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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

世の中は間違っていますか

 その昔、 J's Barという村上春樹のファンサイトがありました。
 ここにはQ&Aというコーナーがあり、いろんなお題を出し合ってはそのお題に答えていくというスタイルで、ファン同士の交流が大変盛んに行われていました。

 私も学生の頃はこのQ&Aのさまざまなお題に答えており、その機会を通じて自分なりの考え方を発信していく喜びを覚えました。
 今回は、その中でも印象に残っている質問を紹介し、そのとき私が考えていたことを語ってみたいと思います。

Q
「世の中間違ってる」と思うことは何ですか。

ハマコーの世の中間違っとる

ハマコーの世の中間違っとる


A
不愉快だと思うことはあっても、それが間違いだとは結論付けません。
よって、「間違ってる」と思うこと自体がありません。

 この質問を受けたとき、私はなんと答えるべきか少し悩みました。
 「不愉快なことはなんですか」という質問だったら個人的な感想の範疇でいくらでも答えることができたのですが、私にはそれらの不愉快なことを「間違ったこと」にわざわざ格上げするための理由が浮かばなかったのです。

 「間違ってる」と言うからにはどこかに正解があるという設定なんでしょうが、私には「想定される正解」について何の知識もないので、それが間違ってるかどうかなんて判断できるレフェリーのような権限はありません。
 では、「世の中間違ってる」と言う人はどういう根拠でそんなことを言ってるんでしょうか。

 私が想像するに、その人には世の中について何か気に食わないことがあるんだと思います。
 気に食わない事柄に対して文句を言いたい場合、その人の頭の中では「世の中はこんな風になっているべきではないのに実際の世の中は本来あるべき姿を実現していない」という架空の物語が出来上がります。
 つまり、「世の中は正解を選択していない、よって間違ってる」というわけです。
 そこでこの人に対しては2つの疑問が浮かんできます。

 「あるべき姿ってどういうものを指すんですか」
 「それであなたはどうしたいんですか」

 前者の質問について、何か具体的な回答がもらえたと仮定してみましょう。
 つまり、「これこれこういう姿があるべき姿である」という正解があり、それに反していれば間違いだというわけです。
 すると以下のようなやり取りを想像することができます。

それが「あるべき姿」であるという根拠はどこにあるんですか。

それはこれこれこういう理由だからだ。

で、その基準はどうして採用したんですか。

うるさい、間違ってると言ったら間違ってるんだ。
いちいち根拠なんか聞くんじゃない。

それで説明になってるつもりですか。

説明ができようができまいが、「あるべき姿」っていうのは当たり前の前提として飲み込まなきゃいけないんだ。

じゃあ「世の中は間違っている」というのは、その「あるべき姿」を当たり前の前提として認めた人にとっての結論であって、その前提を認めない人にとっては関係のない結論ということでよろしいですか。

いいや、そいつが認めようが認めまいがそんなことは関係なく、人間ならば誰もが認めなくちゃいけない前提というものがあるんだ。

それってつまり、その人には思想・信教の自由がないっていう意味ですか。
その人が認めたくなくても強制的に認めさせるってことでしょ。
「誰もが認めなくちゃいけない前提」って、誰がどうやって決めるんですか。

それは人が勝手に決めるものじゃなくて、自然と決まっているものなんだ。

それってたとえ人がいてもいなくても関係なくルールだけが定まってるってことですか。
それはどこで決まってるんですか。
神様とか創造主とか絶対者といったレフェリーのような存在がどこかにいて、そこで決められているということですか。

 とまあこのように、万が一その人が言っていることが真実であったとしても、万人を説得するのは不可能です。
 少なくとも私は納得しません。

 ただ、権力や暴力やしつこい説得工作にうんざりして、口先だけで「うん」と言うことはあるかもしれません。
 それでも心の中ではまったく認めずに「やれやれ」と思うことでしょう。
 つまり、世の中の「あるべき姿」という最初の条件決めの段階で、万人が合意できる瞬間はないということです。

 また、「何が正しいかはわからないけどとにかく世の中は間違ってるんだ」と言う人もいるかもしれません。
 しかし、こんな結論ありきの言い方ではそれこそ「個人的な不快感」のレベルを一歩も出てはいないでしょう。

 そして、さらに聞きたいのが「それであなたはどうしたいんですか」という後者の質問です。
 私にとって、人と意見が合わないことや世の中が自分の望んだとおりのものでないことは当たり前の大前提です。
 だって人も世の中も「自分の都合にあわせて作られたもの」じゃありませんから。

 「人も世の中も自分の都合にあわせてくれなきゃヤダヤダ」と言いたくなる気持ちもわからないではありませんが、そんなワガママは「誰かに甘やかしてもらえる環境」の中でしか通用しない子どもだけの特権だと思います。
 私はいつまでもこの特権にしがみついてピーピー文句を言ってるだけの子どもでいたくはありませんから、思い通りにならない状況を所与の条件として受け止めた上で現実的な対処を考えていきます。
 どうしても気に食わない現状があるのならそれを変えようと具体的な努力をしますし、そこまで大した問題じゃないと思えばその前提条件の中で自分が満足していける方法を探します。

 たとえば、私が気に入らないと思っているのは、言葉の役割に関する「大きな洗脳」の問題です。
 言葉の役割とは、聞き手に何らかの印象を与えること。
 聴き手の印象に働きかけてその行動を左右することで、人間は互いの行動を制御し合うことができ、ここまでの文明社会を築き上げることができました。
 ですが、事実の説明こそが言葉の役割であるという「大きな洗脳」は文明人たちを上手に飼い慣らしており、多くの人には「事実の説明」という物語が無意識レベルにまで刷り込まれてしまっています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/05/060200

 「人はこうあるべきだ」という言い方が目指しているのは、「そうでないと君は人でなしだ」という脅迫であり、それによって聴き手の行動を制限すること。
 これはあくまでも個人的な言葉の圧力でしかないのですが、「事実の説明」というフィクションに飼い慣らされてしまっている人たちはこうした言い方に不安を覚え、「本当にそうなんだろうか」と真面目に取り合ってしまいます。

 こうした「大きな洗脳」の状況を何とか変えていきたいというのが私の人生のテーマであり、そのための具体的な努力こそがこれらの文章です。
 だからこそ当ブログでは、言葉の圧力に負けずのびのびと人生を楽しんでいくための知恵を模索していきます。

 公平なレフェリーが管理する正しさに満ちあふれた温室なんてこの世には存在しません。
 「この世は間違ってる」なんてクレームを付けている暇があったら、この世界の一人のプレイヤーとして自分なりに行動を起こしてみてはいかがでしょうか。