間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

教師の仕事は生徒の力を伸ばすことではない

 「力を伸ばしてもらおう」と思って授業を受けるのと「ただ時間が過ぎるのを待とう」と思って授業を受けるのとではどちらがたちが悪いか。
 この問いに対する私の回答は、「力を伸ばしてもらおう」と思っている子の方が「自分の力が伸びるかどうか」を他人任せにしている分だけたちが悪いというものです。
 
 私が授業中に伝えている授業を受けるときの心得は「授業は自分の力を伸ばすためのネタ拾いの場」だということ。
 この背景には「そもそも実力とは自分で伸ばすものであって他人がどうこうできるものではない」という大前提があります。

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 教師の仕事とは生徒が拾えるようなネタを提供することに過ぎず、そのネタを活かして力を付けることができるのは当の本人だけです。
 仮に教師の側がどれだけ使えるネタを数多く用意したところで、実際にそれを使い続けるかどうかは生徒の側の問題ですから、生徒に力を付けてもらいたいと願うならば生徒自身が「授業で知ったネタを使ってみたい」と思えるような環境作りが必要となってきます。 
 
 この「学びの主体は生徒であって教師ではない」という原則を理解していない教師は、「自分が教えるのを頑張れば生徒の力も伸びていく」と勘違いして「教え込む時間」ばかりをイタズラに増やしがちです。
 ですが、教師が生徒に向けて何かを教え込んでいる間は、生徒の実力は全く伸びていません。
 もし生徒がその時間に学んだことをその場でやってみせることができたとしても、それは授業の内容を自分のものにしたわけではなく、ただ単にその場しのぎの教師の真似事ができただけに過ぎないかもしれないのです。
 
 新たな知識や技能が脳内に定着していくのは、情報を教え込まれているときではなく、得た情報を自分で使ってみているとき。
 つまり人の実力は、インプットの瞬間ではなく、アウトプットの瞬間に伸びていくのです。

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 「授業を受けるときの心得」として、私が唱える優劣を以下のように提示してみます。
 
「力を伸ばしてもらおう」<「ただ時間が過ぎるのを待とう」≦「自分の力を伸ばすためのネタを拾おう」
 
 この不等式において「ただ時間が過ぎるのを待とう」と「自分の力を伸ばすためのネタを拾おう」との間が「<」ではなく「≦」になっているのは、この二つの姿勢がどちらも同じ結果を招くこともあるから。
 もし仮に教師の授業の中身に生徒が得られるような「使えるネタ」が全く含まれていなければ、いくら生徒が「自分の力を伸ばすためのネタを拾おう」と思ったところで「ただ時間が過ぎるのを待とう」と思ったときと同じ結果にしかならないのです。
 
 ですから私は常に、生徒たちに「授業中の内職」をお勧めしています。
 なぜなら、多数の生徒を同時に相手しなければならない一斉授業では、個々の生徒の理解度が全く異なるから。
 自分がすでに分かりきっていることを教師が改めて説明している場合、必要のないインプットにいちいち付き合ってあげる必要はないから、自分にとって必要なアウトプットを優先していいと伝えます。
 
 例えば、「三角関数の方程式」と「三角関数の合成」の両方を理解していないと解けないような応用問題を解説する際に、その両方を忘れている生徒が半数以上いる場合は一旦さかのぼっておさらいすることがあります。
 そのとき私がクラス全体に向けて行うおさらい授業は以前に一度やってしまった内容ですから、ちゃんとアウトプットを重ねて習得してしまった生徒にとっては「不必要なインプットの時間」になります。
 そういったとき、私は「次の小テストに出す問題集の範囲」などを先に知らせておいた上で、「両方とも分かりきっている人は問題集を解き進めていい」などと伝えることにしています。
 
 生徒が力を伸ばすのに必要なのは、生徒自身のアウトプットです。
 教師がする「分かりきっている話」を生徒が聞く時間なんてものは、生徒から教師への単なる接待タイム。
 この種の「授業中の内職」を生徒に許すことができない教師は、生徒にとって必要なアウトプットよりも、自分が話を聴いてもらって気分が良くなることを優先しているに過ぎません。
 
 こうした「生徒から自分への接待」を強要してしまえる教師の言い分が、「生徒の力を伸ばすのが教師の仕事だ」というものです。
 「生徒の力を伸ばすためには教師からのインプットが必要であり、その機会が授業なのだから生徒は教師の話を聴くべきだ」という傲慢によって接待の強要が横行してしまうのです。
 
 「生徒をやる気にさせるのも教師の仕事だ」という言い方もありますが、これもまた「他人の感情のあり方は支配してしまえる」と思い上がった者特有の傲慢な発言です。
 人の感情の動きの「傾向」を推測して、やる気になる「可能性が高い」状況を整える努力は教師にとって重要ですが、その環境に置かれて何を感じるかはあくまでも生徒次第ですから、教師の側が語れるのは「曖昧な確率」レベルの話に過ぎません。
 
 教師の仕事とは、できるだけ多くの生徒が力を伸ばしやすいような「環境」に徹することであって、「生徒の力を伸ばすこと」そのものではありません。
 この「生徒の力を伸ばすのは生徒自身だ」という原則は、教師と生徒の双方が大前提として胸に刻んでおいた方がいいでしょうね。 
 

   

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。 mrbachikorn.hatenablog.com mrbachikorn.hatenablog.com

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。