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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

死なないための損得勘定によって「真理」は造られた

◆乱暴な○×ゲーム 子育て・教育の問題点 宗教と向き合う 楽しく生きる知恵 言語の存在意義

 この世界において「生き延びたい」という都合を持った参加者がまず考えることは、「死なないためにはどうすれば良いか」という損得勘定です。
 暖をとること・食べること・寝ることの3つに関しては、生き延びるためにどうにかして満たさないといけないでしょう。
 そして次に考えることは「殺されないこと」です。
 
 最初に述べた3つの条件は参加者全員の都合ですが、これらの都合を満たすための衣食住に関する資源はその絶対量が限られていますから、全ての参加者がこれらの資源を上手く獲得できるとは限りません。
 そこには、資源を得られた者と得られなかった者との差が生まれます。
 自力で「生きるための資源」を得られなかった者も「生き延びたい」という自分の都合を放棄して死んでしまうわけにはいきませんから、資源に恵まれなかった人々は歴史的に「得た者から奪う」という手段を行使してきました。
 
 人の得たものを奪う手段として最も原始的なものは「暴力」です。
 この生き残りゲームの参加者が一人減ればその分の資源は他の参加者に回ってくるのだから、最も効果的に自分の都合を満たすには相手を殺してしまうのが一番です。
 つまり、最初の3条件を自分が上手く満たせたとしても、他の参加者の「暴力」から自分の身を守らなければ「生き延びたい」という自分の都合を満足させることができないということです。
 
 自分を殺そうとしてくるものから身を守るために、まず考えられる手段が逃げることです。
 しかしこの場合、自分がせっかく確保した「生きるための資源」は相手に奪われてしまうことになります。
 自分の資源を守って生き延びるためにの一番単純な方法が、こちらも「暴力」で対抗することです。
 
 幸運にも自分の戦力が相手の戦力を上回っていれば、無事に身を守ることができるでしょう。
 相手のほうが強い場合には、自分の戦力を高めるという手段が考えられます。
 肉体を鍛える、武器を使う、より強力な武器を開発する、武器や肉体の操作法を高める、などが挙げられるでしょう。
 しかし運よく死なずにすんだとしても、大きく傷ついてしまえばその後を生き延びる可能性が低くなります。
 
 そこで、傷つかずに相手の「暴力」から身を守るために、こちら側の「暴力」を背景に威嚇して相手をけん制するという方法があります。
 傷つくのを恐れるのは相手側も同じ。
 相手にとって一番望ましいのはこちらが何の抵抗もせずに殺されてくれることですから、こちら側も「やられたらやり返すぞ」という姿勢を見せていれば相手も容易に仕掛けてはこれません。
 こうしてお互いが「やりあわないほうが得策だ」という結論に達すれば、その損得勘定により無駄な衝突を避けることができます。
 
 また、こちら側に威嚇の裏づけとなる戦力がない場合には「魅力」というより高度な戦略が有効になります。
 この「魅力」というのは、こちらの都合をそれほど損なわない範囲で相手の都合を上手く満たしてやることで、相手が自発的に自分の都合のいいように動いてくれるよう仕向ける力のことです。
 「魅力」の代表的なものとしては、食べ物を与えて食欲を満たす、体を与えて性欲を満たす、仲良くなって親和・承認の欲求を満たす、などが考えられるでしょう。
 
 そしてこの「魅力」と「暴力」を組み合わせた「権力」という応用形があります。
 複数の参加者が集まったとき、それぞれの参加者が「個人vs個人」の枠で争うよりも集団で手を組んだほうがメリットが多いという損得勘定がなされれば、そこに資源を共有し合う集団が出来上がります。
 資源の獲得競争において敵対関係にあった隣人と手を結ぶことができれば、隣人の「暴力」からの被害が軽減され「生き延びたい」という自分の都合にとってのリスクを低く抑えることができます。
 
 また、隣人と手を結ぶことによって「眠たい」「食べたい」「子孫を残したい」という生存欲求をより安定的に満たすことができますし、親和の欲求・承認の欲求を満たすことも可能になります。
 これらのメリットこそが集団を形成する際の動機となる「魅力」です。
 
 これらのメリットは集団を維持しようというメンバーの合意の上でしか享受できませんから、集団に害をなそうとする者は駆逐せねばなりません。
 そこで「暴力」という要素が必要になってきます。
 警察のような「暴力」で威嚇しておくことで、「集団に逆らうとひどい目にあう」という損得勘定を植えつけておく必要があるのです。
 
