間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

素直になって毛づくろいしよう!

 人間は、残酷で野蛮なこの世の摂理の苦みを、言葉のオブラートで包み隠してきた。
 理想と現実のギャップというのは、理想論という薄っぺらなオブラートを、野蛮な現実が突き破ることで起きる。
 
 この苦みを少しでも軽減するには、野生の摂理の次元で野蛮な力を行使する必要がある。
 「セクハラやパワハラを悪と認定して社会的に抹殺する」という実力行使によってしか、それらの暴力の芽を摘めないように。
  
 こうした「力による現状変更」をさんざん繰り返してきた結果、現代社会は見た目上の平和を獲得するかわりに、見え辛いデメリットを数多く抱えている。
 その1つが、触れ合いの問題である。
 
 猿が毛づくろいする姿を思い浮かべてみて欲しい。
 毛づくろいされる方は相手に身を任せて安心しており、毛づくろいする方も柔らかくて温かいものに触れる歓びを味わっている。
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 幼児同士のじゃれあいにおいても、この毛づくろいと同様の心地よい交流が生まれうる。
 力加減を間違えてしまうと、喧嘩に発展してしまったりするが。
 
 優しく触れるのも、優しく触れられるのも、どちらも心地よい。
 この心地よさがいつでも手に入ると安心する。
 
 しかし、現代社会を生きる大人は、この歓びを口実抜きには味わえなくなっている。
 肉親といつまでもベタベタしていると、マザコンファザコン、ブラコン、シスコンなどと揶揄される。
 幼児のころのようなじゃれあいをいつまでも継続していると、それが異性間であれ同性間であれ、性的な関係を疑われる。
 世間の目は、いい加減な空論と野蛮な実力行使によって、ヒトから気楽にじゃれあう機会をどんどんと奪っていく。
 
 そんな社会圧の中でも、正々堂々とベタベタできるパートナーと出会えれば、失った「毛づくろい」のチャンスを取り戻すことができる。
 アイドルの握手会や水商売や風俗がビジネスとして成り立つのも、優しい接触への飢えに上手くつけこめているから。
 他にも、親や教育者として幼児のじゃれあいの相手になったり、対価を払ってマッサージを受けたりすることでも、毛づくろい的な安心感を手に入れることができる。
 
 ただ、パートナーを獲得したとしても、安定した優しい触れ合いが手に入るとは限らない。
 片方が性的交流の側面ばかりに囚われている場合、性感と直接絡まない、毛づくろい的な穏やかな接触には無頓着になる。
 
 性行為とは、性器同士の接触を含む肌と肌の触れ合いのこと。
 いつでもどこでも誰とでもできるわけではない希少な行為なので、触れ合いというカテゴリー内でも究極の形と見なされがちである。
 ただ、この見方が行き過ぎると、性行為の主目的は性器の接触ということになり、ソフトな触れ合いという側面は副産物として軽視されかねない。
 
 しかし、安心して生きるという観点で見たとき、大切なのは優しい触れ合いの方である。
 性に溺れているように見える人も、子どもみたいに「ほっこりとじゃれあいたい」と素直に認めるのが照れくさくて、性行為を口実に「無意識のうちに切望していた毛づくろい」を掠め取っているとみなすことができる。
 
 そのような目でみれば、パートナー同士で安定感を与え合う方法は性行為以外にもたくさんある。
 頭を撫でる、肩に手を置く、背中をさする、優しくハグする、丁寧にマッサージする、存在そのものを丸ごと受容するような言葉かけをする、など無数の毛づくろいが想定できる。
 こうした毛づくろい的な交流の側面を軽視していると、たとえ性行為を何度重ねようとも、どっしりとした穏やかで深い安心感は得られないだろう。
 
人間は他の動物とは違うワンランク上の理知的な存在である。
生まれたばかりの動物的な姿からは、教育の力や自己陶冶によって脱却しなければならない。
 
 そんな思い込みに縛られ過ぎていると、幼いころに求めていたじゃれあいを、卒業すべき「動物じみた在り方」として拒絶しかねない。
 しかし、ヒトだって動物なのだから、動物としての悦びを抑えつけ過ぎれば、そのストレスの粉雪は深深と降り積もっていく。
 
 その雪の重みに耐えかねて刹那的な肌の触れ合いに走ったとしても、一時的に雪かきをしたようなもの。
 ストレスが降りやまなければ、いずれまた雪は高く積み上がる。
 
 気候を暖かくし、降雪を止め、積もった雪を溶かしていくためのヒントは、猿の毛づくろいのような動物的な姿にある。
 動物としての身の程をわきまえて、穏やかに生きてみてはいかがだろうか。

ほめるのもほめないのも叱るのも叱らないのも正しくはない

 世間に誤解されたまま受け止められがちだったアドラーの心理学の肝であるその哲学を、対話形式で分かりやすく紹介することに成功したのが『嫌われる勇気』です。
mrbachikorn.hatenablog.com
 その続編『幸せになる勇気』は、アドラー心理学の理念に従って「ほめも叱りもしない教育」を実践して挫折した中学教師が「教育の現場ではアドラーの教えは役に立たない」とクレームをつけ、それに対して哲学者が反論するという形式で綴られています。

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII

幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII


 
 最初から「叱らない」と決めていたために舐められて生徒の問題行動がやまなくなったと考えている中学教師は、たとえ嫌われようとも間違ったことを正すには叱らなければならないと考えなおすようになり、叱らないことを是とするアドラーの教えは地に足の着かない理想論だと否定します。
 これに対し、哲学者はまず暴力という手段の未熟さを説き、叱るという行為も幼稚な暴力的手段に過ぎないことを以下のように語ります。
 
言語によるコミュニケーションは、合意に至るまでに相当な時間を要し、労力を要します。
自分勝手な要求は通らず、客観的データなど、説得材料を揃える必要も出てくる。
しかも、費やされるコストの割に、即効性と確実性はあまりにも乏しい。
 
そこで議論にうんざりした人、また議論では勝ち目がないと思った人がどうするか。
わかりますか?
彼らが最後に選択するコミュニケーション手段、それが暴力です。
 
暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。
もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。
暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。
これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません。
 
われわれ人間は、未熟な状態から成長していかなければならない、という原点に立ち返るのです。
暴力という未熟なコミュニケーションに頼ってはいけない。
もっと別のコミュニケーションを模索しなければならない。
 
暴力の「原因」として挙げられる、相手がなにを言ったとか、どんな挑発的態度をとったとか、そんなことは関係ありません。
暴力の「目的」はひとつなのですし、考えるべきは「これからどうするか」なのです。
 
誰かと議論をしていて、雲行きが怪しくなってくる。
劣勢に立たされる。
あるいは議論の最初から、自らの主張が合理性を欠くことを自覚している。
 
このようなとき、暴力とまではいかなくとも、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする人がいます。
これらの行為もまた、コストの低い「暴力的」なコミュニケーションだと考えねばなりません。
……わたしがなにを言わんとしているのか、おわかりですね?
 
あなたは、生徒たちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。
怒りを武器に、罵倒という名の銃を構え、権威の刃を突きつけて。
それは教育者として未熟な、また愚かな態度なのです。
 
 これに対し、中学教師の方は「わたしは怒っているのではない、叱っているのです!」と言い返します。
 ですが哲学者は、このありがちな言い分を認めずにこう続けます。
 
そう弁明する大人は大勢います。
しかし、暴力的な「力」の行使によって相手を押さえつけようとしている事実には、なんら変わりがありません。
むしろ「わたしは善いことをしているのだ」との意識があるぶん、悪質だとさえ言えます。
 
叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。
このことは、子どもたちも十分に理解しています。
叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が、無意識のうち働きます。
 
これは、大人たちが思っている以上に大きな問題です。
あなたは未熟な人間を、「尊敬」することができますか?
あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか?
 
怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。
それどころか軽蔑を招く。
叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。
 
 この哲学者は、叱るのは子どもに対する暴力だからやってはいけないと、道徳的観点から「叱る教育」を否定しているわけではありません。
 叱るという威圧行為によって、言葉を尽くして接することができないという人としての未熟さがバレてしまい「教育者自身の説得力」がその人への敬意とともに損なわれてしまうと、純粋に教育的効果の観点から否定しているのです。
 
 さらに哲学者は「ほめて伸ばす」という教育手法も人の承認欲求につけこんで自立を妨げるものとして否定します。
 教育の現場で「ほめられてやる気を出す子」の存在を身近に感じている中学教師に対し、哲学者は次のように語りかけます。
 
他者からほめられ、承認されること。
これによって、つかの間の「価値」を実感することはあるでしょう。
しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものにすぎません。
他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形と変わらないのです。
 
ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最後の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。
その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになるのです。
 
 このように、教育の現場において「叱る」「ほめる」という手軽な手段を利用することを正当化したい中学教師と、それらの行為の弊害を語りながら人生との向き合い方までも説いていく哲学者との対話が『幸せになる勇気』には描かれています。
 現役の高校教師である私は、この中学教師のように叱る行為やほめる行為をことさら正当化しようとは思いませんが、かといってこの哲学者のように「ほめも叱りもしない教育を徹底すべきだ」とも思いません。
 
 私はアドラーの教えのうち「叱るのは未熟な暴力的行為だ」「未熟な叱責行為は教育者自身の説得力を損なわせる」という点や、「ほめる行為は承認欲求を餌に相手を操作しようとしている」「いつまでも承認欲求を求め続ける人間は自立できない」という点には完全に同意します。
 ですが私は、未熟さや暴力性や他者を操作したがる性分をそこまで拒絶するのは、動物としての身の程をわきまえておらず不自然だとも感じます。
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 たとえば、落ち着いた議論の中にも言葉の組み立て次第で相手を押さえつけようとする圧力はいくらでも造り出せますから、「民主的な対話であれば暴力性とは無縁だ」なんて作り話には全く同意できません。
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 いくら崇高な理想を掲げようとも人間は弱肉強食の現実を生きる動物でしかなく、民主的な対話とやらもパワーゲームにおける圧力の一種でしかないのですから。
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 一介の動物としてこの世の力学を生きることにためらいのない私は、授業を成立させるための指示に従わない生徒がいる場合、声を荒げるなり睨み付けるなり何らかの威圧行為を併用して指示に従わせようと試みることもあります。
 そんな状況を招いていること自体は教育者としての未熟さの現れであり、そこで威圧行為を用いることが暴力的であることも認めますが、だからといってそのことについていちいち悪いとも思いませんし、逆に理屈を付けて正当化しようとも思いません。
 ただ、「この未熟な手段が上手くない結果を招くこともあるだろうな」と想定し、そのリスクも承知の上で「それでもここでは行使しよう」と覚悟を決めて選択するだけです。
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 それと同様に、教育の場面だろうがそうでない場面だろうが、ついつい相手をほめてしまうことだってあるでしょう。
 ですが私は、そのほめる行為が相手の操作に繋がったり、他人への依存心を煽る承認欲求をくすぐるからといって、極端にほめることを避ける必要もないとも思っています。
 
 ほめたり叱ったりして相手をコントロールしようとする教育の弊害は、教育者自身がその理屈を正当化して徹底すればするほど大きくなるでしょう。
 それと同じ理由で、私は民主的な横の関係を徹底すべきという「ほめも叱りもしない教育」とやらにも、別の影響を徹底的に与えてしまう弊害があるのではないかと勘ぐってしまいます。
 教育の場面にありがちな人心操作の弊害と正面から向き合うことは大切だと思いますが、私はアドラーの心理学から「ほめも叱りもしない民主的な教育」ではなくその問題提起の部分だけを受け取ろうと思います。
 
 私は、弱肉強食のこの世界を生き抜く一介の動物として、そのときどきの都合に応じて様々な力を行使していきます。
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 その力の行使によって好ましい影響も好ましくない影響も引き起こしていくでしょうが、どの力の行使なら正しくてどの力の行使が間違っていると断罪し切れる立場があるとは思いません。
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 正しいとか間違っているといった他人の基準に振り回されずに、ただ自分の起こした行動の結果をしっかりと受け止めて、自分自身の今後の行動の参考にしていくだけです。
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ただ投票率が上がればいいのか

 いわゆる熱血先生とは全く違う教師像を描いた『鈴木先生』は、ドラマや映画にもなった漫画作品。

 作者の武富健治は、この作品を書いた動機について以下のように語っています。
 
僕は中学生のころ、テレビで〈3年B組金八先生〉を見て、育った世代。
あの物語って、熱血先生が問題を抱える生徒を救う場面が多いでしょ。
僕みたいな普通の生徒には、なかなか光が当たっていない印象だった。 
でも、一見普通に見える生徒も、実は鬱屈したものをいっぱい抱えている。
だから、普通の生徒や教師を主人公にした物語を書こうと思った。
 
 そんな『鈴木先生』の中でも、映画化された生徒会選挙のエピソードは必見。
 ことの発端は、前年に多かった無効投票を撲滅するために、岡田という熱血体育教師が職員会議の場で提案し実行に移された、生徒への啓発や指導を強化する取り組み。
 小学校の児童会選挙での落選をきっかけに不登校に陥ってしまった親友を持つ中学2年の西は、この教師たちの取り組みへの反発の意を表明するために生徒会長に立候補し、立ち会い演説の場でまずはいいかげんな気持ちで選挙に参加している生徒たちの不真面目さを糾弾します。
 
ぼくがここに立ったのは————
今まさに行われている…この生徒会選挙のあり方に異を唱えるためです!
 
しかし…マトモにやったら最後まで喋らせてはもらえないでしょう…
だから便宜上こうします…
 
ぼくが生徒会長になったら生徒会選挙を改正します!
今から話すのはその内容です!
 
まず皆さんにお聞きしたいのですが…
この選挙…
生徒会役員、書記、会計、副会長…
そして生徒会長と——
 
それぞれ誰に…
どんな理由で票を投じますか?
 
