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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

ゲームと現実を区別すれば数学が分かる

 以前、当ブログで数学に対する「0.999999…が1になるのは何故か」という疑問への、私なりの決着法を紹介させていただきました。 mrbachikorn.hatenablog.com
 こういった数学への素朴な疑問は他にも代表的なものがいくつかありますが、今回はそれらを一気に解決してみたいと思います。
 これからまとめて片付ける疑問は以下の4つです。
 
①かけ算の順序を逆にしてはいけないのか
②分数で割るとはどういう意味か
③0で割れないのは何故か
④4次元、5次元、……、10次元、11次元、…っていったい何なんだ
 
 これらの疑問はみな「数学は机上のゲームに過ぎない」と割り切ってしまえば、それ以上取り合う必要のない話題です。
 ゲームの中での「正しさ」は最初に取り決めたルールにのみ左右されるもの。
 ですから、そうしたルールの範疇にない「現実世界における意味はどうなんだ」なんて雑音は、ゲームとしての数学にとって最初から気にする必要がない問題なのです。 mrbachikorn.hatenablog.com
 
 この明快な言い分には「数学がただの机上のゲームならそんなものは学校で教える必要がないはずだから『現実においてはどんな意味があるのか』という視点は欠かしてはいけない」という反論が想定できます。
 この立場から数学を捉えてみると、数学の成すべき使命は現実世界に則した役立つ知識を産み出すことであり、単なる机上のゲームなんかに甘んじていてはいけないということになるでしょうか。
 
 それに対するゲーム数学側の言い分は、数学にとっての現実とは論理的なゲームを作るための単なる参考資料でしかないということになるでしょう。
 ゲーム数学の主な目的は理路整然としたゲームを構築することでしかありませんが、そんなゲーム数学からも現実に役に立つ知識が「副産物」として生まれることがあります。
 そして、そんな「副産物」たちが現実世界のあちこちで重宝されているからこそ、数学は学校教育で伝えられているわけです。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 つまり、ゲーム数学の立場から見た現実世界は決して従うべき上位概念ではなく、求められれば応えてあげても良いという程度の「お客さんの一人」でしかありません。
 「数学の言っていることを現実世界にどう当てはめられるか」という問題は、数学の世界で造られたモデルを現実世界に有効活用したいと望む第三者が勝手に悩んでいればいい話で、そもそもゲーム数学の側にとっては現実での意味なんて本質でも何でもないのです。
 
 ですから、一番目の「かけ算の順序を逆にしてはいけないのか」というのはゲーム数学の側から見れば相手にする必要のない話題であり、数学という抽象ゲームの中では「逆にしていいに決まってる」という結論にしかなりません。
 順序にこだわって「逆にしてはいけない」とごねている人は、「かけ算の順序は(一つ分の数)×(いくつ分の数)でなければならない」とするよそでは通用しないローカルルールへの従順さを査定したがっているだけ。
 世間で通用している計算のルールを純粋に伝えることよりも、教える側と教えられる側のローカルな上下関係を崩さないことの方が大事なんでしょう。

かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)

かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)

 
 二番目の「分数で割るとはどういう意味か」も三番目の「0で割れないのは何故か」も、小学校でわり算の計算をどうやって学んだかを思い出せば簡単に解決できます。
 たとえば「12÷3」の計算は「3に何をかければ12になるか」という風に九九の逆として教わっているはずです。
 つまり、わり算のそもそものルールとは「現実世界での等分の仕方」ではなく「かけ算の逆当てゲーム」に過ぎないのです。
 
 そう考えれば、「分数で割るとはどういうことか」と哲学的に悩まずとも、単なるかけ算の逆当てゲームとして割り切ってしまえば「ゲームを成り立たせるためには、分数のわり算は逆数のかけ算に直せばよいし、理由なんてそれだけで良い」と開き直ることができます。
 さらに「0で割れないのは何故か」という疑問も、ただ単に「0での割り算をかけ算の逆あてゲームで考えると答えが見つからなくなるから」と説明することができます。
 
 四番目の「4次元、5次元、……、10次元、11次元、…っていったい何なんだ」という疑問への回答も同様です。
 数学で言う「次元」というのは、ただ単に「数をいくつ並べるか」というだけの話であり、4つの数を並べれば4次元、10個の数を並べれば10次元ということに過ぎないんです。
 「現実世界で言うと、1次元は直線を表し、2次元は縦横の平面を表し、3次元は縦横高さのある空間を表す、それなら4次元の4つ目の軸は何か、10次元の10個の軸は何か」なんてことは、数学を利用したい自然科学者たちが悩めばいいことで、机上の理論や計算に打ち込んでいればいいゲーム数学の側の問題ではないのです。
 
 数学という机上のゲームに対して「現実での意味」を必要以上に教え込もうとする大人たちの姿勢を見ていると、「白か黒かをはっきりさせられる数学のようにこの世の真理も理性で見出だされるはず」という近代社会のドグマを植え付けるために、ゲームと現実の区別をわざと曖昧にしているのではないかと疑ってしまいたくなります。
 そんなインチキ宣教師たちの洗脳的な布教活動は放っておいて、いさぎよく「数学は机上のゲームに過ぎない」と割り切ってしまいませんか。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com