 このような「魅力」と「暴力」のコンビネーションによって「権力」は出来上がるわけですが、「権力」を構築するにあたって「魅力」となる要素が少ない場合、メンバーは「暴力」を恐れてしぶしぶ集団に従うだけになります。
 こうなるとメンバーは集団に対して積極的に奉仕しようと気になりませんし、集団全体で得られるメリットも小さくなり、集団を形成していたそもそもの動機が揺らいでいきます。
 「こんな集団ぶっ壊してしまえ」という反乱分子の勢力が統治する側の力を超えてしまえば集団は崩壊してしまいます。
 
 それを防ぐにはどうにかして集団全体のメリットを増やす必要があります。
 集団全体で得られるメリットを増やすためには、メンバーを積極的に集団に奉仕させなければなりません。
 そのためには「権力」における「魅力」の割合を高めるしかありませんが、「魅力」を高めるためには集団全体でのメリットを増やす必要があり、話は元に戻ってしまいます。
 
メンバーが消極的→集団全体のメリットが少ない→メンバーにとって「魅力」が足りない→メンバーが消極的→集団全体のメリットが少ない→メンバーにとって「魅力」が足りない→・・・
 
 この不幸な循環とは別に、以下のような幸福な循環も可能性として考えられます。
 
 メンバーが積極的→集団全体のメリットが多い→メンバーにとって「魅力」がたっぷり→メンバーが積極的→集団全体のメリットが多い→メンバーにとって「魅力」がたっぷり→・・・
 
 不幸な循環から幸福な循環へとチェンジするためには、メンバーが「とにかく積極的に集団に奉仕してみよう」と思い直さないことには始まりません。
 このような損得勘定をメンバー全員が共有できれば、皆で幸せな螺旋階段を上っていける見込みが出てくるわけです。
 
 では、メンバーがこれらの損得勘定を理解できない場合はどうしたらよいでしょうか。
 それには参加者の「損得勘定の能力」を高めるしかありません。
 そこで活躍するのが言葉です。
 今ここで実物としての「魅力」を見せなくても、先々のビジョンを言葉によって形作ることで相手にその「魅力」を伝えることができるのです。
 
 これを「説得力」と名づけることにします。
 つまり「説得力」というのは、言葉を利用する者の間で発揮される影響力であり、人間という動物の個性を上手く生かした生存戦略の一つなのです。

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 しかし、相手の損得勘定の能力が期待したほど上がらず、集団に積極的に奉仕することのメリットが伝えられない場合はどうしたらいいでしょうか。
 ここで登場する飛び道具が「正しさ」という○×ゲームです。

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 集団全体の都合に合わせてメンバーを動かそうと思ったら、「人間は他の動物よりも上等な生物だから正しい道を選択することができる」などとそそのかした上で「集団に奉仕するのが正しい姿だ」という戒律を教え込めばよいのです。
 相手の理解能力が低い場合、複雑な現実世界の損得勘定を丁寧に説くよりも、話を単純な○×ゲームに置き換えて簡単にしたほうが「説得力」が増します。
 もしこれが成功すれば、メンバーたちは自発的に集団に奉仕してくれるはずです。

 では現実はどうなっているでしょうか。
 今現在、現実世界の参加者の大多数が集団に自発的に奉仕しているとは思えません。
 「正しさを求めよう」というアイデア自体は世界中に広まっているでしょうが、「何が正しいのか」という戒律に関しては人によっててんでばらばらです。
 
 そのおかげで「何が正しいのか分からない」と疑問を抱く人がいるばかりか、「真理なんてどこにもないじゃないか!」と不審を抱く人まで現れる始末です。
 「正しさ」という作り話は、人間に数多くの賄賂を渡すことで「正しさを求めよう」という動機の普及にはほとんど成功しましたが、「何が正しいことか」という戒律の内容についてはまるで合意が得られなかったというわけです。

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 「正しさ」の熱心な信者には、「本当に正しいと言える真理は1つしかないのだから、いつかその真理が見つかってそれが真理であることが疑いようのないほど説明されてしまえば、誰もがその真理に従うだろう。だから真理を求め続けよう。」という人もいるでしょう。
 この考え方の根本には「世界のルールは真理であり、現実世界での力関係や参加者たちの都合はその真理の法則にのっとっているはずである」という信仰があります。
 私はこういった考え方を「真理教」と名付けています。

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 私は、現実世界には参加者たちの都合やそれらの間の力関係があるだけで、真理というのはその「都合と力」の調合で編み出された概念でしかないと考えています。
 つまり、この世界の土台として真理があるのではなく、個々の参加者の好みを反映した都合や力の結果として真理という考え方が生まれただけという「好き嫌い教」とも呼べる信念を持っています。
 「正しさ」という「神様のものさし」は各々の勝手な都合で量産可能ですから、「お前の使ってるものさしは俺の使ってるものさしと違うから、お前の言っている真理は認められない」という事態がいくらでも出てきます。

