間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

人を傷付けること自体は悪ではない

 誰かを傷付けてしまったとき、嫌な気分になってしまうのは何故か。
 それは「自分はこうしたかった」という意志と「実際はこうしてしまった」という行為の結果との間に隔たりがあるからです。
 
 逆に言うならば、自己嫌悪や罪悪感にさいなまれたくなければ、自分の意志と行為の結果を近付けていけばいいということ。
 そのように考えた場合、人を傷付けることそれ自体は無条件に禁止される事項ではなくなります。
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 例えば「傷付けたいと思って傷付けること」などは意志と行為の結果がぴったり一致しているわけですから、当人の主観的には何の問題もない話です。
 刷り込みによって「人を傷付けることそれ自体が悪だ」とさえ思い込まされていなければ、 私たちが嫌な気分になるのはただ単に「傷付けたくないのに傷付けてしまうこと」の方だけでしょう。
 
 これは別に「だからどんどん人を傷付けましょう」と推奨したくて書いているわけではありません。
 このように「傷付けること自体は悪ではない」と主張しているわけは、傷付けたくない相手を傷付けてしまってへこんでしまったときに、その反省を今後に活かしていけるような建設的な捉え方を提案するためです。
 
 もちろん、しつけや教育によって「傷付けてはいけない」と刷り込んでいくことには、むやみに人を傷付けたがる人が減少するという大きなメリットがあります。
 しかし、いくら他人を傷付けないようにと気を付けたところで、人と人とが互いに影響を及ぼしあって生きている以上は「誰かを傷付けてしまう」という結果を避けることはできません。
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 ですから、素直に「傷付けることそれ自体が悪だ」と真に受ける人ほど「私は他人を傷付けてしまう駄目なやつだ」という心の傷を、どこかで必ず受けてしまう定めにあります。
(誰かを傷付けてしまったことに全く気付かないほどの鈍感力を備えた幸せな人であれば話は別ですが)
 私はこの厄介なデメリットを回避するためにも、人に罪悪感を植え付けるためにある「人を傷付けることは悪だ」という無茶な刷り込みはいずれ払拭すべき障害であり、本来は全く必要ないものだと主張します。
 
 その上で、傷付けたくない相手を傷付けてしまってへこんでしまったときにはどう反省するのが効果的なのか。
 それは、善悪の基準で「自分は悪かった」などと観念的に捉えるのではなく、巧拙の程度問題として「自分の行為は十分でなかった」と捉えて「今より上手くなる(意志と行為の結果とを近付ける)にはどうすればいいか」と具体的に反省することです。
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 逆に、善悪の問題として「自分は悪かった」と捉えている人の中には、傷付けたくない人を傷付けてしまっても「自分は×だ」とへこんで萎縮してしまうだけの人もいます。
 そういう人は結局、具体的な行為の反省ができずにいつまでも同じ失敗を繰り返してしまう可能性が高いのです。
 
 自己嫌悪をしてしまうのは自分自身が下手だからであって、決して悪かったからではありません。
 同じことを繰り返さないために必要なのは、「悪かった」という無駄な反省ではなく、「より上手くなるには」という具体的な検討です。
 善だ悪だと、息苦しい○×ゲームで他人や自分を評価するのはそろそろ止めにしませんか。 
 
 
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。
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そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付け、その実態を以下のような図にまとめて解説しています。