間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

ほめるのもほめないのも叱るのも叱らないのも正しくはない

 世間に誤解されたまま受け止められがちだったアドラーの心理学の肝であるその哲学を、対話形式で分かりやすく紹介することに成功したのが『嫌われる勇気』です。
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 その続編『幸せになる勇気』は、アドラー心理学の理念に従って「ほめも叱りもしない教育」を実践して挫折した中学教師が「教育の現場ではアドラーの教えは役に立たない」とクレームをつけ、それに対して哲学者が反論するという形式で綴られています。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII


 
 最初から「叱らない」と決めていたために舐められて生徒の問題行動がやまなくなったと考えている中学教師は、たとえ嫌われようとも間違ったことを正すには叱らなければならないと考えなおすようになり、叱らないことを是とするアドラーの教えは地に足の着かない理想論だと否定します。
 これに対し、哲学者はまず暴力という手段の未熟さを説き、叱るという行為も幼稚な暴力的手段に過ぎないことを以下のように語ります。
 
言語によるコミュニケーションは、合意に至るまでに相当な時間を要し、労力を要します。
自分勝手な要求は通らず、客観的データなど、説得材料を揃える必要も出てくる。
しかも、費やされるコストの割に、即効性と確実性はあまりにも乏しい。
 
そこで議論にうんざりした人、また議論では勝ち目がないと思った人がどうするか。
わかりますか?
彼らが最後に選択するコミュニケーション手段、それが暴力です。
 
暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。
もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。
暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。
これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません。
 
われわれ人間は、未熟な状態から成長していかなければならない、という原点に立ち返るのです。
暴力という未熟なコミュニケーションに頼ってはいけない。
もっと別のコミュニケーションを模索しなければならない。
 
暴力の「原因」として挙げられる、相手がなにを言ったとか、どんな挑発的態度をとったとか、そんなことは関係ありません。
暴力の「目的」はひとつなのですし、考えるべきは「これからどうするか」なのです。
 
誰かと議論をしていて、雲行きが怪しくなってくる。
劣勢に立たされる。
あるいは議論の最初から、自らの主張が合理性を欠くことを自覚している。
 
このようなとき、暴力とまではいかなくとも、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする人がいます。
これらの行為もまた、コストの低い「暴力的」なコミュニケーションだと考えねばなりません。
……わたしがなにを言わんとしているのか、おわかりですね?
 
あなたは、生徒たちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。
怒りを武器に、罵倒という名の銃を構え、権威の刃を突きつけて。
それは教育者として未熟な、また愚かな態度なのです。
 
 これに対し、中学教師の方は「わたしは怒っているのではない、叱っているのです!」と言い返します。
 ですが哲学者は、このありがちな言い分を認めずにこう続けます。
 
そう弁明する大人は大勢います。
しかし、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実には、なんら変わりがありません。
むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。
 
叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。
このことは、子どもたちも十分に理解しています。
叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうち働きます。
 
これは、大人たちが思っている以上に大きな問題です。
あなたは未熟な人間を、「尊敬」することができますか?
あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか?
 
怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。
それどころか軽蔑を招く。
叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。
 
 この哲学者は、叱るのは子どもに対する暴力だからやってはいけないと、道徳的観点から「叱る教育」を否定しているわけではありません。
 叱るという威圧行為によって、言葉を尽くして接することができないという人としての未熟さがバレてしまい「教育者自身の説得力」がその人への敬意とともに損なわれてしまうと、純粋に教育的効果の観点から否定しているのです。
 
 さらに哲学者は「ほめて伸ばす」という教育手法も人の承認欲求につけこんで自立を妨げるものとして否定します。
 教育の現場で「ほめられてやる気を出す子」の存在を身近に感じている中学教師に対し、哲学者は次のように語りかけます。
 
他者からほめられ、承認されること。
これによって、つかの間の「価値」を実感することはあるでしょう。
しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものにすぎません。
他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形と変わらないのです。
 
ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。
その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。
 
 このように、教育の現場において「叱る」「ほめる」という手軽な手段を利用することを正当化したい中学教師と、それらの行為の弊害を語りながら人生との向き合い方までも説いていく哲学者との対話が『幸せになる勇気』には描かれています。
 現役の高校教師である私は、この中学教師のように叱る行為やほめる行為をことさら正当化しようとは思いませんが、かといってこの哲学者のように「ほめも叱りもしない教育を徹底すべきだ」とも思いません。
 
 私はアドラーの教えのうち「叱るのは未熟な暴力的行為だ」「未熟な叱責行為は教育者自身の説得力を損なわせる」という点や、「ほめる行為は承認欲求を餌に相手を操作しようとしている」「いつまでも承認欲求を求め続ける人間は自立できない」という点には完全に同意します。
 ですが私は、未熟さや暴力性や他者を操作したがる性分をそこまで拒絶するのは、動物としての身の程をわきまえておらず不自然だとも感じます。
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 たとえば、落ち着いた議論の中にも言葉の組み立て次第で相手を押さえつけようとする圧力はいくらでも造り出せますから、「民主的な対話であれば暴力性とは無縁だ」なんて作り話には全く同意できません。
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 いくら崇高な理想を掲げようとも人間は弱肉強食の現実を生きる動物でしかなく、民主的な対話とやらもパワーゲームにおける圧力の一種でしかないのですから。
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 一介の動物としてこの世の力学を生きることにためらいのない私は、授業を成立させるための指示に従わない生徒がいる場合、声を荒げるなり睨み付けるなり何らかの威圧行為を併用して指示に従わせようと試みることもあります。
 そんな状況を招いていること自体は教育者としての未熟さの現れであり、そこで威圧行為を用いることが暴力的であることも認めますが、だからといってそのことについていちいち悪いとも思いませんし、逆に理屈を付けて正当化しようとも思いません。
 ただ、「この未熟な手段が上手くない結果を招くこともあるだろうな」と想定し、そのリスクも承知の上で「それでもここでは行使しよう」と覚悟を決めて選択するだけです。
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 それと同様に、教育の場面だろうがそうでない場面だろうが、ついつい相手をほめてしまうことだってあるでしょう。
 ですが私は、そのほめる行為が相手の操作に繋がったり、他人への依存心を煽る承認欲求をくすぐるからといって、極端にほめることを避ける必要もないとも思っています。
 
 ほめたり叱ったりして相手をコントロールしようとする教育の弊害は、教育者自身がその理屈を正当化して徹底すればするほど大きくなるでしょう。
 それと同じ理由で、私は民主的な横の関係を徹底すべきという「ほめも叱りもしない教育」とやらにも、別の影響を徹底的に与えてしまう弊害があるのではないかと勘ぐってしまいます。
 教育の場面にありがちな人心操作の弊害と正面から向き合うことは大切だと思いますが、私はアドラーの心理学から「ほめも叱りもしない民主的な教育」ではなくその問題提起の部分だけを受け取ろうと思います。
 
 私は、弱肉強食のこの世界を生き抜く一介の動物として、そのときどきの都合に応じて様々な力を行使していきます。
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 その力の行使によって好ましい影響も好ましくない影響も引き起こしていくでしょうが、どの力の行使なら正しくてどの力の行使が間違っていると断罪し切れる立場があるとは思いません。
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 正しいとか間違っているといった他人の基準に振り回されずに、ただ自分の起こした行動の結果をしっかりと受け止めて、自分自身の今後の行動の参考にしていくだけです。
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