間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

育休議員不倫騒動から読み取る人権思想の演じ方

 宮崎謙介とは、2015年末から2016年にかけての3ヶ月間になにかと話題を集めた元国会委員です。
 Wikipediaにまとめられている彼についての話題を、一部抜粋して紹介してみましょう。
 
2015年5月19日、同じ自民党二階派所属議員である衆議院議員金子恵美との再婚を発表した。
再婚に先立ち、すでに妊娠している(いわゆる「できちゃった結婚」)と報じられた。
 
2015年12月23日、日枝神社で挙式し、都内のホテルで結婚披露宴を行った。
政治家の挙式・披露宴としては珍しくマスコミフルオープン(カメラ取材など全て自由)で行われた。
 
金子の出産を控えた2015年12月、宮崎は男性の育児休暇について、「休暇を取ることによって職場で冷遇されるのではないかということが障壁になっている中、国会議員が先例となって率先して育児に参加したい」として、国会開会中に一か月程度の育児休暇を取得する意向を示した。
 
これに対し、女性活躍を担当する加藤勝信一億総活躍担当大臣は、「男性の育児休暇を促していきたい中で、議員が率先してやっていくのは大事」と述べるとともに、現状、衆議院の規則では育児休暇の規定はないため、「民間の就業規則などとは違うので、どのように国会の制度に入れていくのか、国会で議論してほしい」、「国民から負託を受けた一票は大変重たいが、それをどう行使していくのかバランスの問題だ」との考えを示した。
 
また、宮崎は有志とともに、個人事業主など育休の取得が困難な労働者に対する法整備などを議論する勉強会を立ち上げた。
 
2016年2月、金子が出産(切迫早産)のため緊急入院していた1月30日から31日にかけて、宮崎が自身の選挙区にある京都市伏見区内の自宅マンションに女性タレントを招き入れ、ともに宿泊したと週刊文春(2016年2月18日号)に報じられた。
 
民主党安住淳は一連の報道に対し「(宮崎に)育児休暇を与える国会議員は1人もいないのではないか」「(育児休暇取得は)売名行為だったのではないか」と報道陣に答えた。
 
同年2月12日、宮崎は議員会館内で記者会見を行い、事実関係を認めた上で、議員辞職する意向を表明した。
不倫による議員辞職は憲政史上初めてのことであった。
 
 こうした事の顛末によって、2016年2月以降は「宮崎元議員の人格がどれほど下劣であるか」という点が、巷での話題の中心となっていきました。
 こんな下世話な話題なんかよりも「この不倫騒動のせいで育休の是非についての議論が吹き飛んでしまったこと」の方が大問題だと意見を表明しているのが、エッセイストの小田嶋隆です。
 彼は、日経ビジネスオンラインでの連載の中で以下のように論じています。
business.nikkeibp.co.jp
 
私が残念に思っているのは、 宮崎議員に不倫が発覚した瞬間に、育休の是非を問う議論そのものがまるごと無効化してしまったことだ。
 
個人的には、国会議員の育休に関しては、賛成する意見にも反対する意見にも、それぞれ、もっともな論拠があると思っている。
「一般企業の育休取得者への不当な風当たりを弱めるためにも、国会議員は率先して堂々と育休を取るべきだ」という意見にはなるほどその通りだと思わせる力があるし、「国会議員の重責を思えば、育休を取りたい気持ちは抑えて、国民に奉仕するべきだ」という見方にも、一定の説得力はある。
 
心情的にはともかく、 育休の是非とそれを申請する人間の品格の高低は、議論のスジとして、まったく別の話だ。
ここのところは切り分けて議論しなければいけない。
 
育休は、労働者の「権利」だ。
「権利」である以上、あらゆる労働者に保障されていなければならない。
逆に言えば、すべての人間に与えられているのでなければ、それは「権利」と呼ぶことはできない。
 
今回のケースは、「権利」ということについて、良くない誤解を与える結果をもたらしている。
すなわち「権利を行使するには、それなりの資格が必要だ」という誤った理解を世間に流布しているということだ。
ということになると、「育休」への理解は、むしろ後退する。
 
今回のすったもんだを通じて、「育休議員」がヘタを打って、「議員の育休」という問題提起自体が、思い出すのも恥ずかしいお笑い種になってしまったことは、返す返すも残念な展開だ。
おかげで、「育休」は、「すべての労働者に与えられた権利」であるという本来の意味を喪失して、「育休に値する労働者だけが育休を許される」という「条件給付」の地点に泥まみれで放置される結果となっている。
 
