間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

「がんばって狩り」の元凶

 一般に「がんばって」という言葉には、「不用意に使うのはやめておこう」とためらってしまうようなデリケートな問題があります。
 それは、この言葉を「君はがんばるべきだ」という発言者からの押し付けがましさとして解釈する人や「がんばって」という言葉を目の敵にしている人から、「今でもがんばってるよ!」「がんばればいいのはわかってる!」「何でがんばらないといけないわけ!?」「人を追い詰める言葉を使うな!」などと反感を買ってしまうリスクのことです。
 
 この「がんばって」をめぐる面倒くさい問題は、「そもそも言葉は何のためにあるのか」という目的意識の食い違いから生まれていると思います。
 たとえば私は「効果を生むための道具として言葉は存在している」と認識していますが、巷には「言葉は世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするために存在する」と無邪気に信じている人も数多くいます。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ですから、「がんばって」と言われてしまった生真面目な人は相手がどんな意図だろうと関係なく、「がんばって」という言葉が語っているはずの「正しい意味」とやらを真に受けて腹を立てます。 
 たとえ相手が「励みになるように何か声をかけたい」と思って何気なくかけた言葉だったとしても、「誤解を与えない正しい言葉」を使わなかった相手のほうが悪いというわけです。
 
 しかし、落ち込んでいる人や大変な境遇の人に向けて、「励みになるように何らかの声をかけたい」という気持ちから出てくる「がんばって」だってあるはずです。
 「がんばる」という動詞の命令形としての杓子定規な意味にこだわってしまえば、こうした言葉の「プレゼントとしての側面」を素直に受け止めることはできないでしょう。
 
 言葉に「意図を正確に伝達するための手段であるべき」などと過度な期待をかけてしまわずに、コミュニケーションを立ち上げるための道具の一つに過ぎないと割り切っていれば、「がんばって」と言われたときにも「その言葉が示してはずの辞書的な正しい意味」だけではなく「相手はその言葉を使うことでどんな効果を得ようとしているのか」をくみ取ることができます。
 そこに「励みになるように何か声をかけたい」「相手の気分が良くなるような贈り物をしたい」という気持ちがそこに込められているのなら、私はその気持ちの方を素直に受け取って喜ぼうと思います。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 ただこれはあくまでも個人の解釈の問題であって、人がどういう考えを持っているかは一概に判断できせんから、私から言葉をかける際には地雷を踏まないように「がんばって」は使わずにできるだけ他の言葉で自分の意図を表そうとします。
 気軽に「がんばって」と声をかけることができるのは、相手が言葉尻の意味にいちいちこだわらずにこちらの伝えたい気持ちを優先して汲み取ってくれると信頼関係ができているときに限られますね。
 また、相手がどんな人か詳しく知らない場合でも、地雷のリスクを念頭に置いた上で「これだけで誤解されるならそれまでの関係だ」という覚悟さえできれば「がんばって」と言うことができます。mrbachikorn.hatenablog.com
 
 当ブログの目的は「言葉は世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするために存在する」と素朴に信じてしまう記述信仰からの卒業を促し、「効果を生むための道具として言葉は存在している」という言語観を新たな常識に登録しませんかと投げ掛けること。
 もしこの新たな常識が根付いてしまえば、世にはびこる「がんばって狩り」の脅威に怯える必要もなくなるんでしょうね。
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。mrbachikorn.hatenablog.com 
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。mrbachikorn.hatenablog.com