間違ってもいいから思いっきり

私たち人間は、言葉で物事を考えている限り、あらゆるものを「是か非か」と格付けする乱暴な○×ゲームに絶えず影響されています。ここでは、万人が強制参加させられているこの言語ゲームを分析し、言葉の荒波に溺れてしまわないための知恵を模索していきます。

常識の方程式

 世間での言葉の使われ方について、私がとことん追究し始めたのは数学を専攻していた大学生のころ。
 私は物心ついた頃からずっと、人の行動を仕切りたがる押し付けがましい言葉の圧力に違和感を覚えており、他の要領の良い子たちのようには上手く折り合いをつけられずに育ってきました。

 そんな私にとって、数学とは一番分かりやすいシンプルな世界でした。
 何せ、意味の分からない他人の主張に気兼ねする必要がなく、ただただ一定のルールに則して納得のいく理屈を積み重ねれば良いだけなのですから。

 そうした自分の心理傾向に気付いたのは、大学で1年間数学を学んだ後の19歳の頃。
 ゲーデル不完全性定理選択公理集合論ε-δ論法といった数学の基盤を知るにつれ、数学とは「圧力に左右されない言葉のやりとり」を望む温室志向の学問なんだと考えるようになりました。

 数学における真偽の基準は公理というルールに則っているかどうかだけで決まり、現実世界のように多数派の圧力に左右されることはありません。
 数学が、すっきりしない現実とは無縁に見える机上の言語ゲームだったからこそ、現実世界の理不尽な押し付けを消化できなかった自分にとっては理解しやすかったのです。

 この頃から私は、数学という理路整然としたゲームの世界に逃げ込むことを止め、都合や力に左右される現実の世界との向き合い方を検討し始めました。
 そんな学生時代に練り上げた、私なりの常識の方程式を今回は紹介したいと思います。

 まず第一に、この世界を動かしているのは都合と力です。
 すべての人間、すべての動物、すべての生物、すべての物質、すべてのエネルギーにはそれぞれの都合があり、そうした各々の都合がぶつかり合うことによってこの世の中は動いています。
 そうした都合と都合のぶつかり合いの結果がどのように現れるかは、そのときどきのプレイヤー同士の力関係によって変わります。

 当時の私は、こうした「世の中の都合と力のバランス」についての理解のことを「常識」だと再定義しました。
 それまでの私は「常識」という言葉に対して人並みな反発心を抱いていましたが、このような見方をすることで以前よりも前向きに「常識」と向き合うことができました。

 しかし、一般的な「常識」という言葉の使われ方はこれと異なります。
 さまざまな使われ方をする「常識」ですが、ここでは社会に上手く適応できている人のことをいわゆる「常識人」と呼ぶことにします。
 そして、己の都合と社会の都合の折り合いを付けるために先人たちが積み重ねてきた知恵の数々を「道徳」と名付けてみます。
 ではここで、これまで出てきた「常識」と「常識人」と「道徳」の関係についてまとめてみましょう。

常識=都合と力の関係についての理解≒自分の都合に対する認識

常識がある=都合と力の関係に詳しい≒自分の都合に対する認識が深い

常識がない=都合と力の関係に疎い≒自分の都合に対する認識が浅い

いわゆる常識人=社会の都合と折り合いを付けようと思う人

いわゆる非常識人=社会の都合と折り合いを付けようと思わない人

道徳=社会の都合と折り合いを付けるためのテクニック集

非常識な常識人=道徳を採用する自分の都合に無自覚な人

常識的な常識人=道徳を採用する自分の都合に自覚的な人

常識的な非常識人=道徳を拒否する自分の都合に自覚的な人

非常識な非常識人=道徳を拒否する自分の都合に無自覚な人

 ここでは「常識的であるか」と「いわゆる常識人であるか」という2つの基準で4つのパターンに分けてみましたが 、この分類は道徳を採用する際の動機付けの強さの順番で並べています。

 「非常識な人」にとって、道徳を採用するかどうかはただの個人的な都合ではなく「正しさ」という世の成り立ちに関わる問題です。
 ですから、「正しい」と思って採用した徳目はその人にとって守らねばならない原理ですし、「間違ってる」と拒否した徳目はもう二度と採用することのない信用度0パーセントの戯言です。

