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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

何のための和太鼓か

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 私にとって、和太鼓とはただの娯楽。
 和太鼓に取り組む際の最優先事項は「純粋に娯楽としての楽しさを追求する」という一点であり、それ以外の「和太鼓の意義」なんてものはオマケで付いてくる副産物でしかないと捉えています。
 
 ですから、私が好むのも「観ていて楽しさや気持ちよさを感じる太鼓」であり、「熱心に練習して統制されてはいるけれど観ていてちっとも楽しくない太鼓」や「キツい運動に耐えている様をこれ見よがしにアピールして『感心しろ』と圧迫してくるような太鼓」には全く興味が湧きません。
 現代の創作和太鼓よりも全国各地に伝わっている民俗芸能の方が気に入ってしまいがちなのも、別に「伝統が大事だ」と教条的に信じこんでいるからではなく、それらを観ていれば「数百年も飽きずに受け継いでこられるほど面白みのある娯楽なんだな」と納得がいくからです。
 
 そんな民俗芸能の味わい深さを私に教えてくれたのが、長野を拠点に活動する歌舞劇団田楽座です。
 田楽座を通じて学んだ太鼓やお囃子や踊りなど民俗芸能の楽しみを地元福岡でも広くシェアしていきたいと思って、「にぎわい祭」という和太鼓チームによる合同イベントを2007年に立ち上げました。
 
 にぎわい祭は、実行委員会形式で毎年バトンを繋いできており、2015年11月21日で第9回を迎えます。
 今回の目玉は、長野からお招きした田楽座によるミニ公演。
 また、福岡の和太鼓チームによる10曲以上の合同演奏も披露されます。
 
 その中で私は「寄せ囃子」という田楽座から教わった曲の演出を任されており、老若男女による楽しさが伝わるような演奏を目指して練習会を重ねています。
 この「寄せ囃子」は、初心者への指導にも活用されているシンプルな曲で、同じリズムを6回ずつ繰り返したりと、下手をすると単調になりがちな曲でもあります。
 そんなわけで、以下のようなメッセージを投げかけて、楽しさを見失わないようにアドバイスしています。
 
寄せ囃子を演奏するにあたって一番大事なことは「人を集めるための賑やかしとして演奏される曲」だということです。
「人を寄せる」「囃したてる」という言葉から読み取れるように、この曲のキーワードはコミュニケーション。
だから「コミュニケーションが楽しくなるための工夫」がそのまま寄せ囃子を豊かにするための工夫となります。
そのためのこだわりをいくつか紹介してみましょう。
 
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
ではまず「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」というこだわりから。
 
どうです?
同じことの繰り返しに6回もつき合わされたらウンザリするでしょ?
どんなに振り付けを決めてかけ声を揃えようと、全く同じことを何度も繰り返されたら見ている方としては退屈でたまらんのです。
 
じゃあ6種類の動作のパターンを考えて、その順番を決めて完璧になるまで練習すれば良いのかというとそれも違います。
コミュニケーションっていうのは相手があって初めて立ち上がるものですから、相手によってそのコミュニケーションのやりようは変わるはず。
 
また、相手だけじゃなく、時や場所やその時々のコンディションによっても、コミュニケーションの取り方は変わるはず。
相手が誰だろうといつでもどこでも同じパターンをなぞるだけなんて、やり取りをする相手に対して失礼極まりないと思いません?
そこにいるみんなとのコミュニケーションというナマモノを取り扱ってるんですから!
 
前振りが長くなりましたが、この課題をクリアするための具体的な解決法の1つは【いろんな相手とコミュニケーションをしっかり取る】です!
 
「右隣の打ち手と対話しながら」
「左隣の打ち手と対話しながら」
「近づいてきてくれた囃し手と対話しながら」
「後ろにいる囃し手と対話しながら」
「打っている太鼓の皮と対話しながら」
「操作しているバチの弾みと対話しながら」
「自分自身の体の動きと対話しながら」
「内なる自分と対話しながら」
「天井または大空またはさらにその先の宇宙と対話しながら」
「今自分のいる空間そのものと対話しながら」
「見てくれてる知人と対話しながら」
「目の前で楽しそうに見てくれているお子さんと対話しながら」
「お囃子を楽しんでくれてる見知らぬお客さんと対話しながら」
 
その場にいる全ての者にフォーカスを当ててコミュニケーションをとるには、6回では全然足りないはず。
そう考えれば「6回繰り返すリズムをただの反復運動にしない」なんて簡単なことでしょ?
 
そしてコミュニケーションを取ろうとする相手を変えていけば必然的にその動作も変わっていくはずなんです。
決して見た目の動作中心に練習するのではなく、内面から湧き上がってくるものを真ん中において、それに付随するように動きを付けていって欲しいです。
一応動作のヒントとなりそうな具体例もいくつか挙げてみますね。
 
「右側を向きながら」
「左側を向きながら」
「正面の人と目を合わせながら」
「後ろを振り向きながら」
「何もない中空を見つめながら」
「目を閉じながら」
「低く小さく体をまとめながら」
「大きく伸び上がりながら」
「周りに手を差し伸べながら」
「太鼓のふちを軽快に打ち鳴らしながら」
「目的の方向に歩み寄りながら」
「バネのように弾みながら」
「思いっきり飛び跳ねながら」
「重力と慣性に身を任せながら」
「ときには静止も取り入れながら」
 
いろいろ書き上げましたが、くれぐれも動作のバリエーションをコレクションするだけの動作マニアにはならないようにしてださいね。
あくまでも「内面を表すための動作」「コミュニケーションのための動作」であって、「動作のための動作」ではないのです。
「動作のための動作」を見せびらかして悦に入るだけのつまらない打ち手にはならないようにお気をつけください。
 
 ここで書いた内容は、単に寄せ囃子だけのコツに留まりません。
 和太鼓を人にパフォーマンスとプライドと我を見せ付けるための道具ととらえるのか、それを通じて人と繋がっていくためのコミュニケーションツールととらえるのか。
 その根本的な前提の違いが、この寄せ囃子についての要望に端的に現れているんです。
 
 「己の凄いところを見せ付けたがるだけの格好つけた人達」よりも、私は「楽しさを思いっきり共感させてくれる凄いパワーの人達」の方が断然好き。
 だから全国に数多とあるどんな太鼓グループよりも、田楽座のことが大好きなんです。
 そんなパッションあふれるにぎわい祭に、あなたも是非足を運んでみませんか。
 
2015年11月21日(土)
福岡県糟屋郡久山町 『第9回にぎわい祭り 見合って笑って囃しあおう~囃して実るは笑顔の輪~』
場所:レスポアール久山
開場 12:30 開演 13:00
おとな 1500円 学生 1000円 小学生 700円 (当日300円増)
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com