言葉の根本的な存在理由は人心を説得すること。
世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするという役割は、言葉の本質とは全く関係がない。
これが私自身の一貫した主張です。
それに対し、言葉はそもそも世の中がどうなっているのかを描写したり記述したりするためにあるもので、その副産物として「人心を説得する」という言葉の働きも生まれている、という解釈の方が世間ではまだまだ主流です。
このように、記述の役割こそが言葉の本質だと捉える言語観のことを、私は記述信仰と名付けたいと思います。
この記述信仰は、現代人を必要以上に悩ませてしまう病原体のようなもの。
言葉の本質を記述だと信じ込んでいる人は「その言葉が言い表していることは本当か嘘か」という言葉上の○×ゲームに囚われ、○か×かの見極めこそが人生の本質だと捉える癖を身に付けます。
ですが、現代社会に溢れている「○と認められるための基準」はむやみに高く設定されているため、ほとんどの信者たちは無意識のうちに「自分は×なのではないか」といった自己否定の念にさいなまれています。
私がやろうとしているのはこうした記述と説得の主従関係を逆転させ、悩みを無駄に増幅させてしまう記述信仰からの卒業を促すことです。
言葉の機能は説得でしかなく、「事実の記述」とは説得のための方便の一つに過ぎないという発信を通じて、記述信仰の罠にハマる犠牲者を減らしていきたいというのが私の悲願なのです。
その目的を果たすため、記述と説得の関係についての私なりの解釈を簡単な図にまとめてみました。
この図式は「記述による説得」は「言葉による説得」の一部であり、「言葉による説得」は「野生の説得」の一部であるという包含関係をざっくりと表したものです。
この図式にはありとあらゆる説得法を入れ込むことができますので、いくつか例を示してみましょう。
例えば、果物の実が動物にとって美味しく感じられ、種が苦く感じられるようにできているのは、植物の側からの「野生の説得」と言えます。
美味しい実をつける植物たちは、実を動物に食べさせ種をそのまま捨てたり排泄させたりすることによって、種の移動を動物に手伝ってもらい広範囲での繁殖を実現します。
また、動物の雄が肉体的な強さを誇示して雌たちを惹き付けるのも、言葉によらない「野生の説得」の一つ。
雄たちは、弱肉強食の世界での生存率の高さを雌たちに向けてアピールすることによって、繁殖におけるパートナー探しを優位に進めるのです。
イヌやイルカの調教、ヒトの赤ちゃんへのトイレの躾などは、事実の記述という物語に頼らない「言葉による説得」の一部です。
これらの説得は、叩く、怒鳴る、威圧する、餌などの報酬を与える、やさしく撫でるなどの「野生の説得」を、「よしよし」とか「ダメ」といった具体的な音声に関連づけることで実現します。
このように、させたい行動に対しては言葉と共に好印象を与え、させたくない行動については言葉と一緒に悪印象を与えることで、他にもいろいろな「言葉による説得」が産み出されています。
最後の「記述による説得」は「言葉による説得」の応用形。
「世の中はこうなっている」といった物言いで様々な情報を与えることによって、聴き手の印象や考え方や行動に影響を及ぼすのが「記述による説得」です。
この手法のメリットは、話している内容が話者の意図と無関係であるかのような印象を与えられ、それによって話者の「説得してやろう」という意図が見えにくくなるという点にあります。
つまり「世の中はこうなっている」という言い方は、日常的な説得を目的として使われているのです。
ですから「それが本当か嘘か」という言い方も、説得の場面におけるただの方便に過ぎません。
占いや宗教や科学などは、集団心理によって造り出された「記述による説得」の代表格です。
そして、記述の言い方でされる発言を発信者による説得行為とは捉えずに、客観的事実についての純粋な意見表明なんだと信じ込んでしまうのが記述信仰です。
客観的事実という作り話を鵜呑みにする信者たちは、「言葉が表している内容が本当か嘘かを見極めることが重要」といった類いの信念を抱きます。
これは、「説得」という言葉の根本的な作用を度外視した一種の下剋上です。
客観的事実の信者たちは、説得のために生まれた「記述」というただの方便を言葉の本質として祀り上げてしまいました。
西洋哲学における「真理の探究」という考え方は、この記述信仰にとことんのめり込んだ人々に見られる典型的な中毒症状。
こうした記述信仰の罠から抜け出そうとする試みを、哲学の世界では言語論的転回と言います。
「語りえぬものについては沈黙せねばならない」の名言で知られるヴィトゲンシュタインは、そもそも言葉は日常的な使用のために発達したものであり、「真理の探究」なんて議論は哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題だと結論付けました。
言語学者のソシュールは「言葉より先にまず世界が存在し、名前は後からつけられる」とする西洋哲学の伝統的な言語観を否定し、私たちにとっての世界は言葉の作用によって築かれており、言葉以前の客観的な世界など想定しても意味がないと述べています。
そしてレヴィ=ストロースも、西洋哲学や近代科学における熱狂的な記述信仰のあり方はヨーロッパという地域限定の特殊な風習に過ぎず、他の地域でまかり通っている神話や迷信のあり方と何ら変わりはないと発信しています。
mrbachikorn.hatenablog.com
そんな先人たちの発信にも関わらず、客観的事実という神話に飼い慣らされた文明人たちは、伝統的な記述信仰の呪縛からなかなか抜け出せていません。
例えば、私のこの文章を読んで「ここに書かれていることは本当だろうか」と疑問を持たれた方がもしいらっしゃるならば、その方は「言葉が記述として正しいか」にばかりこだわる記述信仰の罠に踊らされています。
そうではなく、そもそも全ての言葉はあなたへの説得の圧力です。
もちろんこの私の文章も、読んでいるあなたへの説得工作でしかありません。
それは説得の道具として生まれた言葉の性質上、仕方のないことなのです。
私の目的は、この弱肉強食の説得合戦の世の中で、記述信仰の罠にハマって苦しむ人を減らしていくこと。
ですから私は「世の中はこうなっている」という言い方を説得のための方便としてしか使いませんし、この言い方が私から聴き手への「記述による説得」であることを全く隠しません。
私たち人間は動物である以上、好印象か悪印象かという感情における○×ゲームからは決して逃れられませんが、正しいか間違っているかという造られた○×ゲームからなら抜け出すことはできます。
記述信仰から卒業できる人が少しでも増えていくよう、これからも「記述と説得の関係」についての発信を続けていきたいと思います。
※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。今回は、そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を図にまとめてみたわけです。