人間は、残酷で野蛮なこの世の摂理の苦みを、言葉のオブラートで包み隠してきた。
理想と現実のギャップというのは、理想論という薄っぺらなオブラートを、野蛮な現実が突き破ることで起きる。
この苦みを少しでも軽減するには、野生の摂理の次元で野蛮な力を行使する必要がある。
「セクハラやパワハラを悪と認定して社会的に抹殺する」という実力行使によってしか、それらの暴力の芽を摘めないように。
こうした「力による現状変更」をさんざん繰り返してきた結果、現代社会は見た目上の平和を獲得するかわりに、見え辛いデメリットを数多く抱えている。
その1つが、触れ合いの問題である。
猿が毛づくろいする姿を思い浮かべてみて欲しい。
毛づくろいされる方は相手に身を任せて安心しており、毛づくろいする方も柔らかくて温かいものに触れる歓びを味わっている。
幼児同士のじゃれあいにおいても、この毛づくろいと同様の心地よい交流が生まれうる。
力加減を間違えてしまうと、喧嘩に発展してしまったりするが。
優しく触れるのも、優しく触れられるのも、どちらも心地よい。
この心地よさがいつでも手に入ると安心する。
しかし、現代社会を生きる大人は、この歓びを口実抜きには味わえなくなっている。
肉親といつまでもベタベタしていると、マザコン、ファザコン、ブラコン、シスコンなどと揶揄される。
幼児のころのようなじゃれあいをいつまでも継続していると、それが異性間であれ同性間であれ、性的な関係を疑われる。
世間の目は、いい加減な空論と野蛮な実力行使によって、ヒトから気楽にじゃれあう機会をどんどんと奪っていく。
そんな社会圧の中でも、正々堂々とベタベタできるパートナーと出会えれば、失った「毛づくろい」のチャンスを取り戻すことができる。
アイドルの握手会や水商売や風俗がビジネスとして成り立つのも、優しい接触への飢えに上手くつけこめているから。
他にも、親や教育者として幼児のじゃれあいの相手になったり、対価を払ってマッサージを受けたりすることでも、毛づくろい的な安心感を手に入れることができる。
ただ、パートナーを獲得したとしても、安定した優しい触れ合いが手に入るとは限らない。
片方が性的交流の側面ばかりに囚われている場合、性感と直接絡まない、毛づくろい的な穏やかな接触には無頓着になる。
性行為とは、性器同士の接触を含む肌と肌の触れ合いのこと。
いつでもどこでも誰とでもできるわけではない希少な行為なので、触れ合いというカテゴリー内でも究極の形と見なされがちである。
ただ、この見方が行き過ぎると、性行為の主目的は性器の接触ということになり、ソフトな触れ合いという側面は副産物として軽視されかねない。
しかし、安心して生きるという観点で見たとき、大切なのは優しい触れ合いの方である。
性に溺れているように見える人も、子どもみたいに「ほっこりとじゃれあいたい」と素直に認めるのが照れくさくて、性行為を口実に「無意識のうちに切望していた毛づくろい」を掠め取っているとみなすことができる。
そのような目でみれば、パートナー同士で安定感を与え合う方法は性行為以外にもたくさんある。
頭を撫でる、肩に手を置く、背中をさする、優しくハグする、丁寧にマッサージする、存在そのものを丸ごと受容するような言葉かけをする、など無数の毛づくろいが想定できる。
こうした毛づくろい的な交流の側面を軽視していると、たとえ性行為を何度重ねようとも、どっしりとした穏やかで深い安心感は得られないだろう。
人間は他の動物とは違うワンランク上の理知的な存在である。
生まれたばかりの動物的な姿からは、教育の力や自己陶冶によって脱却しなければならない。
そんな思い込みに縛られ過ぎていると、幼いころに求めていたじゃれあいを、卒業すべき「動物じみた在り方」として拒絶しかねない。
しかし、ヒトだって動物なのだから、動物としての悦びを抑えつけ過ぎれば、そのストレスの粉雪は深深と降り積もっていく。
その雪の重みに耐えかねて刹那的な肌の触れ合いに走ったとしても、一時的に雪かきをしたようなもの。
ストレスが降りやまなければ、いずれまた雪は高く積み上がる。
気候を暖かくし、降雪を止め、積もった雪を溶かしていくためのヒントは、猿の毛づくろいのような動物的な姿にある。
動物としての身の程をわきまえて、穏やかに生きてみてはいかがだろうか。