友達だから…?
部活の先輩後輩だから…?
カッコいいからきれいだから…
そんな理由の人もいるかもしれない
 
そんな理由で投票するのはちゃんと考えていないやつだ!
私は違う!!
そう考える人も多いかと思います
 
では…いったいどれくらい調べ考えればちゃんと選んだと言えるでしょうか!?
 
ぼくは…
ポスターの公示があってから今日まで…
勉強や自由の時間を大幅に削って各候補者について調べ…考え——
今の演説の内容や様子もしっかりと観察分析し…
誰に入れるか本当に真剣に吟味しました
 
しかしちゃんと考えれば考えるほど…
自分の判断に疑念が湧き——
誰に入れたらいいか分からなくなりました!
 
みんなそれぞれに期待してもよさそうな良さがあり…また逆に信用できないといえばどいつも信用できない!
それが隠さざるぼくの実感です
 
例えば…ぼくが本当は大したヤル気もなく…
邪悪な目的でここに立っていたとします
 
それでもなお——
訓練によってさわやかな表情や発声を身につけ好イメージを打ち立てることもできるし————
公約の内容にしてもネットなんかでそれらしいのをでっち上げることもたやすくできるんです
 
現にぼくも…
もともと吃音癖があるのですが…
有料のセミナーに3ヶ月通ってこの通り…舞台上では流暢に話すことができるようになりました…
 
実際には自分に実現能力などなくても————
自己洗脳で自分をだまして考えないようにすればヤル気に満ちた頼れそうでパワフルなキャラになり切ることも容易だし…
気の利いた公約を別の誰かに考えてもらい傀儡を演じることも決して困難な仕事ではありません!
 
難しいのは———
そういったうさんくさい能力も当選後実力として役に立つことも多く…
単なる上辺の飾りに過ぎないと切り捨てるわけにもいかないということです…
 
そんなことまで合わせて考えるととても片手間では正しい判断にたどり着かない
投票というのはこんなにも重く難しい仕事なのかと————
正直投げ出したくなります……
 
それでも…
もし他の投票者が真剣に苦悩して投票し————
投票後結果が出たあとも自分の投じた一票の重さや正しさについて後悔や反省を深く重ねているのならたとえどんなに苦しい作業であってもぼくはそれをやる!
全身全霊をもって投票にのぞみます!
 
しかし…!
正直…ぼくには多くの人がお気楽な覚悟で…
下手すれば能天気なイベント気分でいいかげんに参加しているとしか思えない!
 
 こう指摘された生徒たちの中にはこの西の言葉をしっかり受け止める者もいれば、「何勝手に決めつけてんの!」「私たち全然いいかげんなつもりでなんか参加してませーん」「ふざけんな!!」などと罵声を浴びせる者もいます。
 それらの罵声に対し、西は理詰めで反論を突き返します。
 
最悪なのは…
自分がどれだけ不真面目なのかさっぱり分かっていないで…
自分は十分に義務を果たしていると信じて疑わない阿呆だ!
 
本当に真剣に取り組んでいる人なら…
必ず自分の仕事に迷いや葛藤がある!
ぼくのこの言葉に怒りを感じたとしてもそれをむき出しにぶつけることを自分に許すはずがない!
その単純さが不真面目さの証拠だッ!!
 
 そして、返す刀で無効投票をなくそうと働きかけている教師たちへの批判を続けます。
 それは「たとえ軽い気持ちの一票だろうととにかく有効投票が増えさえすればそれでよい」という、大人たちの本音を見透かした発言でした。
 
しかし!ぼくが批判したいのは個々の不真面目な投票者ではありません…
ぼくが最も怒りを覚えるのは…
そんな不真面目な投票に対し何のてこ入れもしないままただ参加率だけを上げようとし…
そんな不真面目な投票者の一票を真剣な投票者の一票と全く同じ重さでカウントすることを公平として恥じない選挙のあり方そのものです!

単なる無関心や無責任で投票をサボっているだけのいいかげんな人もいるでしょう!
ですから選挙に興味を持つように指導すること自体をぼくは否定しません!
 
しかしそれならば!
真剣に…
全身全霊をもって——
自分の投じるその一票の重さを深く認識し…
その上で投票するべきだと指導するべきです!!
 
なのに…学校側はそんな指導はしません!
それはなぜか!?
 
それは…
そこまで言うといいかげんな人はついてきてくれないからです!

それどころか今参加している人まで引いてしまい…
投票率が下がってしまう
それが怖いからじゃないでしょうか…
 
しかし!
真剣な人間にとっては…
いいかげんな人がいいかげんなままで自分と同じ重さの一票を投じる権利を持ち…
しかもその数を体制側が率先して増やすことを良しとされている現状は絶望的でしかありえません!
 
その現状を思い知ったのは一昨年…ぼくが小6のとき————
東小で投票率を上げるため…
記名制で全員投票が強制された時でした!
 
それまで…
いいかげんな人は投票しなかったりふざけたり無効投票をしていたのが…
いいかげんなまま有効投票に流入し————
選挙の結果に重大な影響を与えたんです!
 
 西の親友だった渡は小5の頃から児童会に立候補して副会長を務めており、その経験を活かして小6の選挙では児童会長に立候補しました。
 ですがその年に、転校してきた人気子役俳優が児童会長に立候補し、さらに教師たちが不真面目な無効投票を取り締まるために記名投票を取り入れました。
 結果的に、児童会長には子役俳優が当選し、児童会活動にやり甲斐を覚えていた渡か不登校へと陥ったことで、西たちは学校で行われる選挙に不信感を抱くようになります。
 
真剣に選挙に参加していたぼくらは…
もう二度とこんな選挙に関わらないと固く誓い合いました…
 
そして中学に上がってから————
昨年の生徒会選挙でぼくら十数人の同志は意図的に選挙をボイコットし————
組織的に無効投票を行いました!!
 
小6の時に誓い合っていたのでそのときに長々と打ち合わせる必要はなく…ただ目配せと「やるぜ」の一言で————
全ては通じ合ったのです…!
 
全員投票が義務づけられているこの中学の生徒会選挙のシステムの中では…
ぼくらには無効投票するくらいしか道がなかった…!
 
逆に言えば…
ぼくらにそれくらいの逃げ道を許してくれてさえいれば…
ぼくらもそれ以上の主張をするつもりはなかったんです…!
 
今回ぼくがここまでして自分たちの主張をぶちまけようと決意したのは…
ついに学校側が無効投票の撲滅及び全員投票の推奨を押し付け…ぼくらの最後の自由に干渉してきたからです!
 
どうして…
そっとしておいてくれないんですか…
 
少数派だろうとどうにかがんばればできる種類のことならぼくらもたやすく絶望などしたりしません…
でも選挙ってのは完全な多数決じゃないですか!
 
システムまでが加担して…
いいかげんな投票をどんどん増やして…
ぼくらの真剣な票の重みはどんどんと軽くなっていく!
 
このむなしさ…
絶望感が分かりますか!?
 
 西は今回の取り締まりの中心人物である岡田を指差してこう訴えました。
 「目指せ有効投票100%全員参加で実現する公正な選挙」というスローガンを掲げていた岡田は、気持ちは分かったがなぜわざわざ無効投票というルール違反の手段を取らねばならないのか、誰か一人を選び切れないのなら「該当者なし」と書くという手段がちゃんと認められているだろうという反論を返し、西たちの犯したルール違反を諌めます。 
 西の主張を汲み取れていない岡田のこの反論には一般生徒の中からもどよめきが起こり、西は「話をちゃんと聞いてください」と前置きをした上で分かりやすくこう言い直します。
 
ぼくたちは…単に人を選び切れずに投票を放棄したいわけじゃない…!
ぼくたちが何より票を入れたくないのはこの選挙システムそのものです!!
 
「『該当者なし』と書く」という認められた手段で参加してしまえば…
それは————この選挙システムに一票を投じたことになってしまうんですよ!!
 
 西の意図をようやく汲んだ岡田は、批判ばかりでなく対案はあるのかと問い詰めます。
 それに対し、西は「よりまともな選挙のあり方」を真剣に検討してみた経緯を語ります。
 
————例えば…
選挙権を手に入れるためにある程度の適正テストを行い合格した者だけが投票することができるようにする…
 
あるいは匿名投票を廃止し…自分がその候補者に投票した理由を長文でしっかりと書かせ…
それがまっとうな判断かを大勢の人間で審査する…
 
…こんなことを考えてみましたが
弊害があったり現実化が難しかったり
…まともな対案にはなりませんでした…
 
 対案が提案できないのであれば少々の不満があっても現行の制度に従えないのかなどと言いかけた岡田に対し、西は間髪入れずに昨年の「ルール違反」の真意を語ります。
 
だから…言ってるんじゃないですか!
現行のやり方で他に仕方がないのならせめてぼくらのこともほっておいてくださいと!
 
無効投票する者の中にも…単なる怠惰や不真面目以上の理由を持っている者もいる!
その可能性を認め…
「無効投票」をやみくもに取り締まらないようにしてほしい————
そう言っているんです!
 
 この西の訴えに、聴いていた生徒からも静かな共感の拍手が起こります。
 自身の「やみくもな取り締まり」から説得力が失われたと認めた岡田はこれで引き下がり、西は反体制的な主張を最後まで続けさせてくれた教師たち・選挙管理委員・そして聴いてくれた生徒たちへの感謝の意を表して演説を終えました。
 
 実はこの生徒会選挙が始まる前、職員会議の場で岡田が無効投票の取り締まりを提案した際に、 国語教師の鈴木は「全員投票を強制されている状況で、それでもなお無効投票する者の中には何らかの言い分を持っている者がいるかもしれないから、厳しく取り締まらずにグレーゾーンとして許容してはどうか」との提案をしていました。
 ですがその時は、歯切れのよい正論を堂々と掲げる岡田の無言の圧力に屈し、揉め事を避けて大勢に迎合していたのでした。
 
 しかし、西や元東小の生徒たちの思い詰めた様子を疑問に思い、生徒や東小の教師への聞き取りを通じて西の真意をおぼろげに推測していた鈴木は、不穏な様子の西を力付くで抑えこみかねなかった岡田ら教師をたしなめ、西が最後まで演説し切れるようにとお膳立てをします。
 単純で分かりやすい正論を盾に無効投票を撲滅しようとする教師たちの姿勢を変えるには、職員会議の場での机上の空論ではなく、自身の推論を裏付けるような生徒たちからの生の声が必要だったのです。
 
 この西の演説のおかげで、教師たちは無効投票を「怠惰や不真面目さの現れ」だと断ずることを控え、生徒たちはいつもの「能天気なイベント気分」とは一味違った心持ちで投票することができました。
 既存の体制や分かりやすい建前論を徹底することばかりが正義ではなく、さまざまな考え方の人間がいる可能性を推し量ってグレーゾーンを敢えて残しておくという知恵も必要なのだと、学校全体が学べる良い機会になったわけです。
 
 民主主義社会において、私たちの民意は選挙を通じて表明できることになっていますが、たとえば「この選挙制度自体に賛成できない」といった類いの民意はなかなか表現しづらいものです。
 『鈴木先生』における西は、大多数の不真面目な投票者のいいかげんな判断によって結果が左右されてしまうポピュリズムの問題があるにも関わらず、生徒たちに「投票さえしていれば十分に義務は果たせている」と錯覚させてしまう教師たちの雑な取り組みに異を唱えるために生徒会選挙の場を利用しました。
 
 こうした雑な風潮は私たちが生きるこの現代社会にもはびこっており、投票に行かなければ怠惰や不真面目の証拠と断じられてたやすくバッシングされがちです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 選挙制度政党政治の問題点を根本から見直そうというラディカルな取り組みも、現行の選挙制度を馬鹿にしていると断じられて小悪党扱いされがちです。
mrbachikorn.hatenablog.com
 
 選挙をめぐる単純で分かりやすい正論の圧力は、その論調にそぐわないその他の主張のあり方を認めずに、独自の考えを持っている異分子を「お前はどちらの味方か」という下世話な対立の構造に組み入れたがります。
mrbachikorn.hatenablog.com
 こうした政治にまつわる不愉快な圧力に振り回されてしまわないための向き合い方を、西や鈴木は教えてくれているのかもしれませんね。
mrbachikorn.hatenablog.com

選挙制度の問題点から「支持政党なし」の主張を分析する

 2014年の第47回衆議院選挙で、「支持政党なし」という変わった名前の政党が北海道比例ブロック有効票の4.2%にあたる104854票を獲得しました。
http://mrbachikorn.hatenadiary.jp/entry/2016/06/22/233459mrbachikorn.hatenadiary.jp
 この党は、2016年の第24回参議院選挙でも比例代表全国区に2名立候補し、北海道、東京、神奈川、大阪、熊本の5選挙区で候補を擁立しました。
 
 「支持政党なし」の理念は、政党としての政策理念を全く持たずに、ただただ支持者の民意を国会での議決にできるかぎり反映させること。
 個別の法案ごとに支持者から賛否の声をネットやスマホで集め、当選した議員はその支持者の声の比率のままにしか議決権を行使しないというのが彼らの公約です。
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 この斬新過ぎる政党に対するリアクションはさまざま。
 その理念を「おもしろい」と好意的に評価する、「支持政党なし」が党名だと気付かない有権者から票を騙し取ろうとしていると決め付ける、その両論を併記して問題提起だけする、などなど。
 
 「支持政党なし」が問題にしているのは、現行の選挙制度では国民の声が政治にきちんと反映されないということ。
 たとえば、仮に「この人なら信頼できる」と思えた人に票を投じてその人が当選したところで、その議員が何らかの政党に所属していれば議決権は党の方針のためのコマとして消費されるだけで、選挙民の意志を反映するためには使われません。
 政党というものが所属議員の議決行為を支配している限り、有権者は既存の政党から自分に合うところを見付けるしかないわけで、全ての法案について意見が合致するような党を見付けるのは至難の業です。
 
