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間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

バチコーン打法とはアンチ小手先打法である

 和太鼓を楽しくのびのびと躍動的に打つためには、身体をどのように動かすのが合理的なのか。
 そう追求し続けて練り上げてきた打法は、世間に広く普及している和太鼓の打法とは全く異なるものでした。
 そして、他団体と交流する機会が増え始めた10年前ごろから、私なりの打法のこだわりについて尋ねられることが増えたため、自分の流儀を便宜的に「バチコーン打法」と名付けてレクチャーを続けてきました。
 
 私は一般的な太鼓チームの演奏を見るたびに「上半身をピンと強張らせて小手先だけで打っている姿が気持ち悪い」と感じていたので、流儀を他者に伝えるときは「いかに小手先だけでなく全身をしなやかに駆使するか」という点を強調していました。
 つまり、バチコーン打法とはアンチ小手先打法だったわけです。
 
 合理的でない小手先打法が世間に広く普及してしまっているのには、いくつかの理由が絡み合っています。
 その中でも最大の理由が、現代人は全身をしなやかに連動させて動かす時間よりも、小手先だけで済む動作をしている時間の方が圧倒的に長くて、それが習慣になってしまっているということです。 
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 その点、全国各地の祭りに伝わっている民俗芸能には、小手先だけでなく全身をしなやかに連動させてより楽に効率よく打つような流儀が比較的多く見られます。
 それは、移動に家事に労働にと生活全般において、現代よりも遥かに全身を駆使していた時代に生まれた文化だから。
 生活全般が文明化して小手先だけの動作で生きていけるようになったとしても、民俗芸能の中にはそうした合理的な身体知が忘れ去られずに生き延びていることがあるのです。

 戦後の日本において新しい大衆文化として構築されていった和太鼓業界は、そんな昔ながらの身体知を活かすことが理想とされるような世界ではありません。
 それは、黎明期から和太鼓業界をリードしていたほとんどの人が、昔ながらの身体知とは無縁の小手先現代人だったから。
 そんな現代人が考えた上達法と言えば、音や振り付けを大人数でぴったりと合わせる、複雑なリズムを高速で打てるようにする、キツい運動もこなせるように体を鍛える、といった程度の浅はかな素人考えでした。
 
 そんな頭でっかちなトレーニングを大量に積み重ねたところで、胴体を箱のように固めた状態で小手先だけで頑張っていては、野性動物のようなしなやかな動作の躍動感にはまるで叶いません。
 しかし、戦後発祥のステージ和太鼓業界はその程度の身体知しか持たない人たちによって築かれていったため、全身を連動させられない小手先打法の流儀が「正統派」となってしまいました。
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 今の日本における主流は「とにかく手を高く上げるべき」という訳の分からない信仰に縛られた「決め決め太鼓」と、その教義にこだわり過ぎずにドラムの打法を真似て格好つけることにした「ペチペチ太鼓」のおよそ二種類。
 そして、プロを名乗る和太鼓奏者ですら、そのほとんどがこうした二種類の小手先打法の延長線上にいます。
 現状では、全身をしなやかに連動させて打つ打法なんて「正統派」の範疇にないため、武術やスポーツの世界では当たり前の「小手先だけで動かない」という理想を追うと、和太鼓の世界では「変わり種」「異端」のような扱いになってしまうのです。
 
 私のライフワークは、小手先太鼓の熱心な使い手を次々と量産している業界の風潮に対して身体操作の観点から疑問を提示し、業界の外側にこそ理にかなった自然な和太鼓の世界が広がっていることを身をもって示すこと。
 理論と実践の両方を充実させることによって、世にはびこる小手先打法の悪習を「バチコーン!」と打ち破ってやろうと思います。