このままだと、「育休」は、労働者があらかじめ持っている「権利」ではなくて、雇用者からご褒美として給付される「温情」だという解釈が定着することになる。
というよりも、すでにそうなっているのかもしれない。
 
古い考えの政治家の中には、もともと「権利の取得は義務の遂行と引きかえに与えられるものだ」「権利と義務はバーターです」「権利だけを主張する人間は卑怯だ」「天賦人権説は人間を堕落させる」という考え方が、牢固として根を張っている。
 
彼らのアタマの中には、まず、国民としての義務があって、その義務を果たさない人間に、権利などあってたまるものかと思っている。
 
もしかしたら、「権利は義務とワンセットでしょ?」と思っている人間が多数派で、天賦人権説を教科書通りに信じている国民の方がむしろ少数派なのかもしれない。
 
育児休暇を、「それに値する人にだけ与えられる特権」ぐらいの位置にとどめておく方が、現場はうまく回るはずだと考えている労働者や経営者は、おそらく少なくない。
 
育休議員は、立派な人ではないのかもしれない。
が、育休は、立派な人でなくても、有用な労働者でなくても、同僚に好かれていなくても、子を持つ労働者のすべてが差別されることなく、堂々と、当然の権利として、申請・取得できるものでなければならない。
 
 ここで彼が指摘しているのは、日本における「権利」「人権」という概念の一般的な受け取られ方が、「すべての人間が生まれながらにしてもっているもの」という天賦人権説に全く則していないということ。
 「義務を果たしている者にしか権利は与えられない」という考え方は日本社会にしぶとく根付いている古臭い悪習だというのが、彼の基調路線でしょう。
 
 彼が論拠とする天賦人権説を推し進めている最大勢力は、2016年2月現在193ヶ国が加盟している国際連合
 「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」を第一条とした「世界人権宣言」を1948年に採択して以降、国連は人権規約が守られているかどうかを世界各地で監視し続けています。
 つまり、ことの順番を整理すると次のようになります。
 
近代以前の封建的な支配の現実への対抗手段として天賦人権説というフィクションが生まれ、この聞こえの良い大義名分を武器にのし上がった近代国家群が世界を席巻するようになった。
 
天賦人権説を尊重しているようにふるまわないと相手にしてもらえなくなるような圧力が欧米を中心に広がり、日本もその圧力に従って表向きは「天賦人権説を尊重する」という立場をとるようになった。
 
それによって「最低限の生存権が保障されている比較的マシな国だ」と見なされるようになってきた日本だが、女性の権利、子どもの権利、労働者の権利といった諸々の件で「まだまだ遅れている」とお叱りを受けることも多い。
 
日本においてリベラルと呼ばれる人々は、こうした国際的圧力を背景に「天賦人権説を蔑ろにするとは何事だ」といった綺麗事を恥ずかしげもなく口にする傾向がある。
 
保守と呼ばれる人々は「天賦人権説は近代における新たな支配体制のための建前に過ぎない」という本音ベースの共感力を武器に、日本が公式には天賦人権説を尊重する立場にあることを軽んじるような言動をとる傾向がある。
 
 このような文脈の中でリベラルの側に属する小田嶋隆は、宮崎元議員の人格にばかりフォーカスを当てて「育休なんて御大層な権利はふさわしい人にしか与える必要がない」という風になってしまいかねない世の論調に異を唱えました。
 日本という国家は国際社会の力関係の中で、このイデオロギーを「人類普遍の価値」ととらえて振る舞うことを選びとっています。
 ですから、日本国内で流布している「義務と権利はワンセットだ」という言い方が、日本が国際社会に約束している人権順守の概念から外れたものであり、約束した態度を演じ切れていない証拠になっているということだけは前提として知っておいた方が良いでしょう。
 
 人権は、生まれながらにして皆が持っているものなのか、その人の人格云々によって保障される度合いが変わるものなのか、そもそもどうでもいい作り話なのか、本当はどれが正しいということはありません。
 現実の力関係に応じて、皆が「どの立場を演じることにするのか」を選びとっているというだけなんです。
 
 
※毎週日曜日に更新している当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
mrbachikorn.hatenablog.com
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

 
※そうした知恵を実践している私なりの生き様をサンプルとして提供するために、こちらのブログで毎日更新しています。
mrbachikorn.hatenadiary.jp