 このようにして支持政党が見付けられずに困っている有権者にとって必要なのは、議員や政党に民意を代表させる間接民主主義ではなく、全ての議決に有権者みんなが関わる直接民主主義だというのが「支持政党なし」の考え方です。
 つまり、政策を全く掲げずにネットによる直接民主主義を目指すという「支持政党なし」の手法は、「現行の選挙制度のままでは民意を反映できないじゃないか」という類の民意を「現行の選挙制度の範囲内」で国家に突き付けるためのアイデアとも見れるわけです。
 
 この政党が党名を「支持政党なし」にした意図も、有権者から票を騙しとるためというよりは、現行の選挙制度を不満に思う人の声を「実際の選挙結果」という形ある姿にして届けるためと考えた方が妥当でしょう。
 だいたい、支持する政党を持たない人が「支持政党なし」のことを知らずに投票所にやってきて、わざわざ「支持政党なし」「支持なし」という言葉を選んで投票用紙に書いて帰るという事態が果たしてどれだけ起こるというのか。
 選挙演説をし、ポスターを貼り、ホームページやブログやテレビや雑誌の取材などを通じて積極的にPRしようとしている人たちが、立候補者一人あたり数百万円の供託金を払った上で、確率の薄い誤投票だけを狙っているというのは辻褄が合わないでしょう。
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 当選した後はネットによる直接民主主義を目指すという公約がどこまで信頼できるものかは分かりませんが、彼らは少なくとも「支持政党なし」が政党名だと有権者に分かってもらった上で、現状の政党政治に不満があるなら自分たちに投票することでアピールの機会にして欲しいと望んでいるはずです。
 世間の注目は「既存の枠内での勢力争い」にばかり集まりがちですが、その枠組み自体を問いただそうとする姿勢も忘れずにいたいものですね。
 
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数学の計算ミスを減らす具体的な動作

 教師として高校生に数学を教えつつ、プライベートで和太鼓を教えることもある私の指導上のこだわりは、曖昧な精神論に逃げずにできるだけ具体的な解説を目指すこと。
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 この方針に従って、いつのころからか数学の計算ミスに関しても「気を付けろ」「よく見直せ」「ミスの重大さを肝に命じろ」といったありきたりな精神論以外の手法を伝えるようになりました。
 
 その方法とは、計算式を書きながら眼球を小刻みに動かし続けること。
 数学の問題では計算を進めるごとに何行も式を続けていくことがよくありますが、一つの式を書き上げるまでにの間に、今書いている式とその直前の式とを何度も見比べる習慣を身に付ければ、計算ミスは自然と減っていきます。
 
 この手法で計算ミスが減るのは、高校数学における計算ミスでもっとも多いのが単純な「書き写しミス」だから。
 前の式から次の式にうつるときにプラスとマイナスを写し間違える、数字が全然違うものに変わっている、xやtやaなど文字が別物に刷り変わっているなど、答えに至るまでの途中式が長くなるごとにこうした書き写しミスの出現頻度も増えていきます。
 
 やってしまった書き写しミスを修正するためには、自分の犯したミスに気付けないといけません。
 ですが、そもそも「書き写しミスはよく起こるもの」という認識を持っていなければ、自分に対して「書き写しミスをやってしまっているかも」という疑いの目を持てませんから、ミスの発見率は絶望的に低くなります。
 
 逆に「書き写しミスはよく起こるもの」という常識さえ身に付けていれば、一行書くごとに新たなミスは起こっているのかもしれないのですから、今書いている式とその直前の式とを見比べるなんてことは極々当たり前の話です。 
 仮に一行書くごとに視線の往復を5回しているとしたら、問題文から十行の途中式を書くまでに、50回はこの小刻みな眼球運動を繰り返していることになります。
 このように数十回の眼球運動を当たり前の癖のように修得してしまえば、後から見直すよりも時間がかかりませんし、計算ミスの発見率も飛躍的に向上します。
 
 大変面倒な作業に感じるかもしれませんが、計算ミスは「次の行に移るまでほんのわずかな時間しかないのにまさか間違えているはずがない」という己の記憶力への過信から生まれます。
 この手法自体も「さっさと先に解き進めていきたいけど、必ず起こるミスを無駄に見逃して、不安まじりの見直し作業を後に残したくない」という私自身のせっかちな性分から自然と生まれた、時間短縮のための工夫です。
 
 一朝一夕には身に付かないテクニックですが、高校1年の早い時期から意識して練習していけば、大学受験までには確固たる技術へと昇華させることができます。
 また、そこまで周到に準備しなくともこの作法の知識があるのとないのとでは大違いですから、数学のペーパーテストを受ける必要がある方は、これからでも試してみてはいかがでしょうか。

「事務ミス」をナメるな! (光文社新書)

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私たちは「懸命に生きる愚かなヤクザ」でしかない

 この世はもともと、お互いが自由に影響し合う世界です。
 殺し合い、奪い合い、騙し合い、妥協し合い、協力し合う。

たたかう植物: 仁義なき生存戦略 (ちくま新書)

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 このように、生存を賭けてそれぞれが好き勝手に影響し合っているのが生物たちの実態です。

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 そして私たち人間も、各々の都合に応じて己の望むものを獲得しようと生きています。

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 人間はこうした影響合戦の場に言葉という対人煽動兵器を導入し、正しさという作り話をでっちあげて互いの行動を制限し合っています。

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 その結果、目に見える殺し合いや奪い合いが抑制された比較的平和な近代国家で育ってきた私たち文明人は、こうした血みどろの影響合戦を生きているという自覚を持ちにくくなっています。
 ですが、今日私たちが野生動物から食い殺される脅威に怯えずに済むのは「そこにいたはずの動物たち」を殺したり追い出したりして人間専用の居住地を切り開いてくれた先人がいてくれたからであり、今日私たちが日本国内で治安の保たれた暮らしを享受できているのは過去の数々の戦によって国土が統一されて殺人や略奪を取り締まれるだけの実力を持つ 行政組織ができたから。
 私たちはいくつもの戦場で他人に武力をふるわせることで自分たちの安全を保障してきたのであり、私たちがぬくぬくと暮らしているこの平和な日常の世界はそういった数々の戦線の単なる後方に過ぎません。

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 その意味では、殺戮とも略奪とも騙しとも妥協とも無縁な人間なんて、ただの一人もいません。
 私たちはみな「懸命に生きる愚かなヤクザ」でしかないのです。

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 ですから、単なる戦線の後方でしか通用していない「正しさ」という作り話を真に受けて「間違えない人」「やましいところのない人」「瑕疵のない人」を目指してしまうと、「その目標をいつか果たせる」という無謀な期待は必ず裏切られることになります。
 思うようにいかない「愚かさ」や何かを傷つけてしまう「ヤクザ性」は、この世界で生きている以上避けようのない摩擦ですから、むやみに否定して嫌悪感情に陥らないように気を付けていきましょう。

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※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

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怒りや嘆きに振り回されないマインド

 怒りや嘆きといった感情に振り回されてしまうのは辛いもの。
 たとえそれが他者に向けたものであったとしても、怒ってしまった時点、嘆いてしまった時点で、その感情の炎は持ち主である自分にもチクチクとダメージを与えます。
 
 できることなら、私はこうした感情による自爆的な被害を極力避けたいと願っています。
 そのために私は「そもそもこのように認識しておけば怒りや嘆きの被害を軽減できる」という、私なりのマインドセットを捻り出しました。
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 それは「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」というもの。
 今回は、このマインドセットのもたらす効能についてプレゼンしてみたいと思います。
 
 まず、怒りや嘆きの発生源は「こうであるはずだ」「こうであるべきだ」という自分自身の勝手な期待です。
 叶うかどうかも定かでない身勝手な期待を大事に抱えてしまっているから、その淡い期待が裏切られてしまったときに怒りや嘆きを覚えてしまうわけです。
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 自身の勝手な期待が裏切られてしまったとき、幼稚な人は「期待を裏切った相手」を修正したがります。
 ですがその相手はその人なりに合理的な選択をしているだけであり、誰かの勝手な期待を満たすために生きているわけではありません。
 怒りや嘆きの炎で自分を焼くのが嫌ならば、修正すべきは「相手の行動」ではなく「自分勝手な期待」の方でしょう。
 
 そうした「自分勝手な期待」に必要以上に振り回されてしまわないために便利なマインドセットこそが「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」というもの。

 「自分勝手な期待」とは自分でも気付かないうちにいつの間にか身に付けてしまっている固定観念ですから、いくら持たないようにしようと気を付けたところで「勝手な期待を裏切られてイラッとする瞬間」の到来は避けることができません。
 そんなときに「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」という方便を常備しておけば、相手を「悪」や「間違ったもの」とみなして断罪するという深みにハマることなく、「愚かさ」や「不器用さ」や「下手さ」に同情するというより軽い症状に留めておくことができます。
 
 同情できるポイントは「相手は相手なりの基準で懸命に生きているはずだ」ということ。
 たとえ相手が自分に向けて直接的な敵意や害意をぶつけてきたときでさえ「そうでもしないと感情のやり場がないくらい未熟なんだから仕方ないな」と諦めがつき、断罪という深みにハマらずに済みます。
 さらに、こちら側のイライラの原因が「懸命さが見えない」「やる気が見えない」「不真面目に見える」というときでさえも、「当の本人には『一生懸命やらない』や『やる気を見せない』や『不真面目でいる』を一生懸命やっていなければ自分を保てないような事情があるんだろうな」という風に理解することができます。
 
 そして、それでも怒りや嘆きの炎が収まらない場合に恐いのは、同じ事態を許せている人を目の当たりにした場合に「怒りや嘆きに留まっている自分は駄目なんじゃないか」とさらなる自己嫌悪に陥ってしまうこと。
 ですが「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」としっかり理解しておけば、「思わず感情が燃え上がってしまうくらい自分も真剣なんだ」という風に受け止めることができ、自分に起きた反応を「いけないもの」として断罪してしまわずに「未熟さゆえのもの」としてより穏便に処理できます。
 同じ愚を犯すのが嫌なら今回下手くそだったところを今後は上手に対処できるように反省すればいいだけの話で、「あれは間違っていた」といつまでも自分にレッテルを貼ってひきずる必要はないのです。
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 生身の人間として生きる以上、怒りや嘆きの火種が着火してしまうこと自体は避けようのないこと。
 ですがそうした感情の火種を、小火のうちに鎮火させるかどんどん燃え上がらせて大火にしてしまうかは、その人の常日頃からの在り方次第です。
 もしこうした感情の炎で己の身を焼くのが嫌なのであれば、そもそも自分自身が「積極的に怒ったり嘆いたりしたがるような在り方」を選び取ってはいないか検討してみる必要があるでしょう。
 
 私はこれまで「私たちはみな懸命に生きる愚か者でしかない」という心構えを持つことで、「私の期待を外すなんて許せない」といった「己の在り方が招く自滅的な延焼」を最小限に食い止めてきました。
 怒りや嘆きの感情をゼロにすることができないならば、せめて自分自身の手で火に油を注いでしまわないよう心の減災に努めたいものですね。

  

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

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人類を左右し続けるマトリックス

 今回は「パーソナルマトリックス」という概念を導入することで、「他人を説得する」という行為の原理について考えてみたいと思います。
 これから提案する「パーソナルマトリックス」とは、人間が持っている意識のこと。
 私の考案する意識モデルのアイデアを分かりやすく伝えるために、映画『マトリックス』の世界観を借りてこう名付けてみました。 

マトリックス 特別版 [DVD]

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 映画『マトリックス』は、人間との戦いに勝利した機械が人間たちを支配する世界を描いています。
 機械は人間たちを培養カプセルの中で眠らせて、皆に「共通の夢」を見せることであたかも現実世界で生きている様な感覚を与えています。
 そこで機械が準備した人間のための仮想現実こそが「マトリックス」と呼ばれるプログラムです。
 
 これはSFの中のお話ですが、実はこの「マトリックス」と似たような現象が我々の脳内でも繰り広げられています。
 それが意識です。
 私たちの持つ意識は、人類の脳が歴史とともにアップデートを繰り返してきたシミュレーションのプログラムです。
 このプログラムは、脳内に造り上げた〈私〉という架空の主人公に意識という仮想現実を見せています。
 そしてこの仮想現実のクオリティーが向上するとともに、いつしか〈私〉という自我のプログラムは己がその身体の主であるかのような錯覚を覚えるようになりました。

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 映画の「マトリックス」との一番の違いは、その仮想現実の空間が共用スペースではなく、それぞれに別個なプライベートスペースだということ。
 そのような一人一人にとっての仮想現実の空間のことを、ここでは「パーソナルマトリックス」と呼ぶことにします。
 
 このパーソナルマトリックスのプログラムを可能にしているのは神経系による「喩え」の機能です。
 人間は言葉を獲得することによって膨大なバリエーションの比喩を造り出せるようになり、その豊富な「喩え」のおかげで意識という特異なプログラムを脳内に編み出すことができました。
 つまり、私が生きている「この世界」は脳が自分で造り出した比喩の世界であり、他の誰とも共有していないオーダーメイドの一点ものなのです。

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 人は皆、それぞれのパーソナルマトリックスという幻の世界を生きているに過ぎない。
 脳科学の分野において、このような知見は特に珍しいものではありません。
 大きな本屋さんに行けば、類似の見解を述べた文献がいくらでも見つかるでしょう。

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 今回の目的はそれらの知見を紹介することでなく、その先の問題である「セルフマトリックスを生きるとはどういうことか」を伝えることにあります。
 私たち人間は、いつの時代からか「言葉は(皆が共有している)現実世界を記述するためにある」という造られたフィクションに洗脳されるようになりました。
 その洗脳が最も顕著に現れてしまうのが「他人を説得する」という場面です。
 
