い換えることによってのみ、ギリギリの妥当性を保ちます。
進歩した科学を具備している社会が現在の地球であるなら、この現状のていたらくぶりの原因は何でしょうか。
 
経済学は南北問題を解決できず、社会学は差別問題の現状を事実上放置したままです(もちろんそれらは明らかに「社会科学」の一分野です)。
政治学者が選挙予想学者もしくは政局解説者であり、心理学者が性格占師や不出来な相談相手としてしか社会的に認知されていない現状で、どの「科学」が進歩していると胸を張って言えるのでしょうか。
現実問題として、ほとんどすべての「科学者(と言えるかどうかは別としても、そう『呼ばれている』人たち)」は、ごく基本的な問題の解決に対してさえ全く無力な状態です。
 
彼ら無力な「科学者」たちは、うまいいいわけを思いつきました。
「科学の目的は問題の解決ではない」といういいわけです。
 
これは同情に値する事態です。
仕方がないのです。
問題を解決するための道具が与えられていない以上、解決できるはずもありません。
 
巨木を前にして素手で立っている科学者は、「こんな木、切れるわけないだろ!」と言い出したというわけです。
だから「木を切ることが私たちの目的ではない!」と言いたくなる気持ちはわかります。
だって、できないんですから。
 
しかし、彼らがそう宣言したとしても、切らなくてはならない木が消えてなくなるわけではありません。
20世紀末だというのに、地球の多くの地域には(驚くべきことに、まだ)飢えが存在しています。
差別も広範囲かつ多種に存在します。
貧富の格差、犯罪発生率の上昇、政治に対する不信、その帰結としての生活不安、若年層の低能化、家庭の崩壊……これら全部を「科学」が解決しなくてはならないというわけではないでしょうが、少なくとも「人文・社会科学」の喉もとにつきつけられている問題であることは当然です。
 
 貧富の格差を解消できない経済学。
 差別問題を解消できない社会学
 政治への不信を解消できない政治学。
 心理的不安を解消できない心理学。
 
 このように高田明典が人文・社会科学の無力を自信満々にあげつらうことができるのは、構造主義には先駆者レヴィ=ストロースらによる巨大な実績があるから。
 その実績とは、西欧的な価値観に支配されきっていた20世紀前半の国際社会に、西欧産である近代合理主義への盲信を反省させて世の風潮を変えたことです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 レヴィ=ストロースによると「普遍的な真理を解明するためのもの」という伝統的な科学観は西欧独特のただの偏見。
 私たちが「真実の見極め」だと考えている諸々の事象はただ単に「造り上げられた制度」でしかなく、どの文化圏も自らが造り上げた制度の下で「真実の見極め」をしたつもりにさせられているだけであり、近年うるさく言われている「科学的なエビデンス」もそうして造り上げられた西欧的な制度の一部に過ぎません。
 そして、科学や思想というのは「私たちにとっての世界」を形造っていくためのツールの一部に過ぎないんだから、道具としての利便性や弊害をその都度確かめながら試行錯誤を繰り返していこうとする、真実への信仰を重視しない現実的な制度設計の考え方こそが構造主義の真骨頂です。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 高田明典の問題意識は「真理の探究にかまけて『実在するかどうか』なんて問題に無駄にこだわっていては、いつまで経っても科学はこの世の問題を解決できない」ということ。
 その意味で「実在するかわからないものを語ったり、測定できないものについて論じたりするべきでない」といった世の科学者のこだわりは大きく的を外しているし、その無駄な力みのせいで人文・社会科学は大した成果をあげられていないのだと断じます。
 
 彼は、実在するかわからないものや測定できないものに名前をつけて論じることは、説明概念・構成概念として役に立つとその効能を評価しています。
 そして、構成概念でしかないはずの「心」や「無意識」を実在物として真に受けて扱ってしまう素人の姿勢や、逆に「実在するかどうか」「測定できるかどうか」にこだわり過ぎて構成概念としての有用性を評価できない頭でっかちな科学者の姿勢を、両方まとめて以下のようにばっさりと批判しています。
  
それぞれの分野にいる研究者は構成概念として様々なものを考え出します。
たとえば「欲望」とか「心」といったものも構成概念です。
それらの実在は問題にならないどころか、それらの「痕跡」さえも観察することはできません。
 
巷では「本当の私の心」とか「心って何?」とかいう問いが溢れているようですが、何のことやらさっぱりわけがわかりません。
「欲望」は、人間の行動の前段階にある過程として説明のためにおいた「説明概念」でしかなく、その実在を証明することなど不可能です。
 
「無意識」「意識」「知識」「記憶」などといった概念もすべて同じです。
「記憶」を直接観察することはできず、観察できるのはたとえば「一定時間をおいた後で、先ほど覚えさせた文字列を書かせた」ときの正解数です。
そして、この「正解数」という観察可能な対象を説明するために「記憶」という説明概念をおいたということにほかなりません。
 
位置エネルギー」「加速度」などといった物理で用いられる概念も多くは説明概念です。
位置エネルギー」を直接観測することが不可能であることは当然ですが、「そんなものは存在しない」と言い出す人も皆無です。
実在は、もとから問題ではないからです。
 
位置エネルギーを用いることによって、多くの力学的現象は単純な形式で記述されるようになりました。
それこそが、この「構成概念・説明概念」を導入したことの最大のメリットです。
 
話を心理学に持ってくるならば、これらの考え方はあまりにも軽視されていると思われます。
「心」や「無意識」が構成概念であることは当然なのですが、それらをあたかも「実在物」のように扱う人が(何と研究者の中にも)多いのは不幸といわざるを得ません。
ま、少々下品な言葉づかいになりますが「バッカじゃないの?」ということになります。
 
実際には、この種のバカは大学にも溢れているようです。
そんなことを考える機会がなく、のうのうと学部大学院を過ごしてしまった能天気な「ニセ心理学者」が増えているのが実情でしょう。
科学哲学・科学思想史・科学基礎論といった講義は学部でも配当されていますが、必修ではないところが多いようですし、たとえそれらの講義を取ったとしても当の担当教員が「無知」である場合があるので、仕方がないことかもしれません。
 
位置エネルギー」という構成概念が有用であるのは、きわめて合理的かつ功利的な理由によるものであり「真理」などと呼べるものの登場する余地はありません。
同様に「欲望」という構成概念が有用であるのも、きわめて合理的な理由によるものです。
行動の前段階に「ある種の欲望」が存在するとして、行動の関係式を記述するために必要となるものです。
 
私は「心は存在しない」とは言いませんし「無意識は存在しない」とも言いません。
それは「位置エネルギーは存在しない」と言う物理学者がいないのと同じです。
しかしそれが「構成概念」であることをはっきりと知っています。
 
私は一般書においては「人間の心というものは~」という言い方をしますが、それは方便でしかありません。
しかしそれをプロやプロ予備軍が読んで「ふむふむそうか」などと思うのであれば、それは問題です。
 
 彼も散々繰り返しているように、私たち自身の世界への解釈はほぼすべて、言葉から成る方便によって築かれています。
 そして、便利に活用するために造ったはずの方便をいろいろと真に受け、逆に振り回されてしまうのが私たち文明人の性と言えます。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 キリストもシャカもマルクスも宗教も科学も構造主義も、世界の解釈(構成概念・説明概念)を与えることによって人々の行く末を左右するという点では本質的に何も変わりません。
 こうした方便としての作用こそが言葉の本質だということを、私たち人類はそろそろ常識として登録してしまっても良いのではないでしょうか。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com