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 そしてこの真理教には危ういところがあります。
 「神のものさし」とは、人が自分の都合で勝手に雇ったレフリーのことです。
 このレフリーを上手く使えば、他人の行動を抑止したり助長したりすることができます。
 
 つまり、「気に食わないやつらをぶっ殺してやりたい」という人がこのレフリーを使って上手く人を操った場合、「(真理の名において)やつらを殺さなければならない」という信念を持った人が生まれうるのです。
 相手が自覚的な損得勘定で暴力を用いる人ならば、こちら側も都合や力に訴えて説得を試みることができますが、真理教において真理は都合や力に優先するのだから、暴力以外の魅力や権力や説得力で彼らを止めるのはかなり難しくなります。
 
 これは私のような「好き嫌い教」の視点から見れば非常に馬鹿馬鹿しいことです。
 そもそも「生きるためには、死なないためにはどうすればいいか」という損得勘定が複雑になってその成果として発明されたはずの真理教が、自分たちの生命を脅かすかもしれない人々にも強大な力を与えているのですから。
 
 また、この真理教は自殺の手助けをすることもあります。
 「これが私の生きる価値だ」という動かぬ真理を支えとして生きていこうという欲望を抱かされてしまった人にとって、「真理がどこにも見当たらない」という状況は「生きていることに価値はない」と結論付けるに十分な「説得力」を持ってしまっています。
 「生き延びたい」という自分の都合よりも観念的な正しさのほうが優先されると信じていたいなら、その人は自殺という選択肢を選ぶしかないでしょう。
 
 また、何が正しいのか分からなくて自暴自棄になってしまった人が無差別殺人に走るなんていうのもよくある話です。
 真理教の原理をとことん追求していけば、このような暴走の危険性があるのです。
 
 もし私が人を殺さないように説得するなら、「神のものさし」なんて身の丈に合わない道具には頼らずに等身大の自分の言葉で「説得力」を得たいと考えていました。
 そして「人を殺してはいけない」という言い方の代わりに、こんな言い回しを考えたこともあります。
 
「人殺しをしようとするのは勝手だけどそれを周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手、法治国家において一個人はしないほうが身のためだと思うし、俺もして欲しくないと思ってるよ」

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 解説をすると、まず「人殺しをしようとするのは勝手だけどそれを周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手」と言うことで、「人殺しをするのは俺の勝手だろ!」という相手の主張に一度理解を示した上で、その先に続くであろう「だから俺の勝手にさせてくれ!」という言い分に「君と同じように周りの人にも都合があるわけで、周りの人が何をしようがそれぞれの勝手だよね」と同意を求めます。
 そして「後は君の都合と周りの都合のどっちが叶うかという力比べになるわけだけど、もし人殺しによって君の都合が短期的に満たされたとしても、法や警察や世間の声が強力に機能しているこの国においてその後の人生を満足に送れる見込みはかなり低いよ」という現実の力関係について予想を述べて損得勘定に訴えています。
 最後に「俺もして欲しくない」と言うことで、「俺はこれからも君と仲良くしていきたいし、君にひどい目にもあってほしくないし、人殺し自体もしてほしくない」という自分の都合を理解してもらいます。
 
 相手の都合にとって私の都合が重要な要素になっていればこちらの都合も考慮に入れてくれるかもしれませんし、最初の「周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手」という前置きと組み合わせれば「場合によっては私自身が力ずくで君をとめようとするかもしれないよ」という可能性も示唆しているわけです。
 こんな説得で相手の心が変わるかどうかは分かりませんが、そもそも私は「相手の心をすっかり変えてしまおう」なんてことが可能だとは思っていません。

 というか、そんなことが可能だと思った時点で、他人の都合に対する節度なんか全くわきまえていないわけです。
 そんな身の程知らずから「君はそんなことをするべきではない、人として間違ってる!」なんて説得をされたら、相手から「何様のつもり?」という反感を買うかもしれません。
 
 単純な相手を洗脳するには真理教的な手段のほうが手っ取り早いでしょうが、自分の雇っているレフリーと相手の雇っているレフリーが敵対関係にあるときのリスクも大きいでしょう。
 私には自分の力の及ぶ範囲のことしかできませんから、説得においても自分勝手なレフリーは雇わずに自分の身の丈に合った言葉を使おうとするし、それが無理なら言葉以外のもっと現実的な手段(魅力・権力・暴力など)を使ってとめようとすると思います。