 例えば、あなたの意識と私の意識は別の脳が造り出した全くの異世界なので、「あなたの世界がどうなっているか」を私が把握するのは原理的に不可能です。
 ですが、「言葉は現実世界を記述するためにある」と信じ込んでいる人は、「共有の世界がどうなっているのか」と説明するふりをして他人の在り方を左右しようとします。
 このとき実際に行われているのは「共有する現実世界の記述」なんかではなく、相手のパーソナルマトリックスに対する「比喩の植え付け」です。
 
 そもそも言葉自体に比喩を造り出す作用が必ず付きまとうので、言葉を発する際に起こる「比喩の植え付け」現象はどうあがいても避けることができません。
 もちろん「今あなたに読んでいただいているこの文章」自体も私たち人間の「共有する現実世界の記述」ではなく、著者である私から読者であるあなたへの「比喩の植え付け」でしかあり得ません。
 
 まさにここに「パーソナルマトリックスを生きるとはどういうことか」 を理解している人とそうでない人との違いが現れます。
 「言葉は現実世界を記述するためにある」というフィクションを真に受けた上で「事実を語る」ような言い方をしてしまうと、それは「比喩の植え付け」という説得の側面をオブラートに包んだ騙し討ちの洗脳工作になってしまいます。
 ですが 「比喩の植え付け」の原理が分かっていれば、「己のどの発言もあなたへの説得でしかない」と種明かしをすることで、少なくともその種の騙し討ちだけは防ぐことができます。

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 この「自分自身が発する言葉」と「自分自身に向けられる言葉」への洞察こそが、今回一番お伝えしたいことです。
 言葉というものは比喩を造り出す影響力として生まれたものであり、各々のパーソナルマトリックスの在り方は比喩の受け取り方次第で千差万別です。
 言葉の一つ一つに正しさや確かさを求めてしまう人は、言葉が「共通の世界」を説明するためのものではなく、人に影響を与えるためのものでしかないことに気付けていません。
 
 そのような人が囚われている「言葉は現実世界を記述するためにある」という固定観念は、「比喩の植え付け」の威力を増すためにでっち上げられた説得のためのフィクションでしかありません。
 正しさという概念も説得のための方便の一つであり、 「こちらが正しい」とか「何が正しいのか分からない」とか「本当の正しさなんてどこにもないじゃないか」などと本気で訴えている人は、その方便が理解できずに「真理教」という隠れた宗教の信者になってしまっています。

 言葉なんてそもそも喩えを造ることしかできないのだから、「何が正しい記述か」なんて白黒ではなく「どんな喩えが相手のパーソナルマトリックスを揺さぶる説得力があるか」という巧拙の次元でしか人は語ることができません。
 そういった「世の中の全ての発言は記述ではなく説得である」という認識こそが、成熟した人間が身に付けている大人のリテラシーではないかと私は考えます。

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 ブログ「間違ってもいいから思いっきり」を立ち上げようと思ったのは、記述というフィクションに騙されてパーソナルマトリックスを暴力的に書き換えられてしまう「真理教」の被害者を世の中から少しずつ減らしていくため。
 そのためにも「今の発言は聴き手にどのように思わせたがっているか」という説得の効果を当たり前に考慮に入れて全ての言動と付き合うという大人のマナーが、もっともっと世に広まってくれたらと願っています。

 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

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無理矢理思い込まなくても前向きにはなれる

 私は小さいころから不器用で、球技などの運動も得意ではないし、何より対人関係を作っていくのが苦手でした。
 たまたま向こうから声をかけてくれれば友人になれますが、自分からアプローチして友人を作ったことなどほとんどなかったと思います。
 
 自分からきっかけを作っていく勇気なんてありませんでしたし、それ以前に「自分から働きかけて友人を作る」なんて選択肢があるということすら考えたことがありませんでした。
 私にとって友人とは、偶然にできるものでしかなかったのです。
 そしてそうやって偶然できた友人以外とは上手く話せませんから、必然的に交友の幅が狭くなります。
 
 中学校にあがったとき、新しいクラスに知り合いは1人しかいませんでした。
 知り合いもほとんどいないしクラスの雰囲気も小学校のころとは全然違うのでなんだか上手く馴染めません。
 なんとなく馴染めないままでいると毎日が息苦しくなってきます。
 
 そんな戸惑いをひそひそ馬鹿にされたりすると、もうどうでもよくなってきます。
 「あんなやつらとは係わり合いにならなくていい」
 そのように思い込むようになりました。
 
 もちろん何人かの友人はできましたが、その他大勢のクラスメートは自分を脅かしかねない存在に見えていたのです。
 そんなびびりを表に出してつけこまれないためにも、感情を押し殺しながら学校に通うようになりました。
 
 2年生に上がってクラスが変わったときも、なんとなく警戒しながら感情を押し殺して毎日を過ごしていました。
 3年生になり、あるクラスメイトが積極的にクラスの仲間に入れてくれたことで、それまで作り上げてきた堅い殻を少しだけ崩すことができました。
 
 高校に入ってからは中学時代ほどおびえたりはしませんでした。
 一緒に麻雀をやったり一緒に馬鹿をやったりする友人もできました。
 中学のはじめに作り上げた堅い殻はだんだんとほぐれていきました。
 
 しかし、感情をあらわにしない癖も残っていますし、対人関係への苦手意識は依然としてありましたし、「自分から働きかけて友人を作る」なんてことは考えもしません。
 また、自分とは合わないタイプの人間についても、「見下す」という中学のときに身に着けた方法をいまだに選んでいたと思います。
 
 たとえば、当事流行り始めたプリクラの存在が私は気に入りませんでした。
 プリクラを利用する連中がギャーギャー言って浮かれているのを見ると無性に腹が立ちました。
 「自分の顔なんて撮って恥ずかしくないのか?それともやつらは自分の顔がかわいいとでも思っているのか?たとえ人からかわいいと認められているやつだってそんな自惚れは醜いし、そうでないやつならなおさらだ!もっと自分に対して謙虚に評価できんのか?」なんて勝手な理屈を作り上げて心の中でコケにしていました。
 そんな些細なことで腹を立てていたのは、「あんなやつらとは係わり合いにならなくていい」と言ってしまうことで、対人関係に腰が引けていた自分を正当化しようとしていたからだと思います。
 
 そして大学に入ったときに転機が訪れました。
 「3000円で3泊4日のキャンプに行けるけど行かない?」
 高校時代の友人がそう誘ってきたのです。
 
 夏休みに何の予定もなかった私は、特に迷うことなく「3000円ならいいや」と思って承諾しました。
 そのキャンプは子供の活動を推進するグループが主催しているもので、高校生・大学生・社会人は子供たちの引率という役割によって参加費が低く設定されているということでした。
 
 キャンプに参加する子供はいくつかのグループに分かれており、それぞれのグループは子供たち同士の話し合いで運営していきます。
 その話し合いのリーダーは中学生で、中学生主体のグループ運営をバックアップするのが高校生以上の私たちの役目でした。
 
 それまでの私にとって、自分から積極的に子供と関わっていくなんてまず考えられませんでしたから、あらかじめそのような役割について責任感を抱いていたら「参加する」とはとても言えなかったでしょう。
 最初はそんなシステムや役割のことが分かりませんし、「まあ子供のことはほかの引率者が何とかしてくれるだろう」と無責任なことを考えていたから気楽に承諾できたのです。
 そのようにして、私は子供たちの話し合いの場に投げ込まれることになりました。
 
 「話し合いがある」と言って連れてこられた団地の集会所には中学生の女の子がいました。
 なかなか社交性のある子で、初めて会う私に挨拶をして名字が自分と一緒だということで話を盛り上げていました。
 「お、どうにかやり過ごせるかも?」
 と安心したのもつかの間、集会所には子供がわんさか詰め掛けてきました。
 小中学生が合わせて15人くらい、高校生以上の私たちが5人くらいだったと思います。
 「えー、こんなの無理かも?」
 次々と現れる知らない人たちに正直びびりあがりました。
 
 子供たちの出欠が確認されるとキャンプについての話し合いが始まります。
 話し合いは子供たち主導で進んでいくので、おとなしく見てれば話し合いの間はやり過ごせそうです。
 先ほどの女の子がこのグループのリーダーらしく、言うこと聞かない小学生たちをなんとかまとめながら話し合いを進めます。
 中学1年生のその子が、大学1年生の私にはとても真似のできないことをやっているので呆気にとられます。
 そして高校生たちはやんちゃな小学生をなだめて話し合いに参加させます。
 その様子から彼らが子供たちに信頼されていることが分かり、年下の彼らに対して尊敬の念でいっぱいです。
 そして私の友人はそのグループの責任者として全体を見回して、話し合いが滞りなく進むよう気を配っています。
 「こんなことができる人なの!?」と、びっくりしてしまいました。
 
 自分はこんなグループの中で3泊4日のキャンプに行くわけです。
 「自分はこの中に仲間として受け入れられるんだろうか?」と不安になってきますが、話し合いを見守っているうちに「その場に自分は関わっている」という責任感もでてきます。
 私は生まれてこの方、積極的に「人と仲良くしたい」なんて考えたこともありませんでしたが、今度ばかりは話が違います。
 「こんなやつらとは係わり合いにならなくていい」なんてことで、3泊4日もの間ずっと息苦しい思いをするのは嫌です。
 「仲良くなれたらいいなあ」と切に願った瞬間でした。
 
 しかし、こちらからアプローチしていった経験なんてまるでないので、見知らぬ子供たちに向かって何を話しかけてよいか分かりません。
 そのうちに話し合いが終わり、ゲームの時間になりました。
 公園に出て「けいどろ」が始まります。
 この年になって「けいどろ」をやることになるなんて予想外の事態でしたが、少なくともこの「けいどろ」は子供たちが希望して始めたゲームです。
 下手に手加減したり受けを狙ったりするのはゲームにまじめに取り組んでいる子供たちに失礼だと思い、私は本気で逃げ回りました。
 
 よく考えてみれば私は小学生のころ鬼ごっこが大好きで、近くの公園に友人と集まって毎日のように夕方まで走り回っていたのでした。
 子供たちはニューフェイスの私を集団で取り囲んで追い詰めようとしますが、私もすばしっこく身をかわしてなかなか捕まりません。
 足の速い中学生の男の子にぎりぎりまで追い詰められましたが、とっさに地面に転がってかわしました。
 砂まみれになってまで「けいどろ」に打ち込む私を見て中学生たちは「この人は自分たちから適当に距離をとるような、いけ好かない大人じゃない」と判断したんでしょうか、その集まりが終わるころ、私は中学生たちに受け入れられたと感じることができました。
 
 そして小中学生が帰ったあと、高校生以上のメンバーが残って先ほどの会の反省会が行われます。
 私はそこでもすでに仲間として受け入れられているという感触を得ました。
 私がさっきまでそこでびびりまくってたことなんて誰も気づいてないように見えます。
 「初めて入った小学4年生にまだ緊張してる子がいるけど、どのように対応していこう?」なんて話題に、私も一人前の顔をして参加しています。
 
 自分にも身についていない対人関係の能力について語るなんておかしな話でしたが、子供たちの対人関係を築く能力について客観的に論じるという作業を通じてそれなりに意見もできあがってきます。
 それによって自分を見つめなおすこともできました。
 
 一般に、自分に対して「仲良くなりたい」という感情を素直に表してくる相手のことを悪く思う理由は特にありません。
 私はこれまで「自分は対人関係が苦手だ」と決め付けることで、この「仲良くなりたい」という気持ちを素直に表現したことはありませんでした。
 そんな気持ちを表したところで叶うわけないと思っていたし、失敗して惨めな思いをするのはプライドが許さなかったんでしょう。
 
 しかし、どうでもいいプライドを吹っ切って「仲良くなりたい」という想いで行動してみたら予想外の結果が起こりました。
 「仲良くなりたい」という気持ちを素直に表す。
 たったこれだけのことで対人関係はかなり変わってくるのでは?
 それまで対人関係にまるで自信のなかった私にとっては大発見でした。
 
 これを機に、グループ内の活動ではどんどん自分を出せるようになっていき、友人もたくさんできるようになりました。
 そのうち別の子供のグループの責任者を任されるようになったり、キャンプの実行委員長を務めたり、新しい企画を打ち出したりと、精力的に活動するようになりました。
 「人付き合いが苦手だ」と思い込んでいた少年時代からは考えられない変化です。
 私にとってその時代は、それまでに養えなかった対人関係の能力を一から鍛えなおす時期だったのだろうと思います。
 
 それまでの私は「自分は人付き合いが苦手だ」という強固な思い込みのおかげで、「仲良くなりたい」と素直に意思表示する、というはじめの一歩を常に踏み損ね続けてきました。
 「勝手に決め付ける」という行為がいかに不利益を生みうるかを実感した瞬間でもありました。
 この発見のおかげで、私は「勝手に決め付けない」というマナーを自分に課すようになり、子供のころから身に着けてきた殻を少しずつ破るようになりました。
 
 「自分は人付き合いが苦手だ」という決め付けは、「仲良くなりたい」という感情を素直に出すというきっかけをもとに、少しずつ人前に自分を出すことができるようになって払拭されていきました。
 「自分は体を動かすのが苦手だ」という決め付けは、プロレスラーへの憧れから「今よりでかくて重い体になりたい」と思いトレーニングの本を読んで毎日トレーニングしているうちに、「開発していけば体の性能は上がる」という認識を得ることで払拭されました。
 「自分には人を喜ばせる能力がない」という決め付けは、「おじいちゃんになるまでに何か人を喜ばせる芸を身に付けたいなあ」と思っていたら友人から和太鼓のサークルに誘われ、田楽座というプロの歌舞劇団から受けた講習がきっかけで太鼓や笛や踊りに真剣に打ち込むようになり、「すごいね」「元気がいいね」と認めてくれる人ができたことで払拭されました。
 「自分は人と接するのが苦手なので、人とあまりかかわらずに生きていくしかない」という思い込みは、子供とキャンプに行ったり、サークルを取り仕切ったり、幹事役を数多くこなしたり、数学を教えたり、太鼓や笛や踊りを教えたりしているうちに、人と接することに関しての苦手意識も若干薄れており、当初の思い込みとは逆に「田楽座から学んだ民俗芸能を通して、人の輪を紡いでいきたい」とまで思うようになっていました。
 
 基本的に、「人間がどういう存在であるか」なんてこと自体、長年研究している科学者ですら大して分かっていないこと。
 それなのに自分ごときの権限で「自分はこういう人間である」と決め付けても、それが間違った思い込みである可能性はいくらでもあります。
 そんな根拠の薄い決め付けをもとに「自分にはできない」と判断するよりは、とりあえず「自分にできるかどうか」を試してみたほうが先々の可能性が開けます。
 
 私は「勝手に決め付けない」というマナーを採用することで、このような「前向き」な考え方をするようになっていました。
 私にとって「前向き」とは、「自分にはできる」「ポジティブにいこうぜ」などと無理矢理思い込んでなるものではありません。 

【日めくり】 まいにち、ポジティヴ!  (ヨシモトブックス) ([実用品])

【日めくり】 まいにち、ポジティヴ! (ヨシモトブックス) ([実用品])

 
(日めくり)まいにち、修造!

