間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

動物としての身の程をわきまえよう

 「こうあるべき」とか「正しいかどうか」という価値判断のあり方は、他の動物には見られない人間固有の奇習。
 自分なりの生き方を考え抜いていた学生時代、私は世の中と上手く付き合っていくためにはこうした「真理教」とも呼べる独特の宗教の仕組みを解明することが必要だと考えていました。

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 そして、考えば考えるほど「価値判断というのは全て人の勝手な都合によって雇われたレフリーである」という仮説が私の中で有力になっていきました。
 この「人の勝手な都合」については、3つの側面に分けて考えることができます。

 

 まずは「世の中との付き合い方」に関する都合です。
 「この世の中を生きていく際に、どのような選択をしていけばよいか」という問題がありますが、この問いに対して真理教は便利な解答を示してくれます。
 まず大まかな方針としては「こうあるべき」とされている生き方を選択すればよく、迷ったときには「正しい」とされていることを選べばよく、そのようなやりかたが「真理」として保証されているのです。
 自分の頭で考えるのが面倒なマニュアル人間にとっては、まさにうってつけの考え方と言えるでしょう。
 
 次に「人との付き合い方」に関する都合です。
 真理教の信者にとっては、「こうあるべき」「これが正しい」と言えるものが行動の原理です。
 このような信者を「自分の都合」の通りに動かそうと思ったら、どのような戦略をとればよいでしょうか。
 これも簡単なことで、やらせたいと思うことがあれば「こうあるべき」「これが正しい」と言って助長すればよく、やらせたくないと思うことがあれば「そうあってはならない」「それは間違っている」と言って抑止すればよいのです。
 人の行動を思うままに操りたいと望む人にとっては、なかなか効果的な戦略と言えるでしょう。
 
 そして最後は「自分との付き合い方」に関する都合です。
 真理教の信者にとって、「こうあるべき」「これが正しい」「これが真理だ」というのは自分に確固たる信念をもたらしてくれる精神安定剤です。
 本気でそう思い込むことができれば、自分の立っている土台はどんなことがあっても揺らぐことのない頑丈なものだとずっと信じていられます。
 しっかりとした土台がなければ自分に自信が持てないという方にとっては、すがりつくしかない救いとも言えるでしょう。
 
 これだけいろいろとメリットのある真理教ですが、これらの恩恵を受けるには「人の勝手な都合によって作られた」という出自をオブラートに包んでしまわないといけません。
 なぜって真理教の教えでは、真理とは「人の都合を超えた絶対的な権威」として説明されているからです。

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 この考え方こそが真理教の生命線ですから、この根本を危うくするような考え方は何としても駆逐せねばなりません。
 そこで真理教が用いた戦略の一つが「人間は他の動物よりも上等な生物である」という人間たちへのご機嫌取りです。
 
 人間固有の価値判断に対する私の評価は「人の勝手な都合によって雇われたレフリー」ですが、真理教においては「人間が他の動物よりも優れている証拠」として解釈されます。
 人間は動物にはない理性を持っており、その理性によってこれらの価値判断が生じている、よってこれらの価値判断に従って「あるべき姿」「正しい道」を選択しようとする性質が優れた動物としての証拠である、というわけです。
 この「人間は他の動物よりも上等な生物である」という人間にとって好ましい結論は真理教という宗教を受け入れないと得られない恩恵ですから、人間側もこの真理教を積極的に取り入れようとします。
 
 つまり、「人間は他の動物よりも上等な生物である」という考え方は、真理教が人間にプレゼントした数多くの賄賂のうちの1つなのです。
 しかもこの賄賂を受け取らない者に対しては、「あいつは動物と同レベルの下等な人間だ」という報復措置まで用意してあります。
 この賄賂は私の目に、人間にはびこった巨大な癌のように映りました。

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 もともとどんな動物だって他の種類の動物とは違っており、他の動物と違うのは人間だけではありません。
 私にとっては「人間は動物の一種でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない」という、人間を特別視しないとらえ方のほうが説得力を持っていました。

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 しかし、「人間は他の動物とは違う」という意見は昔からあります。
 霊長類なんてネーミングも「人間は万物の霊長であり地球上で最も優れた生物である」なんて思想から来ているわけだし、「理性と本能」という分類も「人間は動物と同じではない」と主張するための根拠として用いられるわけです。

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 それでも私は「人間と他の動物との違いなんて種としての個性でしかない」という風に言ってしまいたくなります。
 「脳が発達していて道具や言葉や概念を扱える」というのは、「翼を持っていて空を飛べる」というのと同じように、動物としての個性の範疇に収まるものではないでしょうか。

“人間も動物
 

 
 私は「なぜそれだけじゃ気が済まないのか」という頑迷なこだわりのほうに目を向けたくなります。
 それは、「人間はほかの動物よりも格上だ」と思ったほうが単純に気持ちいいからじゃないでしょうか。
 この予想に従えば、「理性と本能」の分類を根拠に「人間は動物と同じではない」と主張する人は、動物的な本能を見下しておきながらやっていることは気持ちよさの追求でしかないのです。
 
 これには「たとえ気持ちよさの追求だとしても、人間と動物では欲望の対象となるものが違う」という反論があるかもしれません。
 この言い分については「マズロー欲求段階説」を参考にしながら検討してみましょう。
 この説は「人間の欲求は5段階のピラミッドのようになっていて、欲求は底辺から始まり、下の段階の欲求が満たされると、もう1段上の欲求を目指すようになる」というもので、欲求の5段階のピラミッドとは以下の通りです。
  
