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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

できるまでやらなければできない

 私の高校教師としてのキャリアは今年で11年目。 
 そのうち最初の4年間は難関国公立大学などを目指す生徒が数多く在籍する進学校で勤務し、それ以降は「いわゆる進学校」ではない高校に勤務し、主にその中の大学進学希望者に対して受験数学を教え続けてきました。
 
 教師にとっての永遠のテーマは「教師として生徒に何を伝えるべきか」ということ。
 その内容は「人としてきちんと生きること」「学問の面白さ」「受験テクニック」などさまざまな意見があるでしょうが、私が高校教師として最優先で伝えているのはただ単に「できるまでやらなければできない」ということに尽きます。

 
 現在の私の授業の柱は、単元ごとに行う小テスト。
 不合格者は居残りで再テストを受けなければならず、合格するまでは毎週居残り続けなければなりません。
 私はこの単調なシステムを確立することによって、進学校との「高校入学時の成績の差」を少しずつ縮めてきました。
 
 このシステムを運営するに当たってのこだわりは、生徒に対するその他の強制事項を極力増やさないこと。
 宿題など提出物の要求や授業ノートのチェックなどは、学年全体での取り組みでない限り私から追加することはほとんどありません。
 これは授業における評価の基準を「できるかどうか」にしか置かないということであり、できるという結果さえ見せれば教師の言い付けを守る真面目さや従順さなんかは求めないということです。
 
 私がこの人間味のない方法を選ぶ理由は、どんなありがたい教訓よりもまず先に「できるまでやらなければできない」という実用的な教訓を、社会に出るよりも先に身に染みて実感して欲しいから。
 小学校・中学校までの勉強で躓いてきた子たちに足りていないのは、「自分はどこまでやればできるようになるのか」を測るための経験値。
 その中でも特に足りていないのは「誰かに誘導されればできる状態」と「誘導なしでも自力でできる状態」との区別を付けて、その差を自分なりに埋めてきたという実績です。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 この問題への対処として「定着させるためには日々の復習が大事」「授業中の集中力が足りない」「効率よく勉強しなければ駄目だ」などという訓話がよく用いられるのですが、そうしたお話だけでその差が改善されることは滅多にありません。
 それどころか、後から「できなかったのは言うことを聴かないからだ」と皮肉るための、証拠作りにしかできていない教師も少なくありません。
 
 食事も睡眠もバランスのとれた規則正しい生活をし、どんな授業を集中して聴いて、予習復習も欠かさず、教師の言い付けを全て守れるような完璧な生徒なんて基本的に存在しません。
 ですから、生徒に伝えるべき優先事項が「人としてきちんと生きること」だと主張している教師は、「お前ができなかったのは○○がきちんとしていないからだ」という難癖を付けさえすれば、たとえその声かけに何の効果もなかったとしても「適切に指導した」というふりをすることができます。
 
 何かができるようになるために必要なことは、ただただ失敗を積み重ねること。
mrbachikorn.hatenablog.com
 初めて学ぶ内容を授業中にマスターしてしまう生徒というのは、教師が講義している最中にもただ話を聞くだけでなく、その話題から派生することをああだこうだと自分なりに考えることで、短い間で無意識のうちに細かい失敗を何回も積み重ねています。
 
 それに対して飲み込みの悪い生徒は、授業中には自分の頭を働かせずにただ黒板に書いてあることをノートに写し、問題を解けと言われれば周りの様子を見ながら真似をして何となくできたような気になります。
 そして、当然のように定期テスト前にはすっかり忘れてしまい、問題集などを解いてせいぜい1~2回思い出しただけで定期テストに臨んだがゆえに大爆死します。
 授業を聴いただけでも高得点を修めてしまう生徒と、試験直前に必死に勉強しても点数が取れない子との差は、単純に「積み重ねてきた失敗の総量」の差なのです。
 
 そして、意味のある失敗を積み重ねるためには、日々の生活の中から「失敗を稼ぐ機会」を捻出する必要があります。
 その「失敗を稼ぐ機会」を強制的に与えるのが、授業中の問題演習や日々の宿題であり、年に数回行われる定期テストです。
 
 ですが、授業中の問題演習や日々の宿題は失敗しても大してリスクもないため、緊張感のない生徒はいくらでも手を抜いてしまいます。
 そうすると、自分を試すような本気の挑戦にはならず、意味のある失敗を稼ぐことができません。
 
 その点、定期テストの点数には卒業に必要な単位を取得できるかどうかと、推薦入試などでチェックされる成績とがかかっており、授業中の問題演習とは緊張感が違います。
 ただ、定期テストには2~3ヶ月分の授業内容がまとめて出されるため、修得しないままで済ませている『授業中の負債』が多ければ多いほど、試験直前での挽回は難しくなります。
 
 大多数の生徒は、こうした通常授業と定期テストの組み合わせだけでは、十分な「失敗を稼ぐ機会」を自己プロデュースできていません。
 私が実施している「合格するまで再テストによる居残りが続く」というプレッシャー込みの小テストの場は、そんな大多数の生徒が助かるようにと強制的にプレゼントしている「失敗を稼ぐ機会」です。
 
 再テストのために何度も居残りを続ける生徒は、人に解き方を聴いて分かったつもりになっても、自力でできるようになるまで失敗を積み重ねなければ合格という結果を出せないことを学べます。
 一度目の再テストで合格できない生徒は、最初の小テストの不合格からだけでは、自分に必要な「失敗できる機会」を自己プロデュースできていなかったことを学べます。
 最初の小テストで合格できない生徒は、不合格という結果を見なければ「日々の失敗稼ぎが足りていない」ことが分からない段階に自分がいるということを学ぶことができます。
 さらに、一発目の小テストで合格できている生徒は「今回のテストでは自分の実践した失敗稼ぎが通じた」ということを学び、そのノウハウを次のテストにも活かすことができます。
 
 「できるまでやらなければできない」なんてことは当たり前のことであって「生徒に伝えるべき最優先事項」ではないと考える教師は、どれだけ多くの生徒が「できるまでやらなければできない」ことを学べていないかという実態の悲惨さを舐めています。
 特に、小学校・中学校で勉強に躓いてきた生徒たちを見ていると、この基本的な法則以上のことを伝えたがる教師たちの情熱が上滑りし続けてきたんだなあと実感します。
 そんなご立派な教育論を語る前に、まずは「できるまでやらなければできない」という事実を伝えなければならないでしょう。
 
 私は少しでも多くの「失敗を稼ぐ機会」を生徒に与えることが教師として最優先の使命であり、全ての生徒に必要なわけではない「一介の教師のお話」はその隙間時間にやればいいと考えます。
 その他の高尚な教育論が通用するのは、この「できるまでやらなければできない」が「当たり前のこと」だと言えた後の話なんですから。