間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

無意味な「許せない」の利用価値

 大学生のころ、ずっと疑問に思っていた言葉があります。
 それは「許せない」です。
 当時は理屈先行で考える傾向が今よりもずいぶんと強烈だったので、この言葉に何か建設的な意味があるんだろうかと心の底から馬鹿にしていました。
 
 それは、一個人が誰かに対して「許す」とか「許さない」とか言ったところで、言われた当人はそんな「何の権限もない言葉」を真に受けて行動を変える必要が全くないからです。
 人に対して「許す」とか「許さない」なんて言ってしまえる人はどれだけ偉いんだろう、自分に何の権限があるつもりなんだろうと、その無意味な権威の根拠を不思議がっていました。
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 もし「許さない」が何か意味を持つとすれば、それは「それをすればこんな痛手を負わせてやる」といった脅迫が裏に隠されている場合です。
 親や教師や上司や取引先や警察など、自分に力を及ぼせる存在が使う「許さない」にはその裏に具体的な報復が匂わされており、その報復を被りたくなければ「許さない」には従わざるを得ません。
 逆に、そんな報復など知ったことかと思えるのなら、その相手からの「許さない」は無意味なものになります。
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 つまり、「許さない」と言ったときにその言葉が効力を持つかどうかは、言った人と言われた人の間にどんな力関係があるかによって決まるということ。
 実際の行動を制限しているのはそうした現実のパワーバランスであり、単に「許さない」という言葉だけでは何の効力もありません。
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 実際の力関係がない赤の他人に対して「許さない」と言ったところで、そんな空虚な言葉だけで人の行動を制限することはできないので、基本的に赤の他人への「許さない」は無意味です。
 しかし、それがどんなに無意味だろうと、何かに対する「許さない」という不毛な感情を共有することで、似たようなクレーマー同士が連帯感を得ることができます。
 それこそが、そもそも建設性のない「許さない」という言葉の、ほんのわずかな利用価値と言えるでしょう。 
 
 要するに、「許さない」は何か意味のある行為を指す言葉ではなく、ある種の負の感情を結集させるための旗のようなものでしかないのです。
 不快感ホイホイとなる旗のバリエーションとしては「〜を許さない」を始めとして「〜なんて許せない」や「〜は決して許されない」や「〜は間違ってる」などがあり、言葉自体には何の建設的な意味もありませんが、それなりに利用価値はあるようです。
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 ただ可哀想なのは、負の感情を結集するという運動家のような目的を持ってるわけではないのに、素朴に「許さない」「許せない」などの感情を抱えてしまっている人。
 単に「嫌いだ」とか「不快だ」というだけならば、そう感じた瞬間にその不快感を受け止めれば良いだけで、違う場面になったときに切り替えてしまえば大した後腐れはありません。
 でも「許せない」という感情の持ち方は、不快だと思った現状が改善されない限りはくすぶり続けるという意味で、場面ごとに味わう単なる不快感よりもはるかに粘着質です。
 
 基本的には無意味な「許せない」の利用価値とは、その負の感情を原動力に不快な現状を変更する、自分一人では現状変更できないときに協力してくれる共感者を集めるために旗として使う、さもなくば「許せないよねー」と管を巻いて会話を楽しむ、といったくらいのもの。
 そのどれでもなく、発散に結び付かない「許せない」であれば、そのようにくすぶり続ける負の感情は持ち主を蝕んでいきます。
 具体的な発散行動に結び付けるかその場限りの単なる不快感と切り替えてしまうかどちらかの手段で、無意味な「許せない」のしつこい毒性を解消していきたいものですね。
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※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。