①生理的欲求
「眠たい」「食べたい」「性交したい」
 
②安全の欲求
「死にたくない」「身を守りたい」「安心したい」
 
③親和の欲求
「他人と関りたい」「他者と同じようにしたい」「集団に帰属したい」
 
④承認の欲求
「認めてもらいたい」「尊敬されたい」
 
自己実現の欲求
「自分の能力を発揮したい」「成長したい」「自分だけの生き方をしたい」
 
 「人間は動物と同じではない」と主張したがる人は、「下等な動物は低い段階の欲求しか持っておらず、高い段階の欲求を持っている動物こそ高等なものである」という方便を使って「人間が一番高等な動物である」という結論に結び付けます。
 そして、より低い段階での欲求を優先して満たそうとする性質を「本能」と呼び、より高い段階での欲求を優先して満たそうとする性質を「理性」と呼ぶことにして、「人間には他の動物にはない理性がある」という理屈で人間と動物との差別化を図ろうとするのです。
 しかし、それでも私は「人間と動物の行動の原理に大した差はない」と言いたくなります。
 
自分の都合を満たすために「自分にできる限り」の損得勘定をした上で行動する
 
 これが人間にも動物にも共通している行動原理として、私がそれらしいと思えるものです。
 こう言うと「利他的な行動もあるので、自分勝手な都合とは関係ない行動原理もある!」という反論が一応浮かびますが、「利他的な行動をしたい」という欲求も含めて私は「自分の都合」と呼びたいと思います。
 また、「動物は損得勘定なんかしない!」という反論も考えられますが、ここでは「腹が減っていて目の前には食べ物があるけど、危ないものを食べて体を壊すのは避けたいから、匂いをかいでチェックしてから食べる」という動物の行動も、立派な損得勘定によるものだとみなします。
 そして人間は「たまたま個性として脳が発達している」ため、自分の都合を満たそうとする際の損得勘定を他の動物よりも複雑に行うことができるというだけなのです。
 
 また、脳が発達していて概念というものを手に入れているために、損得勘定の出発点となる「自分の都合」自体も複雑になっています。
 「人間には他の動物にはない理性がある」という人に対しては、「理性と本能は対立する概念ではなく、ただ損得勘定の複雑さが違うというだけだろう?根本となる行動原理は一緒じゃないか」という反論を返します。
 損得勘定における「自分にできる限り」の範囲が他の動物より広いというだけで、それは人間の持つ「動物としての個性」に過ぎないのです。
 
 私がここで批判したかったのは「脳みそ至上主義」とでも呼べるものです。
 「脳みそが発達していたら動物として格上だと言える」というのは、「脳みそが発達しているかどうか」というレフリーを勝手に雇ってジャッジしているということです。
 
 脳みそが発達している人間が「脳みそが発達しているかどうか」を基準に「どんな動物が高等であるか」を格付けをするのだから、「人間が一番高等な動物である」という結論が出るのは当たり前です。
 このルールを採用したことで敗者となってしまう他の動物は人間サイドでどんなゲームが行われているかを知ることができませんから、知りもしないゲームのルールに反論するなんて思いつくわけがないのです。
 
 もし仮に他の動物がこの「どの動物が格上かゲーム」をしたらどうなるでしょうか。
 人間が「脳みそが発達しているか」をルールとして勝手に採用するのなら、鳥だって「空を飛べるか」というレフリーを雇ってもいいはずです。
 そうすれば鳥たちは、飛べない動物たちを見て「地を這いつくばっている下等生物ども」と思うことができるでしょう。
 たとえ人間たちが飛行機を発明して自分たちの領域に踏み込んできたとしても、「道具なんか使わずに生身の力で成し遂げるのが良いことだ」というレフリーを雇えば、「卑怯な手段を使う下賎な動物ども」と言うことができます。
 
 つまり「人間は動物と同じではない」という主張は、この鳥たちの主張と同じ構造を持っているということです。
 レフリーの雇い方によってはどんな動物だって格上に設定できるわけで、別に人間だけが特別なわけではありません。

 私はこのような理由で「人間を高く位置づけようとするこだわり」に強い違和感を抱きました。
 そして「人間は動物と同じではない」と主張するために雇われたレフリーたちにはいかなる説得力も感じなくなりました。
 
 そのレフリーたちとは、是非・善悪・義務と権利・倫理観・「こうあるべき」・審美観・「***は+++より素晴らしい、格上だ」というような価値判断の全て・などなどです。
 これらのレフリーたちは、個人個人の都合やその場の力関係によって採用されたり無視されたりする場当たり的な概念でしかありません。
 
 そこにあるのは、「自分の都合を満たすためにはどんな力を使えば良いか」という弱肉強食の世界における損得勘定です。
 つまりこの「人間を高く位置づけようとするこだわり」は、動物的な弱肉強食の世界観の手のひらの上で転がされているわけです。
 
 そう考えた私は、価値にかかわるあらゆる概念を「人間社会を優位に生き抜くための方便に過ぎない」とみなして却下し、世の中を観察するためには「都合」と「力」という動物の世界のルールしか活用しないことにしました。

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 それは、「動物としての身の程をわきまえよう」という決意だったのです。

 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

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