間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

学びとは変態することである

 昨日、阪急電車の中で一風変わった広告を見付けました。
 さわやかな笑顔の男女の額に、奇妙な丸い印が付いてるんです。
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 近寄ってよく見てみると、男性の額にあるのは録画マーク、女性の額にあるのは再生マークでした。
 そして、録画マークの男性の下に「学んだ知識を」と、再生マークの女性の下には「生きる力へ」といったコピーが書いてありました。
 
 これはつまり、知識を吸収する様をビデオや動画の録画に、吸収した知識を実生活に活かす様を再生に喩えているんでしょう。
 ポスターの意図をこのように理解したとき、私の脳裏には時流に乗った小粋な演出を思い付いた気になって得意気にプレゼンをする広告代理店の姿が浮かびました。
 そして、遠目には男女の額が不自然にテカっているようにしか見えないこのポスターが実際に電車に掲示されてしまうのを、食い止められる人はいなかったんだなと少し残念な気持ちになりました。
 
 さらに気になったのは、学びというものを「録画と再生」のモデルで捉える人は世の中にどのくらいいるのだろうかということ。
 この「録画と再生」のモデルから連想できる広告代理店の学習観が、私にはとても薄っぺらいものに思えたのです。
 
 確かに「覚えた知識を引き出す」という場面だけを見れば、録画したものを再生しているように見えるかもしれません。
 ですが、学習の効果とは単に「覚えた知識を引き出せる」ということには収まりません。
 学習する前と後とで学習者自身が別人になってしまえるという点こそが学習の醍醐味だと、私は考えています。