間違ってもいいから思いっきり(市井人の日曜研究)

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

オカルトの誘惑

 20世紀中盤に活躍したカナダ人医師のワイルダーペンフィールドは、30年間で750人ほどのてんかん手術を手がけました。
 数々の開頭手術の中で彼は、局部麻酔した患者の脳のさまざまな箇所に直接電極を当てて、その際の患者の様子や感想を克明に記録していきました。
 そのようにして彼は、運動、感覚、記憶など、脳のどの部分がどんな役割を果たしているのかを特定したペンフィールド地図を完成させ、後の脳科学の研究の在り方を方向付けました。

 前々回の記事では、「右側頭部のこめかみ辺りに微弱な電流を流すと、患者は神のような存在の声や姿をありありと感じた」というペンフィールドの報告を紹介しました。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/05/23/035700
 後に、カナダのローレンシャン大学のマイケル・パージンガーらは開頭せずに磁気刺激する方法で同様の結果を導きだしています。
 この実験では、900人以上の側頭葉が刺激され、そのうち40%ほどの被験者がキリストやマリア、ムハンマド、祖父の亡霊や宇宙人など、それぞれの経験に応じた「大いなる何か」のイメージを知覚していました。

 電磁気による脳への刺激から神秘体験が生まれるという例は他にも報告されています。
 ジュネーブ大学病院のオルフ・ブランケは、右側の頭頂葉の角回と呼ばれる部位を刺激することで、幽体離脱現象が起きることを発見しました。
 この実験で被験者は、己の意識が2メートルほど舞い上がったように感じ、部屋の天井付近からベッドに寝ている自分が部分的に見えたと述べています。

 こういった様々な神秘体験を独自の視点で研究していた人物として、夢分析などで有名なユングが挙げられます。
 彼は古代から伝わる神話や伝説、芸術作品、夢などを研究し、世界中に共通して伝わっているイメージが数多くあることから、人類の心の奥深くには共通した何かがあると考えました。

 そこでユングが考案したのが「集合的無意識」という概念です。
 この集合的無意識は私たちの無意識の深層に存在するものと説明され、国や民族を超えて人類全体に共通するものだと言われています。

 フロイトの提唱した無意識と、ユングの言う集合的無意識を区別する際によく使われるのが、いくつもの突起を持つウニのようなモチーフです。
 ウニのトゲの一つ一つが各人の人格だとすると、トゲの先端は個人の意識に喩えられ、その深層にある個人的な無意識はトゲの幹として喩えられます。
 そしてそのトゲのさらに根元にあるウニの本体こそが集合的無意識だとみなされ、人類は皆その「大いなるウニ」を通じて繋がっていると説明されることが多いようです。

 臨床の現場でカウンセリングに携わっていたユングは、現代の心の問題の多くは神話を持たないことによって生じる虚無感や孤独感が一因となっているという問題意識を持っていました。
 「何のために生きているのか」という理由を神話の中に見出だすことができた時代は自分の存在意義について思い悩むことは少なかったが、科学によって神話が解体されてきた現代ではそうした確信を持つことが難しくなっているというわけです。
 「みんなが一つに繋がっている」とも解釈できる集合的無意識の概念は、悩める人々を救うための「失われた神話」の代替物とも呼べるでしょう。

 こうしたユングの理論は欧米では疑似科学とかオカルトなどと分類されていることがほとんど。
 この集合的無意識のアイデアを元に発展したトランスパーソナル心理学も臨床の場面では実際に使われているようですが、集合的無意識という仮説が正しいから成果が上がっているのか、その神話的な刷り込みが救いになっているだけなのかは判別しようがありません。

 前半に紹介した脳科学の研究は、こうした神秘現象の説明をオカルト的な信仰心に頼ることなく、物理的な生理機能の一部として解釈する試みでもあります。
 集合的無意識と呼ばれる「大いなるもの」も、脳の生理機能が見せている幻影に過ぎないのかもしれません。

 オカルト的な存在意義の説明には数千年からの歴史と伝統があり、生きる意味を「大いなる何か」に保証してもらおうとする根強いニーズは、多少の批判程度では揺らぎません。
 オーラ、風水、守護霊、前世、引き寄せの法則など、「知られざる真実」を語るオカルトチックな物言いはいつの世も大人気です。

 ですが私自身は、自分が生きていくのに「何のために生きているのか」という言い訳や「大いなる何か」といったバックボーンが必要不可欠だとは思いません。
 というか、「自分の生きる意味は何だろう」と思い悩むのは、「生きる意味は必要」と信じこませようとする世間の脅迫の声に屈した結果だとすら考えています。

 スピリチュアルだとか疑似科学におけるオカルト的な説明は、「生きる意味は必要」という刷り込みを真に受けて「生きる意味が見付からない」と深刻に悩んでいる人にとっては救いの方便になることもあるでしょう。
 しかし私は「生きることに意味はあるのか」という問いの前に、「その問いはどんな作為から生まれたものか」といったプロセスの方を疑いたくなります。

 集合的無意識とやらが本当に実在するのかどうかについて、白黒をきっぱりと断言できるだけの根拠を私は持っていませんが、それでも一つだけ分かっていることがあります。
 それは、己の生きる意味を知りたいと願ってしまった人にとって、導き手だと信じられる人は強大な影響力を持つということ。

 オカルトチックな分かりやすい説明の誘惑に身を委ねてしまえば何かが楽になれるのかもしれませんが、他人からのそうした刷り込みに対して無防備でいるのは危険なことだと私自身は感じます。
 教祖やメンターなんかの顔色を伺って生きるくらいなら、彼らの言う地獄とか不幸な生き方とやらでのびのびと暮らしていきたいですね。


※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/03/12/175400
※そのプロレス的世界観を支えている「記述信仰」の実態を、簡単な図にしてまとめています。

http://mrbachikorn.hatenablog.com/entry/2014/07/06/051300