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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

世界は誰かの仕事でできている

◆私の泳ぎ方 和太鼓・民俗芸能 楽しく生きる知恵

 「日本の民俗芸能がいかに心踊る文化であるか」を舞台や講座などを通じて全国に伝えている歌舞劇団田楽座は、私にとっての心の師。
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 全国各地の民俗芸能の担い手たちに今も師事している田楽座は、地元に芸能を持たないような人にもそのエッセンスが少しでも感じられるようにと、「太鼓ばやし」「寄せ囃子」「海のお囃子」「海の太鼓」「山のお囃子」など、和のテイスト豊かな曲をいくつも創作し、全国の和太鼓チームの共有財産として提供してきました。
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 和太鼓愛好家としての私の幸運は、そんな田楽座を師と仰ぐ太鼓チームとたまたま出会ったことで、田楽座の創った共有財産の恩恵を受けられたこと。
 田楽座の創作曲を演奏している太鼓チームの人とならば、初対面であっても一緒に演奏することで親交を深めることができたのです。
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 元来人見知りで人との交流が不得手な私にとって、田楽座の伝える曲は交友の輪を広げてくれる絶好のコミュニケーションツールでした。
 福岡・長崎・鹿児島・兵庫・大阪・奈良・京都・福井・長野・静岡・神奈川・千葉・群馬・東京などなど、会えば一緒に演奏できる仲間が今では全国に点在しています。
 そんな風にして出会うことができた仲間と一緒に演奏し、そのようなな繋がる楽しさをより多くの人たちにお裾分けできる機会が、毎年お正月の三ヶ日に訪れます。
 
 まず、元日の午前0時と、正午には、福岡県福岡市の五社神社にて、初詣の参拝者たちをお囃子演奏で迎えます。
 そして、2日と3日の正午前後からは、大阪府大阪市の千日商店街や法善寺周辺にて、お囃子演奏と振る舞い酒と振る舞いぜんざいと獅子舞練り歩きで商店街の来訪者を迎えます。
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 このように、私の場合は田楽座のお囃子でしたが、世の中には他にも多種多様な共有財産が存在し、それがなければ結び付くことがなかったであろう人たちを繋ぐ縁として機能しています。
 過去に誰かが造り出したであろう共有財産のおかげで互いに結び付き、未来に誰かと誰かを繋ぐはずの共有財産を造り出すことができるのが私たち人間なのです。
 
 缶コーヒーのCMでも「世界は誰かの仕事でできている」と言っていますが、ここでこうして不特定多数の人にも言葉を手軽に届けられるのは、インターネットを整備し、ブログの仕組みを築いてくれた人たちのおかげ。
 人と人とが繋がることでそれまではなかった新たなストレスが生まれることだってありますが、だからといって副作用ばかりを恐れて何のアクションも起こさければ、人生を広げる契機はどんどん死んでいきます。
 
 人生を広げていく際に避けることができない副作用が人と衝突することであり、そんな衝突は大抵「ちょっとした言葉の食い違い」から生まれます。
 せっかく人間として生まれたからには、そんな言葉の荒波に負けることなく、誰かの造った共有財産に乗っかって人生を豊かに育みながら、誰かの人生を豊かにする(かもしれない)新たな共有財産の構築に貢献していきたいと私は思います。
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 ですからこのブログでは、そんな言葉の荒波との付き合い方についての考察をコツコツと発信していきます。
 それは、共有財産の恩恵を受けて人生を豊かにするという営みを邪魔をされないため、そしてそんな「他人に人生を邪魔されないための知恵」を人類の共有財産にしていく壮大なプロジェクトの一員として自分なりの貢献するためです。
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※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。
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