 しかし、それよりもいくらか「常識的な人」にとって、道徳とは100パーセントの正しい原理ではなく 、その時々の都合や力関係しだいで採用したりしなかったりする暫定的な基準でしかありません。
 ということは、「非常識な人」が自分の信念に対して一途なのに対し、「常識的な人」は自分の意見をころころ変えたりしてたちが悪いんじゃないでしょうか。

 しかしこれは「正しさ」というフィクションに染められた子どもの見方です 。
 もし、折り合いを付ける必要のある社会がたった一つしかないのなら、確かに「非常識な常識人」こそが最高の人徳者と言えるでしょうが、社会のあり方というのは一色ではありません。

 家族という社会、友人関係という社会、学校という社会、職場という社会、地域という社会、国という社会、野生という社会、さまざまな単位でそれこそ無数の社会の切り分け方があります。
 そして、社会が違えばプレイヤーの都合や力関係も変わってきます。
 つまり、社会の都合もその切り分け方によって変わりますから、「社会の都合と折り合いを付けるためのテクニック」である道徳の使い道もそれに応じて変化させられないと、それぞれの社会との折り合いが上手くいきません。

 ですから、自分が採用している道徳を変更することができない「非常識な常識人」は、社会によっては「非常識な非常識人」へと転じてしまいます。
 そして、「非常識な非常識人」ほど社会にとってたちの悪い存在はありません。
 何せ、彼らが採用している非常識な道徳は本人にとっての「正しい原理」ですから、都合や力を考慮に入れた説得というものが全く通じないのです。
 こういった人たちのことを、世の中では「原理主義者」と呼びます。

 このはた迷惑な「原理主義者」にならないためには、それぞれの社会の都合と力の関係がどうなっているかをとらえる感度が重要になってきます。
 そしてその感度が高ければ高いほど、多様な社会の都合と上手く折り合っていくことができます。
 つまり、都合と力の関係に通じた「常識的な人」であれば、どんな社会でも臨機応変に対応することで「常識人」になれる可能性があるわけです。

 このような思索の結果、私は「いわゆる常識人」ではなく「常識のある人」を目指したいと思いました。
 つまり、その時々の自分の都合を満たすために、効果がありそうな道徳なら採用するし、邪魔になりそうな道徳なら採用しないという柔軟さを高めていこうと決意したのです。
 狭い社会でしか通じないテクニックに意固地にこだわったせいで、今いる社会と折り合いが合わずに結局は自分の都合が満たされないなんて目には会いたくありませんでしたから。

 それから15年ほどが経ち私も社会人になりましたが、学生の頃に打ち立てたこの方針は未だに揺らぐことはありません。
 これからもこの常識の方程式を活かしながら、移ろいやすい言葉の荒波を生き抜いていきたいと思います。

 

※当ブログの主なテーマは、この世界を支配する「正しさ」という言葉のプロレスとの付き合い方。

mrbachikorn.hatenablog.com
「正しさ」というゲームの最大の欠陥は、何を「正しい」とし何を「間違ってる」とするのかというルールや、その管理者たるレフェリーが、実際にはどこにも存在しないということ。
人類はこれまで数え切れないほどの論争を繰り広げてきましたが、それらのほとんどは「レフェリーの代弁者」という場を仕切る権限をめぐっての権力闘争でした。
 
「レフェリーの代弁者」という立場は、自分の個人的な要求でしかない主張を、まるでこの世の既成事実のように見せかけるための隠れ蓑です。
「それは正しい」とか「それは間違ってる」という言い方で裁きたがる人たちは、私はこの世のレフェリーの代弁をしているだけなんだという迫真の演技で己の発言の圧力を高めていたのです。
 
演技の迫力とは、演技者が役にどれだけ入り込めるかで決まるもの。
人々はいつしかレフェリーの代弁者のふりが説得のための演技であったことを忘れ、「どこかに本当の正しさがあるはず」といった物語を本気で信じこんでしまいます。
こうして人類の間には、「正しさ」という架空のレフェリーの存在をガチだと捉えてしまう、大がかりなプロレス社会が成立していきました。

そのプロレス的世界観を支えている固定観念の源を「記述信仰」と名付けました。
以下の記事では、この「記述信仰」の実態を上のような簡単な図まとめて解説していますので、ぜひご一読ください。

mrbachikorn.hatenablog.com