(日めくり)まいにち、修造!

 

  「自分はこういう人間であるという証明もできない思い込みを根拠にして、自分の可能性を勝手に限定して不利益を被るなんて馬鹿馬鹿しい」という損得勘定から結果的に生まれたものだったのです。

 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

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動物としての身の程をわきまえよう

 「こうあるべき」とか「正しいかどうか」という価値判断のあり方は、他の動物には見られない人間固有の奇習。
 自分なりの生き方を考え抜いていた学生時代、私は世の中と上手く付き合っていくためにはこうした「真理教」とも呼べる独特の宗教の仕組みを解明することが必要だと考えていました。

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 そして、考えば考えるほど「価値判断というのは全て人の勝手な都合によって雇われたレフリーである」という仮説が私の中で有力になっていきました。
 この「人の勝手な都合」については、3つの側面に分けて考えることができます。

 

 まずは「世の中との付き合い方」に関する都合です。
 「この世の中を生きていく際に、どのような選択をしていけばよいか」という問題がありますが、この問いに対して真理教は便利な解答を示してくれます。
 まず大まかな方針としては「こうあるべき」とされている生き方を選択すればよく、迷ったときには「正しい」とされていることを選べばよく、そのようなやりかたが「真理」として保証されているのです。
 自分の頭で考えるのが面倒なマニュアル人間にとっては、まさにうってつけの考え方と言えるでしょう。
 
 次に「人との付き合い方」に関する都合です。
 真理教の信者にとっては、「こうあるべき」「これが正しい」と言えるものが行動の原理です。
 このような信者を「自分の都合」の通りに動かそうと思ったら、どのような戦略をとればよいでしょうか。
 これも簡単なことで、やらせたいと思うことがあれば「こうあるべき」「これが正しい」と言って助長すればよく、やらせたくないと思うことがあれば「そうあってはならない」「それは間違っている」と言って抑止すればよいのです。
 人の行動を思うままに操りたいと望む人にとっては、なかなか効果的な戦略と言えるでしょう。
 
 そして最後は「自分との付き合い方」に関する都合です。
 真理教の信者にとって、「こうあるべき」「これが正しい」「これが真理だ」というのは自分に確固たる信念をもたらしてくれる精神安定剤です。
 本気でそう思い込むことができれば、自分の立っている土台はどんなことがあっても揺らぐことのない頑丈なものだとずっと信じていられます。
 しっかりとした土台がなければ自分に自信が持てないという方にとっては、すがりつくしかない救いとも言えるでしょう。
 
 これだけいろいろとメリットのある真理教ですが、これらの恩恵を受けるには「人の勝手な都合によって作られた」という出自をオブラートに包んでしまわないといけません。
 なぜって真理教の教えでは、真理とは「人の都合を超えた絶対的な権威」として説明されているからです。

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 この考え方こそが真理教の生命線ですから、この根本を危うくするような考え方は何としても駆逐せねばなりません。
 そこで真理教が用いた戦略の一つが「人間は他の動物よりも上等な生物である」という人間たちへのご機嫌取りです。
 
 人間固有の価値判断に対する私の評価は「人の勝手な都合によって雇われたレフリー」ですが、真理教においては「人間が他の動物よりも優れている証拠」として解釈されます。
 人間は動物にはない理性を持っており、その理性によってこれらの価値判断が生じている、よってこれらの価値判断に従って「あるべき姿」「正しい道」を選択しようとする性質が優れた動物としての証拠である、というわけです。
 この「人間は他の動物よりも上等な生物である」という人間にとって好ましい結論は真理教という宗教を受け入れないと得られない恩恵ですから、人間側もこの真理教を積極的に取り入れようとします。
 
 つまり、「人間は他の動物よりも上等な生物である」という考え方は、真理教が人間にプレゼントした数多くの賄賂のうちの1つなのです。
 しかもこの賄賂を受け取らない者に対しては、「あいつは動物と同レベルの下等な人間だ」という報復措置まで用意してあります。
 この賄賂は私の目に、人間にはびこった巨大な癌のように映りました。

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 もともとどんな動物だって他の種類の動物とは違っており、他の動物と違うのは人間だけではありません。
 私にとっては「人間は動物の一種でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない」という、人間を特別視しないとらえ方のほうが説得力を持っていました。

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 しかし、「人間は他の動物とは違う」という意見は昔からあります。
 霊長類なんてネーミングも「人間は万物の霊長であり地球上で最も優れた生物である」なんて思想から来ているわけだし、「理性と本能」という分類も「人間は動物と同じではない」と主張するための根拠として用いられるわけです。

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 それでも私は「人間と他の動物との違いなんて種としての個性でしかない」という風に言ってしまいたくなります。
 「脳が発達していて道具や言葉や概念を扱える」というのは、「翼を持っていて空を飛べる」というのと同じように、動物としての個性の範疇に収まるものではないでしょうか。

“人間も動物
 

 
 私は「なぜそれだけじゃ気が済まないのか」という頑迷なこだわりのほうに目を向けたくなります。
 それは、「人間はほかの動物よりも格上だ」と思ったほうが単純に気持ちいいからじゃないでしょうか。
 この予想に従えば、「理性と本能」の分類を根拠に「人間は動物と同じではない」と主張する人は、動物的な本能を見下しておきながらやっていることは気持ちよさの追求でしかないのです。
 
 これには「たとえ気持ちよさの追求だとしても、人間と動物では欲望の対象となるものが違う」という反論があるかもしれません。
 この言い分については「マズロー欲求段階説」を参考にしながら検討してみましょう。
 この説は「人間の欲求は5段階のピラミッドのようになっていて、欲求は底辺から始まり、下の段階の欲求が満たされると、もう1段上の欲求を目指すようになる」というもので、欲求の5段階のピラミッドとは以下の通りです。
  
①生理的欲求
「眠たい」「食べたい」「性交したい」
 
②安全の欲求
「死にたくない」「身を守りたい」「安心したい」
 
③親和の欲求
「他人と関りたい」「他者と同じようにしたい」「集団に帰属したい」
 
④承認の欲求
「認めてもらいたい」「尊敬されたい」
 
自己実現の欲求
「自分の能力を発揮したい」「成長したい」「自分だけの生き方をしたい」
 
 「人間は動物と同じではない」と主張したがる人は、「下等な動物は低い段階の欲求しか持っておらず、高い段階の欲求を持っている動物こそ高等なものである」という方便を使って「人間が一番高等な動物である」という結論に結び付けます。
 そして、より低い段階での欲求を優先して満たそうとする性質を「本能」と呼び、より高い段階での欲求を優先して満たそうとする性質を「理性」と呼ぶことにして、「人間には他の動物にはない理性がある」という理屈で人間と動物との差別化を図ろうとするのです。
 しかし、それでも私は「人間と動物の行動の原理に大した差はない」と言いたくなります。
 
自分の都合を満たすために「自分にできる限り」の損得勘定をした上で行動する
 
 これが人間にも動物にも共通している行動原理として、私がそれらしいと思えるものです。
 こう言うと「利他的な行動もあるので、自分勝手な都合とは関係ない行動原理もある!」という反論が一応浮かびますが、「利他的な行動をしたい」という欲求も含めて私は「自分の都合」と呼びたいと思います。
 また、「動物は損得勘定なんかしない!」という反論も考えられますが、ここでは「腹が減っていて目の前には食べ物があるけど、危ないものを食べて体を壊すのは避けたいから、匂いをかいでチェックしてから食べる」という動物の行動も、立派な損得勘定によるものだとみなします。
 そして人間は「たまたま個性として脳が発達している」ため、自分の都合を満たそうとする際の損得勘定を他の動物よりも複雑に行うことができるというだけなのです。
 
 また、脳が発達していて概念というものを手に入れているために、損得勘定の出発点となる「自分の都合」自体も複雑になっています。
 「人間には他の動物にはない理性がある」という人に対しては、「理性と本能は対立する概念ではなく、ただ損得勘定の複雑さが違うというだけだろう?根本となる行動原理は一緒じゃないか」という反論を返します。
 損得勘定における「自分にできる限り」の範囲が他の動物より広いというだけで、それは人間の持つ「動物としての個性」に過ぎないのです。
 
 私がここで批判したかったのは「脳みそ至上主義」とでも呼べるものです。
 「脳みそが発達していたら動物として格上だと言える」というのは、「脳みそが発達しているかどうか」というレフリーを勝手に雇ってジャッジしているということです。
 
 脳みそが発達している人間が「脳みそが発達しているかどうか」を基準に「どんな動物が高等であるか」を格付けをするのだから、「人間が一番高等な動物である」という結論が出るのは当たり前です。
 このルールを採用したことで敗者となってしまう他の動物は人間サイドでどんなゲームが行われているかを知ることができませんから、知りもしないゲームのルールに反論するなんて思いつくわけがないのです。
 
 もし仮に他の動物がこの「どの動物が格上かゲーム」をしたらどうなるでしょうか。
 人間が「脳みそが発達しているか」をルールとして勝手に採用するのなら、鳥だって「空を飛べるか」というレフリーを雇ってもいいはずです。
 そうすれば鳥たちは、飛べない動物たちを見て「地を這いつくばっている下等生物ども」と思うことができるでしょう。
 たとえ人間たちが飛行機を発明して自分たちの領域に踏み込んできたとしても、「道具なんか使わずに生身の力で成し遂げるのが良いことだ」というレフリーを雇えば、「卑怯な手段を使う下賎な動物ども」と言うことができます。
 
 つまり「人間は動物と同じではない」という主張は、この鳥たちの主張と同じ構造を持っているということです。
 レフリーの雇い方によってはどんな動物だって格上に設定できるわけで、別に人間だけが特別なわけではありません。

 私はこのような理由で「人間を高く位置づけようとするこだわり」に強い違和感を抱きました。
 そして「人間は動物と同じではない」と主張するために雇われたレフリーたちにはいかなる説得力も感じなくなりました。
 
 そのレフリーたちとは、是非・善悪・義務と権利・倫理観・「こうあるべき」・審美観・「***は+++より素晴らしい、格上だ」というような価値判断の全て・などなどです。
 これらのレフリーたちは、個人個人の都合やその場の力関係によって採用されたり無視されたりする場当たり的な概念でしかありません。
 
 そこにあるのは、「自分の都合を満たすためにはどんな力を使えば良いか」という弱肉強食の世界における損得勘定です。
 つまりこの「人間を高く位置づけようとするこだわり」は、動物的な弱肉強食の世界観の手のひらの上で転がされているわけです。
 
 そう考えた私は、価値にかかわるあらゆる概念を「人間社会を優位に生き抜くための方便に過ぎない」とみなして却下し、世の中を観察するためには「都合」と「力」という動物の世界のルールしか活用しないことにしました。

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 それは、「動物としての身の程をわきまえよう」という決意だったのです。

 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

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自粛するもしないも本人の勝手

 熊本地震が2016年2月14日に起こってから今日で3日目。
 テレビでは報道番組のCMがACのものに差し替えられたり、SNSでは警告やお役立ち情報や政治的な主張などが溢れたりと、東日本大震災のときに一度見たような光景が次々と現れました。
 こういった諸々の事象が積み重なって、5年前には集団心理という巨大な2次災害が日本を覆っていたように記憶しています。

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 ですが、今回の熊本地震における集団心理災害は、5年前よりも格段にマシになっているように感じます。
 それが顕著に表れているのが、以下に引用するような「著名人による熊本地震での自粛ムードへの苦言」です。
 
実業家の堀江貴文氏が16日、同日に生出演する予定だったネット番組「坊主麻雀」が、熊本地震への配慮で延期されたとして、ツイッターで「バラエティ番組の放送延期は全く関係無い馬鹿げた行為」「アホな放送局だ」との批判を展開。番組の優勝賞金の500万円を「被災地に全額寄付して、番組は中止に」と迫った。
この日、放送局側が番組の放送延期を決めたことに、堀江氏はツイッターで「熊本の地震への支援は粛々とすべきだが、バラエティ番組の放送延期は全く関係無い馬鹿げた行為」「おめーらが自粛した所で被災者が助かる訳では無いんだがね。テレビ東京の爪の垢を煎じて飲め」と厳しい文調で批判した。
堀江氏は「俺たち地震の被害を受けてないものは出来るだけ普段通りの生活をしながら無理せず被災者支援を行うのが災害時の対応だろう」との持論を展開した。

www.daily.co.jp


熊本地震を受け千葉県浦安市東京ディズニーシー(TDS)で開園15周年記念イベントのオープニングセレモニー中止や、東京都内でも会見の中止やイベントの自粛が相次いだが、これに本田は「僕は自粛するのは間違ってると思います」ときっぱり。
「こういう時だからこそ、各々に与えられた役割を行動に移すことが求められているんじゃないでしょうか」と疑問を投げかけると、「多くのケースの場合は被災者の為ではなく『商品が売れなくなる』、『批判をされるから』という理由で自粛してるのなら、それはありえない」と持論を展開。
最後に「本当に被災者らのことを思うなら、自粛どころか積極的にやるべきでそれを通じて何ができるかを考えたほうが良いんじゃないでしょうか」と訴えかけた。

