この世界は、力が支配する弱肉強食の説得合戦の場。
私たちは生まれたときからすでにこの舞台のプレイヤーの一人であり、さまざまな力を用いて互いに説得の応酬を繰り返しています。
説得に用いられる力は、その働きかたによって暴力と魅力の2種類に大きく分類することができます。
ここでの暴力とは己のわがままを無理矢理通す力のことを言い、魅力とは相手が自ら望んでこちらの都合に合わせたくなるように仕向ける力のことを言います。
たとえば、ミツバチに蜜を吸わせることで花粉を運ばせる草花は、蜜という魅力でミツバチを動かしていると解釈できます。
また、オスたちに自分たちの身を守らせるメスたちは、繁殖という魅力でオスたちの暴力を有効活用していると言えるでしょう。
そういった野生の武器の他にも、人間には言葉という新しい武器があります。
言葉は暴力にも魅力にもなりうる応用範囲の広い武器です。
この言葉の活用方法をいろいろと試してきたトライ&エラーの履歴こそが、人類がこれまでたどってきた歴史です。
そして言葉を応用した「正しさ」という○×ゲームも、人類が開発を重ねてきた説得のための戦略の一つ。
自分たちにとって都合の良い言動に対しては「正しい」という飴を与え、そうでない言動に対しては「間違ってる」という鞭を与えることによって、人類はお互いをコントロールしあってきました。
この「正しさ」という○×ゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。
実際に、家庭や学校における道徳教育の場では「善悪」というフィクションを真剣っぽく演出するプロレスが横行しています。
一昔前までは、 科学や哲学という学術研究の場においても「真理の探究」というプロレスが繰り広げられていました。
身近なところでは、普段の何気ない会話の中でも「常識」というあからさまな八百長への同調圧力がいまだに幅を利かせています。
これらは皆、各々の個人的な説得の圧力に「正しさ」という権威を上乗せするためのプロレス的演出です。
ですが、幼い頃から「正しさ」という物語を「本当のこと」として内面化させられてきた人たちは、「実はこうなんだ」「世の中はこうなっている」という演出に引っ掛かりやすくなっています。
そんなフィクションの世界を生きている文明人たちにとっての一番の悩みの種は、「自分は駄目なやつだ」「自分は人間として間違っている」「自分には価値がない」といった自己嫌悪の念。
これは「正しさ」という言葉のプロレスをガチンコだと思い込むことで引き起こされてしまった悲劇です。
こうした悩みに対して「あなたは駄目じゃない」「あなたは間違ってない」「あなたには価値がある」などの声かけをしてあげれば、何らかの気休めにはなるかもしれません。
自分には生きている価値があると思えるだけの「生き甲斐」を処方していくというのも、良い気晴らしにはなるでしょう。
占いや宗教やスピリチュアルや自己啓発などが得意とするのもこの分野。
「救い」や「生き甲斐」にはそういった自己嫌悪から一時的に気を反らす効果があるので、これらの「お薬」を処方し続ければ一生気を反らしたままでいられるかもしれません。
「自分にも価値がある」と信じていられる間は救われるでしょう。
ですが、これらの悩みはすべて言葉の上での出来事。
「駄目」とか「間違ってる」とか「生きる価値」なんて言葉さえなければ、そもそも生まれることのなかったダメージです。
対処療法も良いですが、もっと根本的な原因を見直してみても良いのではないでしょうか。
これは、自分がこれまで「正しさ」という造り話にどれくらい頼ってきたかという依存心の問題。
mrbachikorn.hatenablog.com
いもしない架空のレフェリーに頼りきるのを止め、「正しさ」という言葉のプロレスから心理的に距離を取るくらいであれば、今からでも決して遅くはないでしょう。
「間違ってもいいから思いっきり」とは、「間違ってないか」を気にして生きるという文明人特有の依存心から卒業するためのキャッチコピー。
「正しさ」とは、発言者の意向を押し通すための暴力的な発明です。
どんな人の理屈にも、あなたの生き方を仕切る権限はありません。
そんな言葉の暴力に押しきられないためには、まるで事実を語るかのような言葉のプロレスを真に受けずに、その発言の裏にある相手の都合に焦点を当てること。
私たち人間も他の動物たちと同じように、弱肉強食の説得合戦を生き抜いているだけなのですから。
※このプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、こちらで簡単な図にしてまとめています。