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 真理教にない好き嫌い教のメリットは、「***が真理である」というきっぱりとした主張には意見が人それぞれ分かれるけど、「世の中には都合もあるし力もある」という漠然とした広範囲の主張に対して「世の中には都合も力も存在しない!」ときっぱり言い返せる人はほとんどいないという点です。
 ですから、「自分が認めていないことを勝手に前提にしやがって!」という相手側の反発も起こりにくいわけで、「同意してもらえるかは分からないけどできればこちらの言い分も理解してほしい」というこちら側の節度を相手への「説得力」に変えることもできるわけです。
 
 私にとって説得とは、「こちら側から現状の力関係についての見方を提示して相手の都合に叶う他の損得勘定の可能性を考えてもらうこと」なのです。
 まあ、「都合も力も関係ない!正当性さえあれば十分だ!」という真理教原理主義者には全く通じないでしょうが・・・。
 
 また好き嫌い教の考え方は、他人からとやかく口出しをされる際にも役に立ちます。
 相手が自分に対して何を言ったとしても、それは真理などではなくただの好き嫌いの表明なのです。
 「お前は間違っている!」なんていうのは「お前は嫌いだ!」「その言い分は気に食わない!」としか解釈しないので、「嫌いなのはお互い様だしね」とか「君とは好みが合わないみたいだね」と思うくらいで、「私は本当に間違っているのだろうか・・・」と真剣に悩むことはありません。

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 もし相手に嫌われたくなかったとしても、考えるのは「嫌われないためにどう対応するか」という現実的な問題であって「私は本当に間違っているか」のような内面的な問題ではありません。
 もちろん内面的な問題ではないからといって、その人の意見を完全に無視してしまうわけではありません。
 
 好き嫌い教において、現実世界の力関係はそれぞれの人の都合と密接に繋がっていますから、「お前は間違っている!」と言っている相手の都合がその後私にどう影響してくるかは重要な問題です。
 私にとって不都合な影響があるなら、それには現実的なレベルで対応しないといけません。
 つまり、人の意見というのは「いちいち真に受けることはないが現実世界の判断材料としては考慮に入れる」くらいの態度で聞いていればいいのです。

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 そのようにして好き嫌い教のものの見方で世の中を考えていくと、「常識」という言葉の意味も自分なりに納得がいくようになりました。
 真理教の主張の仕方において「***なのは常識だ」と主張したとしても、それは「そういうことにして優越感を得たい」とか「そういうことにして相手の行動を左右したい」という発言者の都合によって雇われたレフリーでしかありません。

 ですから、真理教の枠の中で「これこれが常識である」と断定的に定義づけようとしても、そんなものは人の都合によってころころ変わるのだから上手くいくはずがありません。

 

 しかし好き嫌い教において、「常識」のことは「世の中の都合と力のバランスについての理解」という風にすっきり定義できます。
 つまり「常識のない人」というのは、世の中の都合と力のバランスが読めずに自分の都合だけをピーピー主張する人のことなのです。

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 このように、真理教の言葉で表現された世の中の事柄を、好き嫌い教における都合と力の関係に読み替えていくという作業は、私なりのすっきりとした世界観を形成するのに役立ちました。
 これまで説明してきた関係をまとめてみると次のように表せます。
 
暴力=相手の都合に合わない自分の都合を押し通す力
  
魅力=相手が自発的に自分の都合のいいように動いてくれるよう仕向ける力
 
権力=暴力と魅力のあわせ技
 
説得力=言葉を用いることで複雑化された暴力や魅力のこと
 
常識=世の中の都合と力のバランスについての理解
 
 これらの言葉を使うなら、真理教とは「魅力的な説得力と暴力的な説得力を併せ持った巨大な権力」ということになります。
 この巨大な権力は多くの人の都合を満たすことができますが、多くの人の都合を踏みにじる諸刃の剣でもあります。

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 私は真理教の持つこの極端さへの不信感から、大学生のころに好き嫌い教へと宗旨替えしました。
 好き嫌い教には真理教のような過剰なメリットは存在しませんが、その分過激なデメリットも抑えられています。
 私は「これが正しい」「こうあるべきだ」「これが真理だ」なんて危険な権力には頼らずに、都合と力しか使わないというマナーを採用することで、自分の身の丈にあった説得力を鍛えていきたいと思ったのです。

 

 人間を他の野蛮な動物と区別するための基準として「正しさ」というドグマを刷り込んでいく真理教と、ただ単に動物としての「都合と力の関係」に真摯に向き合う好き嫌い教。
 あなたはどちらに説得力を感じますか。

「好きなこと」だけして生きていく。

「好きなこと」だけして生きていく。

 

  
 
※毎週日曜日に更新している当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
mrbachikorn.hatenablog.com
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。
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※そうした知恵を実践している私なりの生き様をサンプルとして提供するために、こちらのブログも毎日更新しています。
mrbachikorn.hatenadiary.jp