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 こうした発信は、5年前の東日本大震災直後には見られなかったもの。
 この違いは単純に「被害の規模の違い」から生まれているのかもしれませんが、それよりも「5年前の愚かな悲劇に対する反省」という要素の方が大きいように思います。

 
 5年前に目立っていたのが、人や企業が通常通りの活動を行うことに対して「非常時には不謹慎だから自粛しろ」といったバッシングを浴びせる行為です。
 本来なら、自粛しようが自粛しまいが本人が自分の気分や考えで勝手に決めればいいこと。
 ですが、あたかも「自粛するのが当然であり正義だ」とでもいうような言説が蔓延してしまい、そうした圧力によって人々が自分のペースで生きていくことが阻害され続けたのでした。

  

今回紹介したホリエモンや本田の発言の真意は「自粛を強制されているという勘違いを捨てろ」という点であり、「誰であろうが自粛するやつは許さん」という意味では決してないんだろうと私は受け取っています。
 「馬鹿げた行為」だとか「自粛するのは間違ってる」などと自粛する派を責めるような口調になってしまっているのは、自粛する派が過去に犯してきた自粛しない派へのバッシングに対する反動のようなものでしょう。
 こうした強い反動によって、逆に責められる立場に陥ってしまった自粛する派を擁護したのが、以下に引用する尾木ママです。
 
尾木ママ地震発生以後、民放各社がバラエティー番組の放送延期、中止など自粛ムードがあることについて「水も食料もなく避難所にも入れないでグランドで寒さのなか身を寄せあっておられるたくさんの被災者の皆さん」がいる状況では、「普段通りの楽しい番組構成にブレーキかかるのあまりにも当然!人間らしい共感能力あれば自粛して工夫しょうとするのはあまりにも当然!」とつづり、“番組自粛”という対応は「人として豊かな心遣いではないでしょうか」と私見を述べた。

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 この尾木ママの反論は、ホリエモンや本田の発言を言葉通りに「自粛しないことを強要するもの」と受け止めたが故に起きたもの。
 自粛しない人が自粛しないことについてとやかく言われたくないのと同じように、自粛する人の方も自粛することをとやかく言われたくはないのです。
 結局のところ、衝突の源となっているのは「自粛することの強要」や「自粛しないことの強要」であり、要点は「自粛の有無」ではなく「強要の有無」なんです。
 
 5年前が異常だったのは、自粛することを強要する勢力が強過ぎたために、自粛したくない派の肩身があまりにも狭かったこと。
 今回は、自粛しない派が反論する力を蓄えたことによって、自粛する派も自粛しない派も各々の言いたいことを比較的自由に言いやすくなっています。
 そんな様子を見ていると、5年前の愚かな悲劇も無駄ではなかったのだなと感慨無量です。

 
 
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どちらを想定外にしますか?

 「何でこんな簡単なこともできないんだ?」というのは、教えるのが下手糞な人の決まり文句です。
 できない人に教えるための第1歩は「できないということがどこまでありうるか」という想像力の範囲を広げること。
 
 このことを、中学校の理科で習う電流計にたとえてみましょう。
 電流計のマイナス端子には、5A・500mA・50mAの3種類が用意されています。
 たとえば75mAの電流を測りたいと思ったらどの端子を選べばよいのでしょうか。
 
 50mAの端子を選んだ場合、測ることのできる最大の電流が50mAまでしかないということですから、75mAの電流を測ろうと思ったら針が振り切れてしまいます。
 この場合だと電流が50mAより大きいということは分かりますが、100mAかもしれないし、1Aかもしれないし、どれくらい大きいかということが分かりません。
 
 5Aの端子を選んだ場合、5Aとは5000mAのことですから、75mAは目盛り全体の1.5パーセント程度しかありません。
 電流計の目盛り自体がそんなに大きくないので、電流が小さいことはわかりますが、細かな差はよく分かりません。
 
 500mAの端子を選んだ場合、針は目盛り全体の15パーセントのところを指すことになり、かなり正確な測定をすることができます。
 
 さらに多くの端子を備えた電流計を想像してみましょう。
 5pA(1兆分の5A)・50pA・500pA・5nA(10億分の5A)・50nA・500nA・5μA(100万分の5A)・50μA・500μA・5mA(1000分の5A)・50mA・500mA・5A・50A・500A・5kA(5000A)・50kA・500kA・5MA(500万A)・50MA・500MA・5GA(50億A)・50GA・500GA・5TA(5兆A)・50TA・500TAなど端子が多ければ多いほど、さまざまな大きさの電流をより正確に測定することができます。
 
 ここで生徒の実力の「高さ」を、電流の「小ささ」「細かさ」でたとえてみましょう。
 そうすると、生徒の実力が高ければ高いほど電流は小さくなるので細かい枠組みで測定せねばならず、生徒の実力が低ければ低いほど電流は大きくなるので大きな枠組みで測定せねばなりません。
 つまり、さまざまなレベルの生徒に合わせて指導できるのは、この端子の種類を豊富にとり揃えている指導者だというわけです。
 
 「何でこんな簡単なこともできないんだ?」と腹を立てる指導者は、この端子の品揃えが悪い先生です。
 最大で5Aまでの端子しか持っていない指導者は、4.2Aの実力の生徒が3.8Aに向上するのをサポートすることはできます。
 しかし23.5Aの生徒については、その実力を測ろうとしても針が振り切れてしまいますから手の施しようがありません。
 
 では23.5Aの実力しかない生徒について、この指導者は対応できないのでしょうか。
 それは、この指導者が50Aの端子を身につけようとするかどうかにかかってきます。
 もし教師が50Aの端子を身につけることができれば、生徒はその教師のもとで23.5Aの実力を20A→15A→10A→5Aと上げることができ、当初の目的である5Aの端子の範囲内での指導に移ることができるでしょう。
 
 しかしそれが分からない指導者は、ここで努力とか才能とかいう概念を持ってきます。
 自分の指導できる枠組みに生徒が入ってこれないのは、「本人の努力が足りないからだ」とか「どうがんばってもあいつの能力では無理だ」という方法で説明してしまうのです。
 
 「やればできる」とか「自分から取り組まなきゃ駄目だ」という精神論や、「できるやつにはできる、できないやつにはできない」という才能論で、自分の技術の低さをごまかすのは簡単です(指導の技術としての精神論もありだと思いますがここでは取り上げません)。
 しかし、ここで自分の技術の低さを認めて必死で想像力を働かせられる指導者は、自分の使用できる端子の種類を増やしていくことができます。
 
 では、私自身がどうやってこの端子を増やしてきたかについて説明してみましょう。
 私がまず思い当たったのは「自分も生まれたときからできていたわけではない」というシンプルな事実でした。
 つまり私はできない状態からできる状態に変化してきたわけです。
 
 その変化が起こったのは、できるために必要な「ステップの超え方」を知ったからです。
 私は、この「ステップの越え方」のほとんどは才能として生まれ持ったものではなく、無意識のうちに知識として身につけたものだと考えました。
 
 問題は、そのとき知った「ステップの越え方」がどんなものだったかということです。
 今では当たり前だと思っている「できる状態」を、自分はどのような「ステップの越え方」を用いて手に入れてきたかと必死に想像力を働かせることで私はこの端子の数を増やしてきました。
 
 そう考えるようになったきっかけは、家庭教師を始めた大学1年のときに「数学と理科がまるでできない」という生徒と出会ったこと。
 この生徒は高校受験を控えていましたが、数学は計算問題くらいしか手がつかないし、理科は計算が絡むとほとんど無理で、天体の動きや化学変化などの仕組みも理解できていませんでした。
 
 しかし、この生徒には明確な目標とやる気を備えていました。
 生活リズムを自分の責任で管理し、毎日の勉強のスケジュールをみっちり組んで実行していました。
 分からないことがあると納得できるまで喰らいついてくる根性もありました。
 
 そんな意志の強さに尊敬の念を覚えながら、私はこの生徒が理解できるような説明を必死で考えました。
 小・中・高と暗記の絡まない分野に関しては特に苦労することなく習得してこれた私は、「どうして自分にそんな偶然が起こったんだろうか」と思い返してみました。

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 自分は数学を分かっていくために必要な数量や論理の概念を、たまたま日常から実感として身につけていたから分かっていたのです。
 つまり、分からない生徒はそれらの機会とたまたま出会っていなかったというだけ。
 私の役割は、その出会いを再現して提供することでした。
 
 まずは自分が分かってきた概念や感覚をくだけた言葉で説明して、直感的に理解してもらうことからはじめました。
 抽象的な数式で説明するのは後回しです。
 そのような実感を伝えることで徐々に説明を具体的なものから抽象的なものへとランクアップさせていき、とうとう数式を用いて問題が解けるところまで持っていくことができました。
 
 生徒も私も大喜びでした。
 そうして生徒は無事に、第一希望の高校へ行くことができました。
 このような幸せな出会いを経て、私はさまざまな段階の端子を用意するという方法を覚えたのです。
 
 さてここから先は、指導者がある程度多くの端子を持っていると仮定しましょう。
 「初めて出会う生徒」にものを教える場合、指導者はその豊富な選択肢からどの端子を選べばよいのでしょうか。
 ここは指導者によって意見が分かれるかもしれませんが、私の意見は「自分が持っている端子の中で、1番大きなものから使い始める」というものです。
 
 最初に2番目以降の大きさの端子を使うということは、相手がそれより大きな端子のレベルをすでにクリアしていると仮定しているということです。
 言い換えるなら、「相手はこのくらいできるだろう」と勝手に期待してしまっているのです。
 
 勝手に期待していたことが裏切られたらどうなるでしょうか。
 電流計の喩えで言えば、針が振り切れます。
 ただ振り切れるだけなら端子を選びなおすだけで話は済みますが、振り切れるときに針には衝撃が加えられるので故障の原因になるかもしれません。
 
 これを生徒に当てはめると、「このくらいできるだろう」というつもりで与えられた説明を理解できなかった生徒はショックを受けます。
 後に1ランク下からの説明をされたとしても、「自分のレベルへの認識を下方修正された」という事実が残ってしまいます。
 
 「そんなことでいちいちショックを受けるのがおかしい」という意見ももっともですが、私は無用なショックは与えないに越したことがないという考え方をします。
 生徒の耐性によっては、その程度のショックでもやる気をなくしてしまう場合があるからです。
 指導の最終目的は、生徒ができるようになることであって生徒ができないことを指摘して裁くことではありませんから、「いかに生徒をやる気にさせるか、いかにやる気を削がないか」というのは重要な問題です。
 
 また、教える側の心理も重要です。
 期待したレベルを生徒がクリアしてなかった場合、「これもできないのか」とがっくりしてしまうのです。
 それが積み重なると苛立ちに変わっていきます。
 
 「私は人にものを教えるのが苦手」という人には、この苛立ちを我慢できないという人が多いです。
 しかし、最初から相手のレベルに期待せずにもっとも大きな端子から使い始めれば、教えられる側・教える側双方のリスクを最小限に抑えることができるのです。
 
 「最初から生徒の実力に期待しないのは失礼だし、レベルの高い生徒は馬鹿にされたと感じるだろう。」という反論もあるかもしれませんが、私はそうは思いません。
 生徒のレベルよりかなり低いところから説明をスタートしたとしましょう。
 その生徒にとって、説明されているステップはすでにクリアしてしまったところなので簡単にクリアできます。
 簡単なレベルから順を追うことで、これからやるステップの全体的な位置づけも分かりますし、注意深い生徒ならそこまでの説明を自分なりに噛み砕いて人に伝えることもできるでしょう。
 少なくとも「分からない説明をされて苦痛を覚える」ということはありません。
 
 また、指導者は「生徒は何も知らなくて当たり前」だと仮定しているので、思いもかけない生徒のレベルの高さに「分かってるなら話が早い、次の説明に移ろう!」と喜ぶことができます。
 指導者が自分の能力への認識を上方修正して喜んでいるのを見て、生徒も悪い気はしません。
 生徒のレベルにフォーカスを合わせるまでの短い間に「え?あれもできるの?これもできるの?できない人も多いんだよ、すごいね君!」という、双方にとって幸せな前置きが出来上がるのです。
 このように、「これくらい分かるだろう」と決め付けない、勝手な期待をせずに一番大きな端子から始める、というのは教える側と教えられる側の双方にとって望ましい理想的な戦略だと思います(徹底して実践するのはなかなか難しいですが)。
 
 そして、このことは対人一般にも拡張することができます。
 私は対人関係において「人に勝手な期待をかけない」というマナーを採用することにしています。
 これは「どうせ人には何も期待できない」というネガティブな思い込みとは違います。
 「人に何かが期待できる」ことも「人には何も期待できない」ことも決め付けずに、節度を持って「期待できるかどうかは分からない」とだけ認識しておこうということです。
 
 この節度が守れずに他人に対して期待していることが多すぎる人は、対人関係のどんなすれ違いにも過敏に傷ついてしまいます。
 仲良くなれない、意見が合わない、理解されない、親切にされない、愛されない、などといちいち愚痴っている人は、そもそも仲良くなれて意見がかみ合って理解されて親切にされて愛されるのが「当たり前」なのかを冷静に検討してみましょう。
 
 最初からどれも満たされていないのが「当たり前」だととらえていれば、どれか1つでも満たされていると感じられれば自分の中でプラスに受け止めることができます。
 しかし、どれもこれも満たされている状態を「当たり前」に設定している人は、1つでも満たされないことがあればマイナスに換算してしまうわけです。
 
 「期待する」ことにするか「期待しない」ことにするか。
 私なら、「人に勝手な期待を抱いて、想定外のマイナス要素と出会ったときにピーピー嘆く」よりは、「人に何も期待しないで、想定外のプラス要素と出会ったときに素直に喜ぶ」ほうが自分の心の健康にも良いと考えます。
 そういう意味で「人に勝手な期待をかけない」というのは、教える場面だけでなく対人関係一般においてなかなか効果的な戦略だと思いませんか。

幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学

幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学

 

  
 
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。
<a id="i13039760524" class="detailOn" href="http://blog-imgs-78.fc2.com/m/r/b/mrbachikorn/blog_import_54d420f2e5e23.png"><img src="http://blog-imgs-78.fc2.com/m/r/b/mrbachikorn/blog_import_54d420f2e5e23.png" alt="" width="400" height="309" /></a></p> 

死なないための損得勘定によって「真理」は造られた

 この世界において「生き延びたい」という都合を持った参加者がまず考えることは、「死なないためにはどうすれば良いか」という損得勘定です。
 暖をとること・食べること・寝ることの3つに関しては、生き延びるためにどうにかして満たさないといけないでしょう。
 そして次に考えることは「殺されないこと」です。
 
 最初に述べた3つの条件は参加者全員の都合ですが、これらの都合を満たすための衣食住に関する資源はその絶対量が限られていますから、全ての参加者がこれらの資源を上手く獲得できるとは限りません。
 そこには、資源を得られた者と得られなかった者との差が生まれます。
 自力で「生きるための資源」を得られなかった者も「生き延びたい」という自分の都合を放棄して死んでしまうわけにはいきませんから、資源に恵まれなかった人々は歴史的に「得た者から奪う」という手段を行使してきました。
 
 人の得たものを奪う手段として最も原始的なものは「暴力」です。
 この生き残りゲームの参加者が一人減ればその分の資源は他の参加者に回ってくるのだから、最も効果的に自分の都合を満たすには相手を殺してしまうのが一番です。
 つまり、最初の3条件を自分が上手く満たせたとしても、他の参加者の「暴力」から自分の身を守らなければ「生き延びたい」という自分の都合を満足させることができないということです。
 
 自分を殺そうとしてくるものから身を守るために、まず考えられる手段が逃げることです。
 しかしこの場合、自分がせっかく確保した「生きるための資源」は相手に奪われてしまうことになります。
 自分の資源を守って生き延びるためにの一番単純な方法が、こちらも「暴力」で対抗することです。
 
 幸運にも自分の戦力が相手の戦力を上回っていれば、無事に身を守ることができるでしょう。
 相手のほうが強い場合には、自分の戦力を高めるという手段が考えられます。
 肉体を鍛える、武器を使う、より強力な武器を開発する、武器や肉体の操作法を高める、などが挙げられるでしょう。
 しかし運よく死なずにすんだとしても、大きく傷ついてしまえばその後を生き延びる可能性が低くなります。
 
 そこで、傷つかずに相手の「暴力」から身を守るために、こちら側の「暴力」を背景に威嚇して相手をけん制するという方法があります。
 傷つくのを恐れるのは相手側も同じ。
 相手にとって一番望ましいのはこちらが何の抵抗もせずに殺されてくれることですから、こちら側も「やられたらやり返すぞ」という姿勢を見せていれば相手も容易に仕掛けてはこれません。
 こうしてお互いが「やりあわないほうが得策だ」という結論に達すれば、その損得勘定により無駄な衝突を避けることができます。
 
 また、こちら側に威嚇の裏づけとなる戦力がない場合には「魅力」というより高度な戦略が有効になります。
 この「魅力」というのは、こちらの都合をそれほど損なわない範囲で相手の都合を上手く満たしてやることで、相手が自発的に自分の都合のいいように動いてくれるよう仕向ける力のことです。
 「魅力」の代表的なものとしては、食べ物を与えて食欲を満たす、体を与えて性欲を満たす、仲良くなって親和・承認の欲求を満たす、などが考えられるでしょう。
 
 そしてこの「魅力」と「暴力」を組み合わせた「権力」という応用形があります。
 複数の参加者が集まったとき、それぞれの参加者が「個人vs個人」の枠で争うよりも集団で手を組んだほうがメリットが多いという損得勘定がなされれば、そこに資源を共有し合う集団が出来上がります。
 資源の獲得競争において敵対関係にあった隣人と手を結ぶことができれば、隣人の「暴力」からの被害が軽減され「生き延びたい」という自分の都合にとってのリスクを低く抑えることができます。
 
 また、隣人と手を結ぶことによって「眠たい」「食べたい」「子孫を残したい」という生存欲求をより安定的に満たすことができますし、親和の欲求・承認の欲求を満たすことも可能になります。
 これらのメリットこそが集団を形成する際の動機となる「魅力」です。
 
 これらのメリットは集団を維持しようというメンバーの合意の上でしか享受できませんから、集団に害をなそうとする者は駆逐せねばなりません。
 そこで「暴力」という要素が必要になってきます。
 警察のような「暴力」で威嚇しておくことで、「集団に逆らうとひどい目にあう」という損得勘定を植えつけておく必要があるのです。
 
 このような「魅力」と「暴力」のコンビネーションによって「権力」は出来上がるわけですが、「権力」を構築するにあたって「魅力」となる要素が少ない場合、メンバーは「暴力」を恐れてしぶしぶ集団に従うだけになります。
 こうなるとメンバーは集団に対して積極的に奉仕しようと気になりませんし、集団全体で得られるメリットも小さくなり、集団を形成していたそもそもの動機が揺らいでいきます。
 「こんな集団ぶっ壊してしまえ」という反乱分子の勢力が統治する側の力を超えてしまえば集団は崩壊してしまいます。
 
 それを防ぐにはどうにかして集団全体のメリットを増やす必要があります。
 集団全体で得られるメリットを増やすためには、メンバーを積極的に集団に奉仕させなければなりません。
 そのためには「権力」における「魅力」の割合を高めるしかありませんが、「魅力」を高めるためには集団全体でのメリットを増やす必要があり、話は元に戻ってしまいます。
 
メンバーが消極的→集団全体のメリットが少ない→メンバーにとって「魅力」が足りない→メンバーが消極的→集団全体のメリットが少ない→メンバーにとって「魅力」が足りない→・・・
 
 この不幸な循環とは別に、以下のような幸福な循環も可能性として考えられます。
 
 メンバーが積極的→集団全体のメリットが多い→メンバーにとって「魅力」がたっぷり→メンバーが積極的→集団全体のメリットが多い→メンバーにとって「魅力」がたっぷり→・・・
 
 不幸な循環から幸福な循環へとチェンジするためには、メンバーが「とにかく積極的に集団に奉仕してみよう」と思い直さないことには始まりません。
 このような損得勘定をメンバー全員が共有できれば、皆で幸せな螺旋階段を上っていける見込みが出てくるわけです。
 
 では、メンバーがこれらの損得勘定を理解できない場合はどうしたらよいでしょうか。
 それには参加者の「損得勘定の能力」を高めるしかありません。
 そこで活躍するのが言葉です。
 今ここで実物としての「魅力」を見せなくても、先々のビジョンを言葉によって形作ることで相手にその「魅力」を伝えることができるのです。
 
 これを「説得力」と名づけることにします。
 つまり「説得力」というのは、言葉を利用する者の間で発揮される影響力であり、人間という動物の個性を上手く生かした生存戦略の一つなのです。

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 しかし、相手の損得勘定の能力が期待したほど上がらず、集団に積極的に奉仕することのメリットが伝えられない場合はどうしたらいいでしょうか。
 ここで登場する飛び道具が「正しさ」という○×ゲームです。

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 集団全体の都合に合わせてメンバーを動かそうと思ったら、「人間は他の動物よりも上等な生物だから正しい道を選択することができる」などとそそのかした上で「集団に奉仕するのが正しい姿だ」という戒律を教え込めばよいのです。
 相手の理解能力が低い場合、複雑な現実世界の損得勘定を丁寧に説くよりも、話を単純な○×ゲームに置き換えて簡単にしたほうが「説得力」が増します。
 もしこれが成功すれば、メンバーたちは自発的に集団に奉仕してくれるはずです。

 では現実はどうなっているでしょうか。
 今現在、現実世界の参加者の大多数が集団に自発的に奉仕しているとは思えません。
 「正しさを求めよう」というアイデア自体は世界中に広まっているでしょうが、「何が正しいのか」という戒律に関しては人によっててんでばらばらです。
 
 そのおかげで「何が正しいのか分からない」と疑問を抱く人がいるばかりか、「真理なんてどこにもないじゃないか!」と不審を抱く人まで現れる始末です。
 「正しさ」という作り話は、人間に数多くの賄賂を渡すことで「正しさを求めよう」という動機の普及にはほとんど成功しましたが、「何が正しいことか」という戒律の内容についてはまるで合意が得られなかったというわけです。

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 「正しさ」の熱心な信者には、「本当に正しいと言える真理は1つしかないのだから、いつかその真理が見つかってそれが真理であることが疑いようのないほど説明されてしまえば、誰もがその真理に従うだろう。だから真理を求め続けよう。」という人もいるでしょう。
 この考え方の根本には「世界のルールは真理であり、現実世界での力関係や参加者たちの都合はその真理の法則にのっとっているはずである」という信仰があります。
 私はこういった考え方を「真理教」と名付けています。

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 私は、現実世界には参加者たちの都合やそれらの間の力関係があるだけで、真理というのはその「都合と力」の調合で編み出された概念でしかないと考えています。
 つまり、この世界の土台として真理があるのではなく、個々の参加者の好みを反映した都合や力の結果として真理という考え方が生まれただけという「好き嫌い教」とも呼べる信念を持っています。
 「正しさ」という「神様のものさし」は各々の勝手な都合で量産可能ですから、「お前の使ってるものさしは俺の使ってるものさしと違うから、お前の言っている真理は認められない」という事態がいくらでも出てきます。

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 そしてこの真理教には危ういところがあります。
 「神のものさし」とは、人が自分の都合で勝手に雇ったレフリーのことです。
 このレフリーを上手く使えば、他人の行動を抑止したり助長したりすることができます。
 
 つまり、「気に食わないやつらをぶっ殺してやりたい」という人がこのレフリーを使って上手く人を操った場合、「(真理の名において)やつらを殺さなければならない」という信念を持った人が生まれうるのです。
 相手が自覚的な損得勘定で暴力を用いる人ならば、こちら側も都合や力に訴えて説得を試みることができますが、真理教において真理は都合や力に優先するのだから、暴力以外の魅力や権力や説得力で彼らを止めるのはかなり難しくなります。
 
 これは私のような「好き嫌い教」の視点から見れば非常に馬鹿馬鹿しいことです。
 そもそも「生きるためには、死なないためにはどうすればいいか」という損得勘定が複雑になってその成果として発明されたはずの真理教が、自分たちの生命を脅かすかもしれない人々にも強大な力を与えているのですから。
 
 また、この真理教は自殺の手助けをすることもあります。
 「これが私の生きる価値だ」という動かぬ真理を支えとして生きていこうという欲望を抱かされてしまった人にとって、「真理がどこにも見当たらない」という状況は「生きていることに価値はない」と結論付けるに十分な「説得力」を持ってしまっています。
 「生き延びたい」という自分の都合よりも観念的な正しさのほうが優先されると信じていたいなら、その人は自殺という選択肢を選ぶしかないでしょう。
 
 また、何が正しいのか分からなくて自暴自棄になってしまった人が無差別殺人に走るなんていうのもよくある話です。
 真理教の原理をとことん追求していけば、このような暴走の危険性があるのです。
 
 もし私が人を殺さないように説得するなら、「神のものさし」なんて身の丈に合わない道具には頼らずに等身大の自分の言葉で「説得力」を得たいと考えていました。
 そして「人を殺してはいけない」という言い方の代わりに、こんな言い回しを考えたこともあります。
 
「人殺しをしようとするのは勝手だけどそれを周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手、法治国家において一個人はしないほうが身のためだと思うし、俺もして欲しくないと思ってるよ」

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 解説をすると、まず「人殺しをしようとするのは勝手だけどそれを周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手」と言うことで、「人殺しをするのは俺の勝手だろ!」という相手の主張に一度理解を示した上で、その先に続くであろう「だから俺の勝手にさせてくれ!」という言い分に「君と同じように周りの人にも都合があるわけで、周りの人が何をしようがそれぞれの勝手だよね」と同意を求めます。
 そして「後は君の都合と周りの都合のどっちが叶うかという力比べになるわけだけど、もし人殺しによって君の都合が短期的に満たされたとしても、法や警察や世間の声が強力に機能しているこの国においてその後の人生を満足に送れる見込みはかなり低いよ」という現実の力関係について予想を述べて損得勘定に訴えています。
 最後に「俺もして欲しくない」と言うことで、「俺はこれからも君と仲良くしていきたいし、君にひどい目にもあってほしくないし、人殺し自体もしてほしくない」という自分の都合を理解してもらいます。
 
 相手の都合にとって私の都合が重要な要素になっていればこちらの都合も考慮に入れてくれるかもしれませんし、最初の「周りが力ずくで阻止しようとするのだって勝手」という前置きと組み合わせれば「場合によっては私自身が力ずくで君をとめようとするかもしれないよ」という可能性も示唆しているわけです。
 こんな説得で相手の心が変わるかどうかは分かりませんが、そもそも私は「相手の心をすっかり変えてしまおう」なんてことが可能だとは思っていません。

 というか、そんなことが可能だと思った時点で、他人の都合に対する節度なんか全くわきまえていないわけです。
 そんな身の程知らずから「君はそんなことをするべきではない、人として間違ってる!」なんて説得をされたら、相手から「何様のつもり?」という反感を買うかもしれません。
 
 単純な相手を洗脳するには真理教的な手段のほうが手っ取り早いでしょうが、自分の雇っているレフリーと相手の雇っているレフリーが敵対関係にあるときのリスクも大きいでしょう。
 私には自分の力の及ぶ範囲のことしかできませんから、説得においても自分勝手なレフリーは雇わずに自分の身の丈に合った言葉を使おうとするし、それが無理なら言葉以外のもっと現実的な手段(魅力・権力・暴力など)を使ってとめようとすると思います。

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 真理教にない好き嫌い教のメリットは、「***が真理である」というきっぱりとした主張には意見が人それぞれ分かれるけど、「世の中には都合もあるし力もある」という漠然とした広範囲の主張に対して「世の中には都合も力も存在しない!」ときっぱり言い返せる人はほとんどいないという点です。
 ですから、「自分が認めていないことを勝手に前提にしやがって!」という相手側の反発も起こりにくいわけで、「同意してもらえるかは分からないけどできればこちらの言い分も理解してほしい」というこちら側の節度を相手への「説得力」に変えることもできるわけです。
 
 私にとって説得とは、「こちら側から現状の力関係についての見方を提示して相手の都合に叶う他の損得勘定の可能性を考えてもらうこと」なのです。
 まあ、「都合も力も関係ない!正当性さえあれば十分だ!」という真理教原理主義者には全く通じないでしょうが・・・。
 
 また好き嫌い教の考え方は、他人からとやかく口出しをされる際にも役に立ちます。
 相手が自分に対して何を言ったとしても、それは真理などではなくただの好き嫌いの表明なのです。
 「お前は間違っている!」なんていうのは「お前は嫌いだ!」「その言い分は気に食わない!」としか解釈しないので、「嫌いなのはお互い様だしね」とか「君とは好みが合わないみたいだね」と思うくらいで、「私は本当に間違っているのだろうか・・・」と真剣に悩むことはありません。

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 もし相手に嫌われたくなかったとしても、考えるのは「嫌われないためにどう対応するか」という現実的な問題であって「私は本当に間違っているか」のような内面的な問題ではありません。
 もちろん内面的な問題ではないからといって、その人の意見を完全に無視してしまうわけではありません。
 
 好き嫌い教において、現実世界の力関係はそれぞれの人の都合と密接に繋がっていますから、「お前は間違っている!」と言っている相手の都合がその後私にどう影響してくるかは重要な問題です。
 私にとって不都合な影響があるなら、それには現実的なレベルで対応しないといけません。
 つまり、人の意見というのは「いちいち真に受けることはないが現実世界の判断材料としては考慮に入れる」くらいの態度で聞いていればいいのです。

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 そのようにして好き嫌い教のものの見方で世の中を考えていくと、「常識」という言葉の意味も自分なりに納得がいくようになりました。
 真理教の主張の仕方において「***なのは常識だ」と主張したとしても、それは「そういうことにして優越感を得たい」とか「そういうことにして相手の行動を左右したい」という発言者の都合によって雇われたレフリーでしかありません。

 ですから、真理教の枠の中で「これこれが常識である」と断定的に定義づけようとしても、そんなものは人の都合によってころころ変わるのだから上手くいくはずがありません。

 

 しかし好き嫌い教において、「常識」のことは「世の中の都合と力のバランスについての理解」という風にすっきり定義できます。
 つまり「常識のない人」というのは、世の中の都合と力のバランスが読めずに自分の都合だけをピーピー主張する人のことなのです。

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 このように、真理教の言葉で表現された世の中の事柄を、好き嫌い教における都合と力の関係に読み替えていくという作業は、私なりのすっきりとした世界観を形成するのに役立ちました。
 これまで説明してきた関係をまとめてみると次のように表せます。
 
暴力=相手の都合に合わない自分の都合を押し通す力
  
魅力=相手が自発的に自分の都合のいいように動いてくれるよう仕向ける力
 
権力=暴力と魅力のあわせ技
 
説得力=言葉を用いることで複雑化された暴力や魅力のこと
 
常識=世の中の都合と力のバランスについての理解
 
 これらの言葉を使うなら、真理教とは「魅力的な説得力と暴力的な説得力を併せ持った巨大な権力」ということになります。
 この巨大な権力は多くの人の都合を満たすことができますが、多くの人の都合を踏みにじる諸刃の剣でもあります。

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 私は真理教の持つこの極端さへの不信感から、大学生のころに好き嫌い教へと宗旨替えしました。
 好き嫌い教には真理教のような過剰なメリットは存在しませんが、その分過激なデメリットも抑えられています。
 私は「これが正しい」「こうあるべきだ」「これが真理だ」なんて危険な権力には頼らずに、都合と力しか使わないというマナーを採用することで、自分の身の丈にあった説得力を鍛えていきたいと思ったのです。

 

 人間を他の野蛮な動物と区別するための基準として「正しさ」というドグマを刷り込んでいく真理教と、ただ単に動物としての「都合と力の関係」に真摯に向き合う好き嫌い教。
 あなたはどちらに説得力を感じますか。

「好きなこと」だけして生きていく。

「好きなこと」だけして生きていく。

 

  
 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

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のほほんと気楽に生きる方法

 文明社会を生きる人間がのほほんと気楽に生きていられなくなってしまう主な原因は、さまざまな言葉の指し示す内容を真に受け過ぎてしまうから。
 その中でも、○か×かのレッテルを貼り付ける「善悪」の概念は、どんな物事にも大袈裟な意味を与えてしまうその性格のせいで、真に受けた人々を必要以上に振り回して無駄に消耗させています。
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 そこで、無駄な消耗を避けるために私が実践しているのは、好き嫌いや上手い下手といった日常的かつ等身大の概念を用いて「善悪」という大袈裟過ぎる方便を解体してしまうこと。
 善悪という言葉は、発言者が好ましいと感じる方向に聴き手を手懐け、嫌いな相手を徹底的に追い込むために造り上げられた、人心操作専用の言わば「洗脳兵器」です。
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 このパワフルな洗脳兵器を教育の場面で子どもに知識やスキルを身に付けさせるために利用してしまうと、「上手いか下手か」という巧拙の程度問題と「良い子か駄目な子か」という人格の優劣の話との区別がつけられずに、「上手くいかないのは自分が駄目だからだ」「失敗すれば人格が認められない」と怯えて生きる被害者が生まれてしまいます。
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 そう考えていけば、善悪の基準で「自分は悪かった」などと観念的に自己嫌悪したり罪悪感を感じたりするのは純粋な時間の無駄。
 自分の行為が望まない結果を招いてヘコんでしまったときは、巧拙の程度問題として「自分は下手だった」とだけ捉えて「今より上手くなるにはどうすればいいか」と具体的に反省すればいいことです。
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 とは言っても、一度でもしっかりと定着してしまった思い込みから抜け出すのはなかなか大変な作業。
 子どものころから刷り込まれてきた善悪の概念に、どうしても囚われてしまうという人も多いでしょう。
 そんなとき、善悪という固定観念から抜け出すのを邪魔しがちなのが「許せない」「間違ってる」という感情論の存在です。
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 善悪という洗脳兵器は、それが自分を攻撃してくる場面においては厄介な存在ですが、気に入らない他者を攻撃したくなったときには力を貸してくれるありがたい存在です。
 ですから、善悪の概念を徹底的に解体してしまったら「正論のふり」という感情の隠れ蓑がなくなるため、怒りに任せて「許せない」「間違ってる」などと大袈裟にバッシングできなくなってしまいます。
 だって、その人が「悪」だと断罪したがっている対象もただ単に「誰も不快にさせない程に上手ではない」というだけの話に過ぎず、実際には「ただ下手なだけで悪でも何でもない」という結論にしかならないんですから。
http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/09/065600mrbachikorn.hatenablog.com
 
 つまり、他者を攻撃する手段としての「善悪」を手放したくない人は、その洗脳兵器の威力によって自分も巻き添えになって消耗してしまうことを避けられないということです。
 もし、気に入らない相手には文句を言いたいのであれば、「嫌い」とか「不快だ」といった個人的な感情の枠内の話として伝えればいいだけのこと。
 それだけのことなのに、善悪なんて方便を真に受けて「許せない」だとか「間違ってる」なんて大袈裟な表現を下手に持ち出すから、のほほんと気楽に生きられなくなっているのです。

 
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。

教師の仕事は生徒の力を伸ばすことではない

 「力を伸ばしてもらおう」と思って授業を受けるのと「ただ時間が過ぎるのを待とう」と思って授業を受けるのとではどちらがたちが悪いか。
 この問いに対する私の回答は、「力を伸ばしてもらおう」と思っている子の方が「自分の力が伸びるかどうか」を他人任せにしている分だけたちが悪いというものです。
 
 私が授業中に伝えている授業を受けるときの心得は「授業は自分の力を伸ばすためのネタ拾いの場」だということ。
 この背景には「そもそも実力とは自分で伸ばすものであって他人がどうこうできるものではない」という大前提があります。

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 教師の仕事とは生徒が拾えるようなネタを提供することに過ぎず、そのネタを活かして力を付けることができるのは当の本人だけです。
 仮に教師の側がどれだけ使えるネタを数多く用意したところで、実際にそれを使い続けるかどうかは生徒の側の問題ですから、生徒に力を付けてもらいたいと願うならば生徒自身が「授業で知ったネタを使ってみたい」と思えるような環境作りが必要となってきます。 
 
 この「学びの主体は生徒であって教師ではない」という原則を理解していない教師は、「自分が教えるのを頑張れば生徒の力も伸びていく」と勘違いして「教え込む時間」ばかりをイタズラに増やしがちです。
 ですが、教師が生徒に向けて何かを教え込んでいる間は、生徒の実力は全く伸びていません。
 もし生徒がその時間に学んだことをその場でやってみせることができたとしても、それは授業の内容を自分のものにしたわけではなく、ただ単にその場しのぎの教師の真似事ができただけに過ぎないかもしれないのです。
 
 新たな知識や技能が脳内に定着していくのは、情報を教え込まれているときではなく、得た情報を自分で使ってみているとき。
 つまり人の実力は、インプットの瞬間ではなく、アウトプットの瞬間に伸びていくのです。

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 「授業を受けるときの心得」として、私が唱える優劣を以下のように提示してみます。
 
「力を伸ばしてもらおう」<「ただ時間が過ぎるのを待とう」≦「自分の力を伸ばすためのネタを拾おう」
 
 この不等式において「ただ時間が過ぎるのを待とう」と「自分の力を伸ばすためのネタを拾おう」との間が「<」ではなく「≦」になっているのは、この二つの姿勢がどちらも同じ結果を招くこともあるから。
 もし仮に教師の授業の中身に生徒が得られるような「使えるネタ」が全く含まれていなければ、いくら生徒が「自分の力を伸ばすためのネタを拾おう」と思ったところで「ただ時間が過ぎるのを待とう」と思ったときと同じ結果にしかならないのです。
 
 ですから私は常に、生徒たちに「授業中の内職」をお勧めしています。
 なぜなら、多数の生徒を同時に相手しなければならない一斉授業では、個々の生徒の理解度が全く異なるから。
 自分がすでに分かりきっていることを教師が改めて説明している場合、必要のないインプットにいちいち付き合ってあげる必要はないから、自分にとって必要なアウトプットを優先していいと伝えます。
 
 例えば、「三角関数の方程式」と「三角関数の合成」の両方を理解していないと解けないような応用問題を解説する際に、その両方を忘れている生徒が半数以上いる場合は一旦さかのぼっておさらいすることがあります。
 そのとき私がクラス全体に向けて行うおさらい授業は以前に一度やってしまった内容ですから、ちゃんとアウトプットを重ねて習得してしまった生徒にとっては「不必要なインプットの時間」になります。
 そういったとき、私は「次の小テストに出す問題集の範囲」などを先に知らせておいた上で、「両方とも分かりきっている人は問題集を解き進めていい」などと伝えることにしています。
 
 生徒が力を伸ばすのに必要なのは、生徒自身のアウトプットです。
 教師がする「分かりきっている話」を生徒が聞く時間なんてものは、生徒から教師への単なる接待タイム。
 この種の「授業中の内職」を生徒に許すことができない教師は、生徒にとって必要なアウトプットよりも、自分が話を聴いてもらって気分が良くなることを優先しているに過ぎません。
 
 こうした「生徒から自分への接待」を強要してしまえる教師の言い分が、「生徒の力を伸ばすのが教師の仕事だ」というものです。
 「生徒の力を伸ばすためには教師からのインプットが必要であり、その機会が授業なのだから生徒は教師の話を聴くべきだ」という傲慢によって接待の強要が横行してしまうのです。
 
 「生徒をやる気にさせるのも教師の仕事だ」という言い方もありますが、これもまた「他人の感情のあり方は支配してしまえる」と思い上がった者特有の傲慢な発言です。
 人の感情の動きの「傾向」を推測して、やる気になる「可能性が高い」状況を整える努力は教師にとって重要ですが、その環境に置かれて何を感じるかはあくまでも生徒次第ですから、教師の側が語れるのは「曖昧な確率」レベルの話に過ぎません。
 
 教師の仕事とは、できるだけ多くの生徒が力を伸ばしやすいような「環境」に徹することであって、「生徒の力を伸ばすこと」そのものではありません。
 この「生徒の力を伸ばすのは生徒自身だ」という原則は、教師と生徒の双方が大前提として胸に刻んでおいた方がいいでしょうね。 
 

   

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